禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

今、ここ、私、そして実存

2022-11-05 18:33:13 | 哲学
 「私は今ここにいる」という言葉は、誰がいつどこで言っても正しい言葉すなわちトートロジーである。トートロジーは情報としてはなんの意味をも含んでいない。試しに、そばに居る誰かに向かって「私は今ここにいる」と言ってみよう。多分相手はけげんな顔をして「そんなこと分かっている」と返してくるだろう。

 その言葉は無意味だが「私が今ここにいる」ということは、ある意味なによりも重大な意義があることでもある。それは私が今ここに現実に生きているということだからである。哲学用語ではそれを「現実存在」略して「実存」と呼ぶ。それで、「私が今ここから」ものごとを見る視点を実存的視点と言う。それに対し、客観的視点というのはこの世界の全体を正確に見渡せるような高みにある架空の視点のことを言う。
 
 客観的視点というのはわたしたちが生きていくうえで必須のものである。遠くにある目的地に行くには(客観的視点から描かれている)地図がなくてはならない。ロケットを宇宙に飛ばすには、ここと今を特別視しない客観的な時空間座標の中でものを考えなくてはならない。客観的視点があってはじめて科学的な思考が可能になる。大抵のことは「客観的な世界が私とは独立に存在している」と考えた方がスムースにことが運ぶのである。それで、私とは独立に存在する世界のことを「客観的世界」と呼ぶ。大抵の人は「客観的世界というのは私がいてもいなくても存在する」と考えているのではなかろうか。

 しかし、あくまで客観的視点というのは架空のものである。私自身を素朴に反省すれば私は私の実存的視点からしかものを見ない。客観的世界というのも推論によって実存的視野の中に構成されたものに過ぎないのである。もう少しわかりやすく説明してみよう。例えば目の前のテーブルにリンゴが一つあるとする。客観的世界観によれば、私とは無関係に先ずリンゴがそこにあるということになる。そして、リンゴから反射された光が私の目に入り視神経を刺激して、その結果私にはそのリンゴが有ることを認識する。それが客観的世界観のメカニズムである。なにを言いたいかと言うと、実際のところは話が逆だと言いたいのである。実存的視点に立つならば、先ず、丸くて赤いものが見えている、それが原事実である。その原事実をもとに「そこにリンゴが有る」と想定しているのである。つまり、「そこにリンゴが有るから、赤くて丸いものが見えている」のではなくて、「赤くて丸いものが見えているので、そこにリンゴが有る」と想定している、というのが真相であると言いたいのである。

 決して客観的世界観が悪いと言っているわけではない。前にも述べたが、それがなければ私たちは円滑な生活を送れない。しかし、同時に私たちは現実存在であることを忘れてはならないと思うのである。生身の人間として生きていることを実感するということが大事だと思う。決して実存的視点を見失ってはならないと思うのである。「私は今ここにいる」という言葉は情報としては意味をもたないと前に述べた。それはそうだろう。まず実存があって客観的世界が構成されるのであって、その逆ではない。だから、実存を客観的世界の中で位置づけようとしてもそれはできない、「私は今ここにいる」としか言いようがなくなってしまうのだ。

 その言葉に意味はない、しかし、その意味のなさを通じてその意義を感じて欲しいのである。その意味のなさという点で、それは赤ん坊の「おぎゃぁ」という叫びと同じニュアンスがある。不安や恐れそれに驚きといったあらゆる感情がないまぜになっている。たった一人でこの世界の中にいるそういう感覚の表現としてである。

先日、南足柄市の矢倉岳に登ったときトリカブトの花を見つけた。

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