禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

保科正之

2024-08-11 16:35:25 | 雑感
 ドラマの水戸黄門を見ていると江戸城への登城シーンで天守閣が映し出されていた。これは時代考証の点でかなり問題がある。というのは江戸城の天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失していてその後再建されることはなかったからだ。徳川光圀は1628年生まれだが、明暦の大火の頃はまだ二十代の青年だった。ドラマの「水戸黄門」は光圀の隠居後の話なので、江戸城に天守閣がある訳はない。

 天守閣の焼失後、直ちに再建されるべく加賀前田家によって石垣の天守台が築かれるが、 そこで待ったをかけたのが保科正之である。彼は先ず江戸の復興が大事であり、防衛上も大して効果があるかどうかが疑わしい天守閣などに費用と労働力をつぎ込むべきではないと主張したのである。それで以後天守閣が再建されることはなかった。結局徳川政権270年の内の大部分200年間は江戸城に天守閣なしだったのである。

 正之は第二代将軍秀忠とさして身分の高くない女性の間に生まれた子であった。当時の制度では、側室として認められるには正室の許可が必要とされていた。秀忠は天下の将軍なのだから堂々と正室にその旨申し入れすれば良いと思うのだが、なぜかそうはせずに秘密裏に信州高遠藩主である保科正光にあずけられたのである。秀忠の正室は美人で有名な浅井三姉妹の末娘お江の方、つまり淀君の妹でもある。秀忠とお江の中は良好であったらしいが、美人の奥さんに対して多少の気遣いがあったのかも知れない。結局お江の方には正之の存在は伏せられたままであった。

 正之が保科正光にあずけられたのは結局幸運だったかもしれない。我が子を預けるなら誰だって実直な人を選ぶはずである。正之自身もやがて立派な名君として謳われるほどの人物に育ったのである。徳川家の庶子は「松平」姓を名乗るのが通常であるが、彼はその出自が公になった後も終生「保科」姓で通したのは養親に対する恩義を感じていたからであると言われている。

 一般に身分の高い武家においては兄弟の情というものは育ちにくいとされている。生みの母とは切り離されて乳母に育てられるからだろうか、血の通った実の兄弟より乳母の息子である乳兄弟の方がより近しい関係になる場合が多い。(春日局の息子である稲葉正勝は家光の信頼厚く、最終的に8万5千石の大名にまで取り立てられている。) 三代将軍徳川家光と駿河大納言徳川忠長はともに秀忠の正室お江の方の子(家光はお江の子ではないという説もある)でありながら、子どもの頃から仲が悪くライバル同士でもあった。家光が将軍となった後に、「謀反の疑いあり」として忠長は切腹させられている。
家光と忠長はお互いに嫌い合っていたが、正之はこの両人からともに好かれているのである。おそらく正之は誰が見ても私心のない人と分かる、そういう人だったのであろう。

 征夷大将軍という孤高の権力者である家光は孤独であったに違いない。彼にとって何よりも信頼できる相談相手が必要であった。腹違いの弟に対する彼の傾倒ぶりは一方ならぬものであった。四代将軍となる彼の息子家綱に対し、「(正之を)兄と思い、頼りなさい。」とまで言い残している。正之は家光の期待に応え、家綱の後見人として大いにその手腕を発揮します。

彼の主な施策を挙げると、
 ・殉死の禁止
 ・江戸城防衛の観点から反対する者がいたにもかかわらず、玉川上水の掘削を
  すすめた。
 ・大名の死後後継ぎがいない場合お家断絶となり浪人が増えてしまうので、
  末期養子制度を認めることにした。
 ・明暦の大火の際に町人に対し16万両もの救済金を施すことを老中らの反対を
  押し切って実施した。

等々、彼の政策は常に民心の安寧と平和を志向していたと言える。そして関ヶ原以後未だ残っていた荒々しい戦国的風潮の武断政治から文治政治への大いなる変換をもたらしたとされています。徳川の平和な治世が270年も続いた第一の功労者に挙げる人もいます。
  
 正之は結局会津23万石を与えられ会津松平家の始祖となるのだが、家光の厚い信頼に対し恩義を感じ、家訓の第一条に次のように書き残している。

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

「徳川宗家に忠義をつくさないものは私の子孫ではないから誰も従ってはならない」というのである。この家訓は後々まで忠実に守られることになる。幕末においても、会津藩は最後まで幕府軍の中心として明治政府に抵抗することになったのである。

 現代から見れば、保科正之も権威主義的な封建的秩序の中の倫理観に従ったに過ぎないと言えるかもしれない。しかし、私心なく誠実につくすという態度はいつの時代の政治家にも要請されることだと思う。保科正之のような政治家が現代にも出てきてほしいものである。

江戸城天守台。結局この上に天守閣は作られなかった。

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