禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ドラマ「水戸黄門」について考える

2024-10-25 11:22:19 | 雑感
 時代劇「水戸黄門」は私が大学生の頃始まり、それから半世紀も続いたというお化け番組であります。正直に言うと、当初からこの番組のことを内心では馬鹿にしていました。権威主義的で安っぽい勧善懲悪もの、悪代官の命令に従っている木っ端役人を散々痛めつけたあげく、三つ葉葵の印籠をかざして「ひかえおろう」と見えを切る。はじめから身分を明かしておれば事情を知らない下っ端の役人たちは助さん角さんにどつかれる必要は全然ないわけで、どう考えてもその正義心には底意地の悪さが潜んでいるように感じてしまうのです。そんなわけで、私はこの番組を敬遠しておりました。

 ところが私はこのところ平日の夕方は水戸黄門の再放送を欠かさず見ているようになってしまった。放送のない土日の夜はなぜか物足りなく感じるほどの中毒状態と言っても良いほどなのです。いつもいつもおなじような筋書きで、しかも時代考証もリアリティも皆無で、安直な正義感を満たす軽薄なドラマという見方は変わってはおりません。しかし、面白いものは面白いと認めざるを得ないのです。もしかしたら私が年とったということかもしれません。私の父親は晩年近くなってからは時代劇ばかり見ていました。水戸黄門も欠かさず見ていたはずです。

 年寄になると時代劇が好きになるということはあるのかも知れません。しかし、水戸黄門について言えば私の子供達も結構好きだったようで、私の娘は小学校の修学旅行に行った折、三つ葉葵の紋所が入った印籠のおもちゃを買ってきて悦に入っていたほどです。やはり、老人だけでなく広範な人の心をつかむ普遍性がなければ半世紀も続くドラマにはなり得なかったでしょう。

 「水戸黄門」はどう見ても権威主義的で安っぽい正義感に貫かれたドラマだと思います。それが、全ての人の平等と民主主義を是とする近代精神と相容れないことは明らかです。それでも人々は水戸黄門に快哉をおくる。(私も含めて)人間は民主主義よりも、本当は超越的な立場からものごとを裁断する存在を望んでいるのではないでしょうか? そのような気がしてなりません。天下の副将軍の権威のもとに悪代官一味を懲らしめる。悪代官の命令に従っているだけの木っ端役人まで散々どつきまわしたあげく、印籠を振りかざして「頭が高い、控えおろう!」と土下座させる。それを見て留飲を下げる我々視聴者はやはり底意地の悪いとしか言いようがない。

 私たち人類の長い進化の過程をはほとんどが生存競争のための闘争の歴史でした。生き残るために必要なのは正義か悪かではなく味方か敵かということだったでしょう。リーダーに従って敵は完膚なきまでに叩きのめす。そうやって現在生き残っているのが私たちです。 そのように考えると、人間の平等を目指してプロレタリアート革命を成し遂げたはずの中国、北緒戦、ロシアなどが一向に民主化できないことにも説明がつきます。理性によるイデオロギーはきっかけに過ぎません。「民衆のために」と頑張ってきたはずが、ちょっとした路線対立がもとで血で血を洗うような闘争に発展します。そうした中では生存競争の原理のもとに強力なリーダーのもとに従って敵をぶっ潰すことが至上命題になるのです。対立する勢力を根絶やしにしても,リーダーの権威は残ります。今度はその権威を維持するために、粛清が続きます。結局、社会主義国の統治は権威主義を脱却できないのです。

 問題は社会主義国だけに限りません。森友学園事件に関する財務省文書改ざん問題、兵庫県知事パワハラに関する公益通報問題、いずれも自殺者まで出しています。このような理不尽な事件がなかなかなくならないというより、世間には似たような状況が日常化しているのではないかと考えられます。それは私たちの本性が権威主義に非常になじみやすい、というところからきているのではないかと私は考えています。

 たわいもないはずの水戸黄門からえらいところまで話は飛んできましたが、私たちの本性の中には理不尽なものが潜んでいる、ということは覚えておかなくてはいけないような気がするのです。
 
信州 小布施の喫茶店で(記事とは関係ありません)
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