禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

紀州・興国寺について

2018-08-25 10:36:32 | 雑感

日本禅宗四大道場というのをご存じだろうか? 那須の雲厳寺、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺を指すらしい。永平寺や聖福寺は納得だし、雲厳寺も有名だけれど、紀州の興国寺なんて聞いたこともないという方が多いのではないだろうか。なにを隠そう、この寺は約半世紀前、高校生だった私が修行のまねごとのために通ったお寺だ。由緒あるお寺だということは知っていたけれど、とても四大道場と言われるほどの印象はなかった。専門道場の看板は掲げていたけれど、師家が一人に雲水が一人だけというようなさびしい状況だった。

インターネットで調べてみると、「四大道場」説もすべて雲厳寺の宣伝ホームページであるというのもちょっと引っかかるけれど、興国寺の法堂には「関南第一禅林」という額がかかっている。確かにそのように勢いのある時代もあったのだろう。


興国寺は鎌倉時代の創建で御開山は心地覚心禅師(法橙国師)である。禅師は宋に渡り、無門関を編纂したことで有名な無門慧開の法を嗣いだ。無門関とともに味噌と醤油、それと尺八を日本にもたらしたのも禅師である。当地の名産品である「金山寺みそ」の名の由来は、禅師が修行していたことのある径山寺における味噌の製法を倣ったものであることからきている。

下の写真はかつての山門跡地である。かつては広大な寺領を有していたらしい。


うっそうとした林の向こうに風格のある石垣が見えてくる。


私が田舎にいたころはまだ「法燈派大本山」の看板を掲げていたが、現在は妙心寺派の末寺となっている。


近在は海岸の美しいところである。当寺を訪れた際は、是非、白崎海岸などに足を延ばして紀州の海岸美を堪能していただきたい。

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神秘とは、世界があるというそのことである

2018-08-23 12:47:17 | 哲学

20世紀最高の哲学者であると言われるウィトゲンシュタインは、著書『論理哲学論考』において次のように述べている。

 6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。

世の中にはいろいろと不思議なこともあるが、本当に不思議なのは「世界がある」というそのことだろう。人はいろいろ疑問を持つが、「なぜ世界はあるのか?」という問いほど根源的な問いはない。ジム・ホルトの「世界はなぜ「ある」のか?」を読むと、西洋ではこの問題に対して膨大な知的エネルギーが注ぎ込まれたことがわかる。しかし、考えれば考えるほど、この問題に対する解はないことが明白になってくるのである。科学が進歩すればやがてビッグバン以前のことがわかるかもしれない。しかし、科学は所詮現象の推移を説明するだけのものに過ぎない。そもそもそのような現象を有らしめる世界と法則が存在することを説明することはできないのである。

釈尊は、我々の経験が及ばない領域についてのことは言及しなかった。このことを指して「無記」と言う。「経典に記されていない」ということである。仏教は超越的なことは言わない。形而上のことは疑似問題として判断を避けたのである。

であるから、「世界はなぜ「ある」のか?」という問題についても、当然「無記」である。つまり、現前するこの世界はそのまま受け止めなければならない。それが仏教的諦観である。諦観といっても単にあきらめるというようなネガティブなものではない。現にあるものはもうすでに否定しようがない以上、それを引き受けるしかないという覚悟のようなものと言った方がよいかもしれない。

無記というのは「世界はなぜ「ある」のか?」という問いかけをしないということではあるが、「世界が「ある」」ということへの感受性まで捨て去るということではない。むしろ敬虔な仏教徒であればあるほど、「世界が「ある」」ということへの畏敬の念は強いと言える。

栂ノ尾の明恵上人は供の僧と野道を歩いていた時、ふと歩みを止めて道端の一輪のすみれに目をとめた。そしてはらはらと落涙したという。供の僧が訝しんでいると、上人はこう言ったそうだ。「誰が、この花をこのように染めたのだ、誰がこの花をここに咲かせたのだ。測り知れない仏縁。仏様がここにおられるではないか。これがどうして、合掌せずにおられようか。どうして、涙せずにおられようか。」

われわれはこの世界の根拠を知ることはできない。言わばこの世界は偶然の世界である。私達は無常の大波にもまれる子船のような存在であるとしても、それでもとにかく生きているのである。考えてみれば、それは絶妙なことではないだろうか。


※ 関連記事 =>  庭前拍樹 ( 無門関 第三十七則 )

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神の存在論的証明

2018-08-20 09:44:02 | 哲学

前回記事に引き続き「世界はなぜ『ある』のか?」(ジム・ホルト著)から、神の存在論的証明というものをご紹介したい。中世ヨーロッパ神学者、聖アンセルムスは初めて神の存在を純粋な理論によって証明しようとした人である。その論証過程をジム・ホルトは次のようにまとめている。

 ① 神は、想像し得る何かのなかでもっとも偉大である。

 ② 単なる想像上の何かよりも、存在する何かの方が偉大である。

 ゆえに、③ 神は存在する。

①は問題ない、それが神の定義なのだから。問題があるとすれば②だろう。西洋人が考える神の「偉大さ」というのはすべての能力と性質を兼ね備えているという意味があるのだろう。だから「存在する」という性質もその「偉大さ」の中に含まれているということになる。

したがって、もし神が存在しないものであると仮定したら、私達はそれが存在することを想像することができるのであるから、「神以上のもの」を想像できることになってしまう。それは神の定義としての①に矛盾するから、神は存在するはずだという理屈である。

要は①のの定義の中に、「存在するもの」が含まれている。だから、③は結局「存在するものは存在する」と言っているに等しい。たいていの日本人の感覚からすると、いわゆる屁理屈の部類に入るものだが、当時のヨーロッパの最高の知性が真剣にこういうことを考えていたのである。

この「存在するものは存在する」という結論を、カントは「哀れなトートロジー」と呼んだ。本当なら「『存在するもの』と定義されたものは存在する」と表記しなければならない、見せかけのトートロジーである。当然のことだが、『存在するもの』と定義されただけでは存在するとは言えないのは、小学生でもわかる道理である。

アンセルムスは1000年も前の人であるが、驚いたことにこうした努力は現在も引き継がれているのである。20世紀における最高の論理学者と言われるクルト・ゲーデルまでもが「様相論」という高度なツールを使用して、神の存在を証明したと言われている。アンセルムスの証明の仕組みは私でも理解できるほど簡単なものであったが、ゲーデルの方は難しすぎてよく分からない。もしかしたら、本当に神さまはいるのかも知れない‥‥。



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世界はなぜ「ある」のか?

2018-08-18 10:40:21 | 哲学

東日本大震災の際に、被災した人々が過酷な状況の中でも、恐慌をきたさず秩序正しく協力し合っていたことに対して、世界中から称賛の声が寄せられた。こういうことから見て、日本人は西洋の人々に比べて現実を受容する力が強いのではないかと考えられる。おそらく日本人の精神の深層には仏教による影響があるのではないだろうか。仏教的諦観というのは現実に起こってしまったことは受け入れるしかないということを言う。現前する事実を前にして、自分の望むべき架空の状況に執着することは無意味であると仏教は説く。ところが、西洋の人々にとっては、神が造り給うたこの世界は理性が行き届いているはずのものだから、著しい理不尽さというものは受け入れがたいものになるはずである。もちろん個人々々による違いの方が大きいだろうが、大雑把に言ってそのような傾向があるのではないかと思う。 


「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 という疑問も、日本人と西洋人では受け止め方に相当隔たりがあるのではないかと思う。想像するに、大方の日本人にとってこの問題は、「そんなこと考えたって分かるわけねぇじゃないか」という話になるのではないかと思うのである。しかし、西洋人にとってこの問題は我々が考えている以上の切実さがあるらしい。先日から、ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか?」という本を読んでいて、つくづくそういうことを感じたのである。この問題はまた神の存在論的証明と関連付けて論じられている辺りにもうかがえる。 


【 ここには、次のような、より重大な問題が潜んでいる。論理のみで、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いに答えられるだろうか? 純粋な思考によって、無に必ず打ち勝つ現実の存在を獲得できるだろうか? バートランド・ラッセルはこう述べた。「どの哲学者もイエスと言いたいと思っている。その理由は、哲学者の仕事は、観察ではなく、思考によって世界に関することを解明することだからだ」。そしてラッセルは、もし「イエス」という答えが正しければ、純粋な思考から確固とした存在への「橋」があると申し添えている。 】( 文庫版 P.201 より ) 

バートランド・ラッセルは私より何十倍も頭が良いことは認めるが、彼がここで述べていることは私には妄想としか思えないのである。いかなることも、事実を経験することから始まるのである。なんの事実(観察)もなく、無の状態から思考(論理の運用)が動き出すということはあり得ない。いくら考えても「イエス」という答えは出てくるはずもない。論理学の大家であるラッセルがそんなことをわきまえていないはずはないのだが、「イエス」と言いたい衝動を持て余しているように見受けられる。やはり西洋文化はロゴスによって支配されているとしか言いようがないような気がする。

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むもん法話集より

2018-08-15 16:10:06 | 雑感

故山田無文老師は日本臨済宗を代表する名僧にして講話の名手でありました。生前は日本中をまわって講話をされました。私も二度ほど実際に聴いたことがあります。本日は「むもん法話集」の中の話を一つ取り上げたいと思います。 

一時期「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子さんのお話です。老師がこの話をされますと、大の男でも泣いてしまうほど感動してしまいます。

彼女は3歳の時にかかった凍傷がもとで 特発性脱疽となり、両手両足を失います。手は肘まで、脚は膝くらいまでしかなくなってしまったのです。貧しい畳屋の娘に生まれますが早くに父親が亡くなり、母親は同じく貧しい畳屋に後沿いに行きます。久子さんとしては当然肩身の狭い境遇であります。継父には「家にはいらん子がおる。穀つぶしがおる。」とよく言われたそうです。体裁が悪いということで、人目に触れぬように屋根裏へあげて放っておかれたこともあったようです。 

その頃の日本はまだ貧しく福祉もなかなか行き届きません。学齢期になっても彼女を引き受けてくれる学校はなかったのです。家で義兄や義姉のお下がりの本で勉強し、鉛筆や筆を口にくわえて字を書く練習をしました。 

久子さんのお母さんはすごく厳しい人だったようです。自分なきあとの娘の行く末を慮ってか娘には何でも自分でやらせようとしたようです。人間の努力というものはすごいもので、裁縫や縫物、掃除と身の回りのことは大抵できるようになりました。でも指のない彼女になかなかできなかったのが火をつけることです。細かい作業は口でやっていたのですが、マッチ棒を口にくわえて擦ると息ができません。息を吐くと火が消えるし、吸うと火を吸いこみます。すこし顔を動かしただけですぐ顔に火がかかります。

お母さんは「自分の炬燵の火くらい自分で入れなさい。」と言います。娘は「お母さん、これだけはできません、堪忍して下さい。」と言いましたが、「できんことはありません、幾月かかってもよいから、できるまでやりなさい。」と返されます。

工夫に工夫を重ね何千回も失敗しながら、とうとう自分でマッチを擦りその火を七輪の紙くずにつけ、火を起こしてたどんに火をつけて、それを肘までの手にはさみ、炬燵に入れるまでにやり遂げたそうです。 

臨済宗では公案といういわゆるお題を師家から与えられます、大概はわけのわからん内容のものです。公案をもらったら、今度はそれを「工夫」すると言います。実は、久子さんが「炬燵に火を入れる」という課題に取り組むその「工夫」は公案に対するものと全く同じなのです。「指を使わずに炬燵に火を入れよ」という絶対不可能性、それは公案の構造そのものであります。不可能であろうと何であろうと、それを突破せねばならないのが公案であります。何千回も無心にマッチを擦ろうと試みる、禅者がこの話に格別の共感を覚えるのはこういう所にあります。いたいけな少女が最難関の公案に挑みかつそれをやり遂げる、禅の大家である無文老師が彼女にこの上ない尊敬の念を注ぐ理由であります。

彼女のお母さんもまたすごい人であります。大概の人はここまで心を鬼にはできません。自分の手で炬燵に火を入れてやった方がはるかに自分は楽です。「どうせあんたには無理だわよ」というような親や教育者の態度がどれだけ子供の可能性を摘んでいるかもしれません。考えさせられる話であります。 

彼女は19歳の時に見世物小屋に身売りされます。「ダルマ娘」という触れ込みで、不自由な手で裁縫し、口に筆をくわえて字や絵を描くところを見せるのです。「ダルマ娘」という呼称には嘲笑と蔑みが含まれています、彼女とてこのんで選んだ道ではありませんがそれ以外に自活の道はありませんでした。 

やがてある雑誌に投稿した手記によって、彼女の存在が広く知られるところとなり、方々から講演の依頼が来るようになります。それをきっかけに彼女は嫌だった見世物から足を洗い、全国で講演をして回るようになります。しかし、この講演生活はどうも彼女の性にあわなかったようです。今まで地を這いずるようにして真剣に生きてきた彼女にとって、他人様より高い所に立って話をする自分の中に湧きあがる傲慢さに我慢ならなかったと言います。彼女は悩みやがて歎異抄に出会いそして親鸞に傾倒して行きます。 

≪ 与えられた境遇より他に、如何とも出来ぬ私でした。それより他に致し方のない自分なのでした。自己をはっきりと見せて下さった。そして、自分の行くべき道を法の光に照らして下さった親鸞様。爾来(じらい)、私の崇拝の的は人間親鸞様であります。業(ごう)のある間、何十年でも見世物芸人でいいではないか。やめろと、仏様がおっしゃるときが来たら、やめさせてもらえばよい。来なかったら業の尽きるまで芸人でいよう。こうした決心がついたら、煮えたぎっていた坩堝(るつぼ)は坩堝(るつぼ)のまま坩堝(るつぼ)でなくなりました。≫ (自伝『無形の手と足』より)

「坩堝は坩堝のまま坩堝でなくなりました。」

 世の中にはすごい人がいるのもであります。

コメント (2)
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