禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

不立文字

2018-08-11 09:24:29 | 哲学

前回記事「仏教的世界観 無常と空 その4」において、私は次のように述べた。

【ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じているのだから、客観的な境界というものはあるはずもなく、「差異」は生まれようがないのである。】

すると、ある人から「もし差異というものが存在しないのだとすると、『変化』というものも存在し得ないのではないか?」というご指摘を頂いた。まことにごもっともな意見である。ものごとを固定的に見なければ差異は生じようがないが、差異が無ければ変化というものもないわけである。変化が無ければ「無常」というものもないのではないかということになる。本心を言うと「無常というものもまた無い」と言ってしまいたい気持ちもある。言い訳じみて恐縮だが、やはり「空観」を言葉で説明することの限界というのもあるのだという気がする。

言語を使用する限り、必然的に抽象化というものが避けられない。多様な差異を同一の観念へ押し込めて、差異を構造化したものが言語空間である。「空観」を言葉で表現すること自体が背理といえよう。

≪ 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における過誤(あやまり)をみて固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたくしは見た。」(雑阿含経より) ≫-「原始仏教」(中村元)P.50

空観を積極的に思想として説くことはできない。あくまで、個々の事物に執着する態度を反省していくしかないのである。仏教学者の中村元先生によれば、龍樹の『中論』も実は論争の書であり、説一切有部の概念の実在論に対し、帰謬法でその矛盾を突く形式で論じられているということである。つまり、イデア的実在論の矛盾をついているのであって、独自の立論をしているわけではないのである。龍樹もやはり「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。」という態度を貫いているのだ。

哲学者たる私は空観をどのように取り扱えばよいののだろうか? 語りえぬものについては指し示すしかない。そのためにはとことん語りきるしかないような気がする。

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仏教的世界観 無常と空 その4

2018-08-08 06:07:13 | 哲学

「 始めに言葉ありき」という言葉が象徴するように、西洋においては言葉に対する万能感が強い。「思考しえること」=「語りえること」の図式が強固に信じられている。しかし、あるがままに自然を見ようとする仏教的視点から見れば、そのようなロゴス信仰が反自然的原理を招き入れる源となっていると考えられるのである。

中島義道先生はわが国におけるカント研究の第一人者であるが、その著書『後悔と自責の哲学』の中で、次のように述べている。

【 言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな「同一のもの」の繰り返しとして見えてきてしまいます。】

自然は流動しているから常に多様な差異を生み続けている。しかも、微細に見れば同じことの繰り返しなどそこにはないはずである。双子と言えども細胞レベルで見れば同じということはないし、しかも不断に変化し続けているのである。ここで「差異」という言葉を使用してしまったが、その言葉は本来「同一」の観念があってこそ成り立つ概念である。ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じているのだから、客観的な境界というものはあるはずもなく、「差異」は生まれようがないのである。

そのままだと世界はカオスのままであり、人間は生きていくことができない。カオスの中からなんとか似たパターンを読み取り、ゲシュタルトを構成する。よく似たものを同一と見なし、それ以外のものの間に恣意的な境界を設けるのである。

「山は山に非ずこれを山と名づく」というのはその辺の事情を表す言葉である。我々が「山」と呼んでいるものも、他の場所に比べて岩や土が多く比較的盛り上がっている、そういうものにすぎない。土や石をひとかけらずつ取り除いていくと、いつか「山」とは呼ばれなくなる。そこで山と非山の境界はないことが分かる。実体としての山というものはもともとなかったのだ。

同様のことは、物の名についてだけではなく、人間の行動についても言える。例えば、「走る」という行為について考えてみよう。「走る」というのは左右の足を交互に前に出し進むのは「歩く」と同じだが、足を生み出す際に両足が地面から離れる、つまり一瞬空中を飛ぶような動作のことを言う。

ここで一つ想像していただきたい。普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を縮めていくとする。最終的にその歩幅が1ミリメートルになったら、他人から見ればそれは片足ずつ交互に「その場飛び」をしているとしか見えないはずだ。「走る」ということの本質は存在しないのである。

いかなる言葉にも突き詰めてみればその本質は存在しない、概念はすべて恣意的であると知るのが「空観」である。

龍樹は『中論』という論文の中で、次のように述べている。

  すでに去ったものは去らない。
  いまだ去らないものは去らない。
  現在去りつつあるものも去らない。

「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかるとしても、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、不合理な気がする。一見屁理屈のようだが、龍樹は「去る」という行為の本質が存在しないということを言っているのである。

中村元先生によれば、『中論』は説一切有部という学派への反論の書である。言葉の本質を認めるような教説は無常や空の否定につながる。龍樹はそのことを認める訳にはいかなかったのである。

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仏教的世界観 無常と空 その3

2018-08-06 08:27:41 | 哲学

先日テレビを見ていたら、強制収容所の生き残りの人の証言というのがあって、恐ろしい話を聞いてしまった。その人の妹さん(当時6歳)はガス室送りになってしまったらしい。

「ガス室で死ぬということがどういうことだか分かりますか? そこでは弱い者が強いものの踏み台になるんですよ。ガスで死ぬには十数分かかります。その間ずっともがき苦しみ続けるわけです。誰もがもがき苦しむ中で、弱い者が踏み台になる。ガスは下から充満していきます。かすかに残った空気を求めて、皆他人を踏み台にして少しでも上に這い上がろうとするんです。」

これを地獄というのだろう。しかし、現実にあったことである。弱い者を踏み台にした人もこのことをもって悪人と決めつける訳にはいかない、平穏な社会に生きておれば、おそらく良き社会人としての人生を全うできたはずの人である。ガス室というのは極端な例であるが、人間が人間としての矜持をどこまで持ちこたえるべきかという線引きはなかなかできない。そういう意味で究極的には善悪というものは存在しない。

歎異抄第十三条で親鸞は唯円に対し、「 人を千人殺してみよ。そうすれば往生は間違いない。」と言ったのに対し、唯円は「私のような者の器量ではただ一人でさえも殺すことができません。」と答えたところ、親鸞は次のように述べたとされている。

「 これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」

心が善いから殺さないというのでもなく、また殺そうなどと思ってもいなくても、大勢の人を殺してしまうということもある。しょせん人間の所業は状況(業縁)に支配されているのである。そこには善というものもなければ悪というものもまたない。

親鸞は終生「自分は悪人である」との自覚を持ち続けたが、それはおそらく最初は絶対善があるということを信じていたからだと思う。幼い頃は仏教には絶対善を実現する超自然的な力があると考えていた。しかし、比叡山に入って学んでいる間に、仏教というものがどうやらそういうものではないということが分かってきた。また、彼の生きた時代が過酷であったということもあるだろう。日常的に行き倒れの人を見かけるような世相であった。本当に善人であれば、自分より困窮している人を見過ごすことはできないはずだ。ある意味、人を踏み台にしなければ生きていけない時代でもあったのだ。善い人は生きて行けるはずがないのである。そういう意味で、人間には悪人しかいないのである。

親鸞はまた性欲の旺盛な人であったらしい。飢えた人をしり目に自分は喰らい、あまつさえセックスまでしたがる。自分のことを「心は蛇蠍の如くなり」と評している。絶対善があるという前提だと、蛇蠍は邪悪なものの象徴かもしれないが、よくよく考えれば蛇蠍も生きて行かなくてはいけないのである。人も蛇蠍も同じなのは当たり前のことであるが、やはり親鸞は絶望していたのだと思う。親鸞は「絶対他力」と言うが、一切皆空を標榜する仏教には「絶対」という言葉は本来馴染まない。しかし、あえて「絶対」を強調するのは、もう他に選択肢はないという切羽詰まった覚悟を表している。生身の人間は行において善であることは不可能である。救われるためにはもう「よきひとのおおせ」を信じるしかないのである。

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。 総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。 そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。】(歎異抄第二条)

絶対善はないとしても、私達はできれば善人でありたいと願っている。しかし、ここまで達成できれば善人であるというような都合の良い基準というものは存在しない。さりとて、「私は悪人でござい」と居直るのも浅薄というものだろう。中道の道というのは安易な結論を提供してくれないのである。私達は無常の中に生まれた愚かで無力な存在であっても、善を希求する姿勢を失ってはならない、親鸞はそう言っているような気がする。



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