禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ブラフマンの夢

2021-04-11 05:32:04 | 日記
 いろんな人と議論する中で、「この世界はブラフマンの夢である」というようなことを言う人がいた。一人だけではなく、二度同じ趣旨のことを聞いたので、そのような通説が流通しているのだろう。しかし、それが夢であるというなら、その夢を見ているのは間違いなく私である。この世界がブラフマンの夢であるなら、ブラフマンとは私のことでなければならない。
 そのうちの一人が言うには、ブラフマンはわれわれを超越した存在で、その夢の中の登場人物さえも意志を持つのだと言う。だとしたら、夢の中の登場人物に過ぎない我々が、どうしてその超越者について知ることができるのだろうか。そもそも、それを「夢」という言葉で表現すべきではない。「ブラフマンは世界を創造している」というべきだろう。

「この世界はブラフマンの夢である」とはロマンチックな表現だが、哲学とは無縁だと思う。「夢」という言葉のつかい方が間違っているだけのような気がする。
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後の祭りと自由

2021-04-09 05:49:33 | 哲学
 前回記事では、「未来は決定している」という言葉の意味を誰も理解できない、というような直感的にはちょっと受け入れがたいようなことを述べた。御坊哲はまた変な理屈をこねているだけではないのか、と思われた人がいるかもしれない。もう少しそのことを実感できるような例について考えてみよう。

 大学入試の合否判定は教授会の合否判定会議で決定する。判定はたいてい合格発表の前日以前に決定しているのが通例である。だから、合格発表当日には「既に合否は決定している」わけである。ところが、発表当日に孫娘が掲示板を見に行った時、おばあちゃんは仏壇の前に座って、ご先祖様と仏さまに「どうか孫娘を合格させてやってください。」と、孫娘が電話で結果を知らせてくるまで祈り続けていたのである。

 おばあちゃんは「既に合否は決定している」ことは知っていたと言う。知ってはいたが、祈らずにはいられなかったというのである。どうだろう。本当にそのことを知っていたのなら、いくら神仏に祈ったところで、なんの意味もない、いわば「後の祭り」である。わたしはやはり、おばあちゃんにとって、「既に合否は決定している」という言葉の意味は分かっていなかったのではなかろうかと思うのである。

 「未来はすべて決定済である」ということが正しかったとしても、崖の上から石が落ちてくるのを見たら、私は大急ぎでそれを避けようとする。ラプラスの悪魔は私に、「崖の上から石が落ちてくるのも決まっていたし、お前がそれを避けるのも初めから決まっていたことだ。」と言うだろう。もし、私が「すべては決定済」だから、あえて避けようとするのはやめておこう。」と思ってじっとしていたら、石が頭に当たって大けがをしてしまった。その場合も、ラプラスの悪魔は、「お前が避けずに石に当たってけがをすることも決まっていた。」と言うに違いない。要するに、未来が決まっていても決まっていなくとも同じことなのだ、ラプラスの悪魔は決して事前にそのことを教えてくれない。

 「未来は決定している。」という意味不明な言葉と「自由意志」を関連付けるのがおかしいのである。立ちたいと思えば立つ、座りたいと思えば座る。それが「自由」ということである。われわれは「自由」という言葉をそのように使っている。それ以外に「自由」の意味はない。

富士山本宮浅間大社(富士宮市)
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「未来は決定している」という言葉の意味

2021-04-08 06:28:15 | 哲学
 日本を代表する哲学者である大森荘蔵は「決定論の論理と自由」という論考の中で「空虚な決定論」ということについて論じている。その一部を引用してみよう。

≪ 伏せて重ねたトランプを見て、「一番上の札がなんであるかは知らないが、なんであるかはきまっている」という時、一体何が言われているのだろうか。この言葉を聞いて、それを聞かない前に比べて、私の知識が些かでも増しただろうか。この言葉はどんな情報を伝えようとしているのだろうか。元来、この言葉にはなんの情報も含まれていないのではないだろうか。私にはそう思える。‥‥‥‥≫

ということで、このような言明について大森は「経験的に無内容」であると表現している。一体、哲学者は何を言っているのか? 大森は「伏せてあるトランプの一番上の札がなんであるかは開く前から決まっている。」という言葉の意味がわからないと言っているのである。たいていの人はそんなことを言われれば面食らってしまうだろう。

 大森は言葉(命題)の意味というものをその言葉の真偽の条件であると考えているのである。つまり、その言葉が「どういう場合に正しい、あるいは間違っている」ということが分かっていないと、その言葉を理解しているとは言えない、ということを主張している。例えば、「雪は白い」という言葉の意味について考えてみよう。雪が白ければその言葉は正しいし、もし雪が黒ければ間違っている、ということが理解出来ていれば、あなたは「雪が白い」という言葉の意味を理解していると言ってよい。では、「伏せてあるトランプの一番上の札がなんであるかは開く前から決まっている。」という言葉はどういう場合に正しいと言えるのか? と、大森は問うている。

 ニュートンが力学の法則を発見した時、人々はそのあまりの正確さと精妙さに驚き、「この世界の全ては物理法則に従って動いているのではないか。」という考えられるようになった。問題は、人間の精神活動までもが物理法則に従っているのではないかということである。もしそうだとすれば、人間に自由意志などと言うものはない。未来はすべて機械論的に決定されていることになるからである。
 
 では、「未来は決定している」という言葉はどういう場合に正しいと言えるだろうか? もし、AI技術が進歩して、コンピューターがどんなことでも予測出来てそれがずばずば当たる、そういうことがあれば「未来は決定している」ということが言えるだろう。しかし、そんなことは原理的にありえない。未来を正確に予測するためには、この世界の全要素について勘案しなければならないが、コンピューター自身がこの世界の一要素である限り、自分自身の計算結果そのものについても計算しなければならないという循環におちいってしまう。

 つまり、厳密な未来予測は絶対不可能であり、「未来は決定している」という言葉の真偽について、その検証方法を私たちは持ちえない。「未来は決定している」と言葉では簡単に言えるが、その言葉の意味を私たちは理解しているとは言えないのである。そして、もし「未来は決定している」かどうかを「人間は自由である」かどうかの根拠だと考えているなら、「人間は自由である」という言葉の意味もまた理解していないと言えるだろう。

いちょうの若葉が美しい。
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そういうふうにできている

2021-04-06 18:33:33 | 哲学
 新生児の顔を覗き込むと、「ニカッ」と笑うことがある。その笑顔を見せられると、どんな人も心和ませられるものがある。おそらく、赤ちゃんの笑顔に抵抗できる人などいないだろう。しかし、学者に言わせると、あれは反射なのだそうだ。赤ちゃんは面白くて笑っているわけではなく、大人が顔を覗き込むと反射的に笑うことになっているというのである。

「『自分が笑うことで周囲が易しくしてくれる』という、赤ちゃんなりの自己防衛手段だと考えられています。」

 このような説明の仕方をされると、まるで自分が赤ちゃんにだまされているようである。「反射」と言う言葉には意思を伴わない「機械的」な反応というニュアンスがあるからだろう。進化論的見地から言えば学者は言うことは当たっているのだろうが、私に言わせれば、この「反射」こそが人間の根源ではないかと思うのである。「そういうふうにできている」とでも言えばよいだろうか。赤ちゃんの生理的微笑に対して沸き上がる感情は、決して勘違いなどではない言いたいのである。それが勘違いだというならば、男女の性愛などというのも大いなる勘違いであるということになってしまう。ただお互いに勘違いしあっているので、勘違いしているということに気がつかないだけだという説明もできる。赤ちゃんの微笑は一方的な勘違い、恋愛はインタラクティブな勘違い、ということになるだろうか。 
 人間を超越した視点から見下ろせば、どのような人間的行為もニヒルなものに見えてしまう。赤ちゃんの微笑も男女の性愛も、すべては生存のため種族繁栄のためという話になってしまい、そこには唯物的な現象が繰り広げられているだけのことになってしまう。
 しかし、私達はあくまで人間である。すでに価値観を持った人間として生きていることを忘れてはならない。人間でありながら人間以外を生きることなどできないのである。赤ちゃんの微笑は我々にとってとても重要な価値がある。そこに価値が見いだせないなら、人生そのものにも価値はないのである。
神代桜(山梨県 北杜市)
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小林秀雄小論(中原中也)を読んで

2021-04-04 07:07:59 | 読書感想文
 中原中也の手による「小林秀雄小論」なるものがある。(原文はこちら==>「青空文庫・小林秀雄小論」) 私は自分でも中原のかなりのファンであることを自認しているが、この小論に関しては天才詩人の書いたお粗末な散文としか思えない。内容はまったく意味不明である。ただ小林秀雄に対する悪意だけが明瞭に読み取れる。
 小林は自分の恋人を寝取った男だから、憎いと思うのは当然だろう。しかし、文学者であるなら、自分の文章に対してはもっと誠実でなくてはならないように思う。小林秀雄を批判したいのならもっと率直に批判すれば良いのであって、ヴァニティがどうたらこうたら小理屈をこねるのは、子供の見え透いた負け惜しみにしか見えない。 この文章を、小林の「中原中也の思ひ出」とを比べると、どうしても中原の未熟さが際立っているように見える。もし私が長谷川泰子だったとしても、18歳の中原よりも23歳の小林の方を選んだのは、当然だったような気がする。
 分銅惇作による伝記「中原中也」には彼の交友関係について、次のように記されている。
≪ 中也ほど身勝手な詩人はいないであろう。彼は接触する相手が誰であろうと、学ぶものは学んだうえで、自己流の切り捨て方をする。相手の弱点を看破すると、小気味よく裁断する。それは時に意地悪く、独善的であって、彼の友人たちはいちように不快な被害者意識に悩まされることになる。≫
 同じ伝記には、河上徹太郎の言葉として「中原中也その三巻の全集だけ精読して、理解している人があれば羨む。」と述べたとある。そうであれば、純粋に中原中也を愛することができるから、という意味だろう。とにかく、彼の友人(というより文学仲間と言うべきか)による彼の評は総じて芳しくない。小林秀雄が長谷川泰子から逃れるように出奔した際の中原のはしゃぎようについて、大岡昇平は次のように表現している。
≪中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配してゐる人間のそれではなかつた。もめごとで走り廻るのを喜んでゐるおたんこなすの顔であつた。

 彼の周囲から、彼の文学的才能以外について、彼を好意的に評価する声が聞こえてこない。年少でありながら、とにかく口が達者で他人を言い負かしては、相手をへきえきさせる、そういった人物像だけが浮き上がってくる。それでも仲間から見放されなかったのは、彼の才能が本物だったからだろう。彼が30歳の若さで夭逝したことは何とも残念なことである。適うことなら、成熟した中原中也を見たかったと切に思う。

鎌倉・寿福寺隧道 中原の終の棲家は寿福寺境内の借家であった。彼もこの隧道を何度もくぐったに違いない。
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