ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

キングダム・オブ・ヘブン(とってもネタバレ)

2005年05月28日 | 映画
来月観に行くつもりだったのですが、ふとスケジュールを確認したら、今観に行かないと行く暇がない・・・と気がついて、昨日突如駆け込みで観てまいりました。もちろん?レイトショーです。
事前にあらすじを聞いていた限りでは「つまらなさそう・・・」と思ったのですが(汗)思っていたのとはかなり違う話でした(汗)宣伝間違ってると思う・・・
でも面白いかというと、ちょっと微妙でしたが・・・(汗)
最初はいいかなあと思ったんですよね。自分の境遇への怒りを内に秘めて鉄を打ちまくるオーランド・ブルームはカッコよかった。鍛冶屋がこんなカッコよくていいのか、と思いました(笑)
でも一番カッコよかったのはその場面でしたが・・・(汗)
映像も、最初の方のフランスの田舎の光景が一番綺麗だったような気がします(汗)
不満と怒りを秘めて「聖地」に向かうことを決意した・・・と言っていいのかわかりませんが、とりあえずエルサレムに行くことにしたバリアンの姿は、「聖地」を求めるキリスト教圏の人々の心境を上手く表していたかもしれません。
そのバリアンが、聖地でも「神の赦し」を感じることができず、最後には「神は存在しない」(もしくは存在していても人間に直接赦しや助けを与える存在ではない)という結論に達する、という物語なんだと気がついたのは、最後の戦いの直前のバリアンの演説で、でした。
残念ながら、そこに至るまでのバリアンの気持ちはよくわからないです(汗)描かれてないのか、演技力不足なのかは不明ですが(大汗)まあ監督の責任でしょうね(汗)
物語がとんとんと進んで、レイトショーにも係わらず眠くなることもなかったのですが(いや戦闘シーンで寝ました(汗))、その分「もうちょっと余韻があってもいいのに」という場面が多々ありました。バリアンの心情もそんな感じでカットされていたような気がします。
じっくり描きすぎで長すぎた「アレキサンダー」と対照的ですが・・・(汗)個人的には「アレキサンダー」の方が好きです。映像の美しさもあっちの勝ち(汗)
結局のところ、ストーリーの進行を主人公を描くことよりも優先しているように思えました。それはそれでいいのですが、それにしてももうちょっとバリアンの行動に説得力が欲しかったです。
新聞の評などを読んで、「アメリカ人が喜ぶような結末でいいのか」みたいなことが書かれていて心配?していたのですが、それはなかったですね。確かにキリスト教徒がイスラム教徒と戦って一応勝利?しましたが、あの状態では戦うしかないでしょう。戦いの原因はエルサレム側にあったし。それに、結果的にはエルサレム開け渡してるんだし、全然「キリスト教徒がイスラム教徒に勝った」というシチュエーションじゃなかったし。
私は逆に、今このご時世に、キリスト教徒とイスラム教徒の友好という、あまりにストレートな題材を描いていることがなんだかむず痒かったです(汗)その描き方がまたストレートだったし。
過去の史実から教訓を導き出すのはいいんですが、あんまりストレートだとスマートじゃないと思いますね(汗)時代が違うんだから。どうもトールキンのおかげでアレゴリーアレルギーになりつつある私・・・(笑)
そういう意味ではあのエルサレム攻防戦で戦うのはいいんじゃないかと思いました。むしろサラセン人と友好を、と頑張るエルサレム王側の人々がなんだか白々しく思えてしまった・・・(汗)
エルサレム王側の人々が白々しく思えるのは、イスラム教徒を殺せ、という人々がまたあまりにストレートに悪人だったせいもありますが(汗)「トロイ」といい、戦う両国のどちらも悪ではない、という設定のために悪役を主人公の味方側の誰かにしてしまってるんですねえ。「戦うどちらも悪ではない」という設定自体はなかなか良いアイディアだと思いますが、やっぱりどうしても悪役は必要なのかしら、と考えてしまいます。(サラセン側にもそういう役回りの人たちは一応いましたが、悪役ではなかったからなあ)
まあ、一部で言われていたほどイスラム教徒を馬鹿にした作品ではなかったと思います、全く。実際にイスラム教徒の人たちから見たらまた違うかもしれませんが。サラディンは良き指導者として描かれてましたし、卑怯なことをしたのは全てエルサレム側だったし。かなりイスラムに配慮していたと思いますが。
でも、なんだか感動はできなかったです。やっぱりどこか白々しく思えたからでしょうか。バリアンの演説もなんですが・・・(汗)
ところどころ良いところもあったんですけどね。最後にエルサレムを明け渡す前にバリアンがサラディンに「ここに何の意味があるのか」というようなことを問い、サラディンが「無だ。そして全てだ」と言った言葉が印象的でした。
それから、イスラムの挨拶を、最初はサラディンがアラブ語(?)で、それに対してエルサレム王が英語で答えるのですが(両方アラブ語だったかな・・・)、その言葉を最後の方では、バリアンがアラブ語で言い、サラセン人の貴族(名前憶えてません(汗))が英語で答える、なんてあたりはちょっと良かったですね。
この挨拶の意味、私はたまたま観に行く前にcamelgirlのさやかさんが日記で書いていてくださったので、よくわかってとてもよかったです。もしかしたらプログラム買うと書いてあるのかもしれませんが、意味を知らないという方はぜひ読んでください! 5/25、26の日記に書いてらっしゃいます。

しかしどうしても疑問なのが、バリアンはなんで急に強くなったのか(汗)たったあれだけの剣の訓練であんなに強くなるの? ボロミアに稽古してもらったくらいでオークと戦っちゃうメリピピのようだ(汗)ウィル・ターナーはちゃんと密かにトレーニングしてたぞ(笑)
どこで戦略を憶えたのかも謎。エルサレム攻防戦ではあまりのひらめき様に「あんたは諸葛孔明かい!」とツッ込みたくなりました・・・(汗)
またバリアンの策略が皆上手く行ってしまうのも白々しいというか(汗)
そして、最後に生まれた村に帰っちゃってたけど、司祭殺ししたのにいいのか?(汗)エルサレムでの功績でチャラになったんでしょうか。うーん。
シビラはいらないと思いましたが(汗)まあとても綺麗だったので目の保養にはなりましたが。
そうそう、エルサレム王の仮面によそ行き用があったのがなんだかとてもウケてしまいました・・・(笑)
そういえば、ケレボルンのマートン・ソーカスが出ていると聞いていたのに、エンドロールで名前を見るまですっかり忘れてました・・・(汗)
必死で誰だっけ、と頭の中でモンタージュした結果、「あ、シビラの旦那か・・・」(名前覚えられてません(汗))
うーん、あんな濃い人をエルフにしようなんてよく考えたもんです・・・(笑)

という訳で、そんなに気に入る作品にはなりませんでしたが、色々と考えるところはあったので、見に行った甲斐はあったかなあと思います。
コメント (4)
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「指輪物語」世界を読む-我らが祖父トールキン-

2005年05月28日 | 指輪物語&トールキン
以前から買おうとは思っていたのですがついつい後回しになっていたこの本をついに買いました。
今まで何度も手に取っては「またにしよ」と本棚に戻していて、置かれる場所もファンタジーコーナーから児童書の棚に移りましたが、多分何度も私が手に取ったのと同じ本を買ったと思います。
「結局買うんなら早く買えよ!」と本に思われてたりして・・・(笑)
読むのは後回しに、と思っていたのですが、読み始めたら面白くて、ちょっと読んでしまいました。
「指輪物語」について書かれた本というのはたくさんありますが、結構自分とは見方が違ったりしてあまり面白く感じないことがあったので、あまり手が伸びないのですが、この本についてはおもしろいらしいと聞いていたので、買おうかなと思った次第です。
以前読んだものといってもマーク・エディ・スミスの「指輪物語の真実」だけだったりするのですが(汗)あと今読んでいる「Unsung Heros of the Lord of the Rings」と。
前者は登場人物たちの行動からキリスト教の「美徳」を、後者は脇役?の「英雄性」を取り出して論じているのですが、どうもこじつけに思えてしまうと言うか・・・とにかく自分の感じ方とは「なんか違うなあ」というものだったのです。
でも、この本はなかなか面白いです。まだ最初の方ですけど・・・(汗)
この本が面白いのは、多分皆ファンタジー作家である、という点にあるのかもしれませんね。
まずは編者のカレン・ヘイバー氏、続くジョージ・R.R.マーティン氏、レイモンド・E・フィースト氏は、「面白いと思いつつもそんなにのめり込めなかった派」のようなのですが、それでも「指輪物語」の影響が大きいことを、ファンタジー作家の立場から書いています。
3人が語る内容にはダブる部分も多いのですが、ここで私ひとつ誤解していたことを発見(汗)「コナンシリーズ」に代表されるアメリカのヒロイック・ファンタジーって「指輪物語」の影響で生まれたのかと思っていたのですが、そうじゃなくて、「指輪物語」が売れたことによって、再評価されて売れるようになったのですね。
この中でレイモンド・E・フィースト氏が副題になっている「我らが祖父トールキン」というフレーズを使っています。ファンタジー作品を書く作家は、直接トールキンの影響を受けていなかったとしても、なんらかの形でトールキンの影響を受けている、ということを書いています。自分がファンタジーを書いて作家として成り立っていけるのも、トールキンがファンタジー小説への需要を目覚めさせたおかげなのだと。
そして、一人飛ばして(汗)マイケル・スワンウィック氏の書いたエッセイがとても良かったです。今まで読んだ中で一番「そうそう!」と思う評論でした。
例えば、サウロンをヒトラー、一つの指輪を原爆に例えるようなことは、作品を矮小化することだ、というのにはうんうん、と思いました。
もしこれを読んだ時点でまだトールキンが寓意を嫌ったことの意味を理解していなかったら、多分この文章を読んで「そうか!」と納得していたことだと思います。
サムとゴラムがフロドの善の面と悪の面を表す、というのには「ほう」と思いました。ゴラムはわかりますが、サムについてはそういう風に思ったことがなかったので・・・
「フロドなしのサム単独では、(善人すぎて)信用ならない」という説にもまた深くうなずいてしまったり。確かに、サムのフロドへの深い愛情がなかったら、善人すぎますよね・・・(それって映画のサム・・・(汗))
そう言えば、カレン・ヘイバー氏だったかが、「サムが鼻についた」と書いてました。それを読んだ時には「ええー?」と思ったのですが、スワンウィック氏のこの言葉を読んだらなんだか納得してしまいました。
原作のサムで鼻につくなら、映画のサムはどうなるんだろうか・・・(大汗)
その他にもとてもいいことを書いてたんですが、今すぐに出てこないです(汗)
スワンウィック氏は、このエッセイを書く少し前に息子に「指輪物語」を朗読してあげたそうですが、その時に息子が感じた物語と、大人である自分が感じた物語が全く違うものだったと書いていたのも興味深かったです。
私は残念ながら子供の頃に「指輪物語」に出会えませんでしたが、子供の時に読んでいたら、私にとって中つ国はどのように見えたでしょうか。
そして、最後を読み終わった時に、息子はショックを受けて「いやだ!」と叫んだのだそうです。素直な冒険物語として読んでいた子供にとって、あのラストは衝撃的ですよね・・・大人である私だってショックでしたから。
スワンウィック氏は、大人の自分にとってはあのラストはとても大事なことで、省略すべきではなかったから、子供が聞いたらどう思うかに気がつかなかった、子供のためには最後を変えて聞かせるべきだったかもしれないと後から思ったそうです。
スワンウィック氏は、灰色港での別れを、やはり「永遠の別れ=死」と重ねて受け取っているようでした。
私も同じように感じます。設定上では「死」ではないし、サムもいずれフロドに会えるかもしれないけれど、それでも物語を読む私たちにとっては「永遠の別れ」であると思います。
そういう意味で、もっとストレートに「西へ行く=死」と捉えたPJ映画は私は悪くないと思っているんですが。
そして、「省略すべきでない」あの灰色港のラストをちゃんと描いてくれたという点だけでも、PJ映画は評価に値すると思っています。戴冠式やホビット庄への帰還までで終わらせてしまうことは充分に考えられることだったのですから。本当に、あのラストには救われましたよ・・・

と色々書いてしまいましたが(汗)面白いのでまた読んだら感想書きたいと思います。
実は後の方でちょっと問題発言?している人がいるらしいんですよね~。実際どんな風に書いているのか、読むのが楽しみです(笑)
コメント (2)
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