※ご注意: 何においても、何を書いても悪用する人たちが出てくるけど、羽生選手がこの下のインタビューの中で語っている「確信」についての「根拠がない」という表現は、いわゆる謙遜であって、「真の天地創造主の神様からくる使命としての何かに対する強い情熱」と、「ただの自己誇大妄想による思い込み」というのは、根本的に、そして決定的に全く違う性質のものです。
前者は、真の神様からのみくるもので、その人に、使命として与えられているもののために備えられている「情熱」や「意欲」に支えられていて、なぜかはわからなくても、その使命がある間は、消えないものです。
後者は、悪魔の誘惑としてやってくるもの、で、いわば、高慢と欲望と勘違いの果ての姿です。
両者は、決定的に違います。どのような実を結んでいくかでわかります。どうぞお気を付けください。
*****************************
こちらは、今から約1年前の、2019年7月16日にUPした内容です。かつてP&Gの会員ページで公開されていた、インタビュー内容(2019年のものと2015年のもの)ですので、当時から知っている人も多いかと思いますが、
上に書いたように、二つは全く違います。
この両者の違いや差がはっきりしたことは、むしろ神様からの恵みです!
「2度と繰り返されないために」「今後のためにも」「他の選手たちのためにも」さらに、「未来のためにも」そして「羽生選手の未来のためにも」改めて内容をご紹介しておきたいと思います!
さらに、今年の7月19日に放送されたアスリートのテレビ初公開映像を特集した番組で、羽生選手についても放送され、2018年に福島の小学校を訪問した時の様子の、未公開映像が流されました。そこでの内容を追加してご紹介しておきます。 映像はこちらです(UP感謝です)
Q: 羽生選手は、小学校の時はどんなお子さんだったのか?(先生が子供たちの前で質問)
羽生選手:「小学校1年生とか2年生の時は、同級生のおっきな女の子に、おんぶされたりとか、投げ飛ばされたりとか…(笑)そんなこともありましたし…あとは…なんか…なんだろ、「ドーン!」「ドーン!」(←ドスの効いた声で表現(笑))と、されてたよ。」
「先生たちに渡されたプリントとか、良く忘れてました!ホントに。あの…家庭訪問とかでよく先生方に、『いやーなかなか提出物が出ないんですよね』って言われて… そういう子供だったんですけど。」
心の支えにしていたある存在についての告白:
「僕は、プルシェンコ選手っていう…」「その人にずーっと憧れて、僕はスケートをすごく頑張ってきました。」
「自分が好きなヒーローとか、自分が憧れている人とかで… そういう人たちの正義の味方とかね、そういうね、力を、自分でも持っているって思ってください。みんなが正義の味方だから。」
「でも、正義の味方になるためには、いっぱいいっぱい、勉強して、いっぱい、皆よりも苦しい想いをしたら、絶対強くなるから、がんばって下さい!」
…今頃公開されているのが、ちょっと遅すぎで残念ですが、でも、たとえ今頃であっても、羽生選手が語っている映像がきちんと公開されたことは感謝です!
羽生選手がこういう人だというのは、羽生選手の今までの言動を「普通に」見ていれば、
当然のように、よくわかるはずだと思うんですけどね…!
意外でも驚きでも何でもない映像でした!(笑)
(これに驚いているような人たちは、あまりにも「一部の」、
特定の目的や思い込みや妄想で意図的に印象操作をしてイメージを作り上げようとしてきた、本当に羽生選手をわかっているわけではない人たちに、
全く違う人物像を押し付けられて、勝手に思い込んできただけです。
羽生選手は、素を隠してなどいないし、気合は入りすぎることはあっても、別人になど全くなっていないし、演技派なタイプではなく、むしろ芸術肌です。
普段からそこら中で、素直に率直に、表現していますけどね!
私が別ページで書いている、「多重人格」という「別人格」を持つ人々(多重人格障害/ 解離性同一性障害、その他の演技性人格障害、反社会性人格障害、といった人格障害)というのは、根本的に全く別のタイプの人たちですので、誤解なきようよろしくお願いします。
わざと混同させようとする人たちには、どうぞご注意下さい!!)
*********************************
初掲載:2019年7月16日
新シーズンが始まりました。
五輪2連覇を達成してなお、今まで以上にやる気に満ちているという羽生選手ですが、
このブログでは、今までと同じように、
出来るだけ羽生選手の想いを正しく伝えつつ、
本当に羽生選手の応援になると思えることだけを、徹底していきたいと思います!
さて、以下は、P&Gの Yuzu Days に、2019年の6月になって、最後に掲載された、
羽生選手が質問に答えた、インタビュー内容です。 (写真はカット)
五輪2連覇への強い想い、確信のようなもの、「使命感」があったのが、いつからか、答えていますので載せておきます。
Q&A
Q 子供の頃から「オリンピック2連覇」に自信がありましたか?
5、6歳くらいの頃からかな?「オリンピック2連覇をできる」と思っていました。自信か確信かと言われれば、「確信」という感覚に近いです。…って、すごく大きなことを言ってしまっていますね、僕(笑)。でも根拠はないし、そのときの自分が特別なものを持っていたわけじゃないんですよ。でも、子供ながらに根拠のない「使命感」のようなものに燃えていました。
もし、連覇を達成した今の自分が、少年時代の自分に一言かけるなら、、、「ここから先、辛いよ。大変だよ。。」と、声をかけると思います(笑)。
Q インタビューなどで見せる「ボキャブラリーの豊富さ」は、どのようにして培われたものなのでしょうか?
そんなに自分ではボキャブラリーが豊富だとは思っていなくて、もっと芸術や本などを見たり読んだりして知見を広げたいと思っています。言語能力ということについてあえてあげるなら、毎日その日あったことや考えたことをノートに書いているので、自分が考えたことを言葉にするという習慣は昔からあるかもしれません。
あ、あと、今思ったのですが、自分が姉と二人兄弟の末っ子のせいか、「伝えたい」という気持ちが大きいんですよね。感じたことを伝えたいという子供の頃の欲求がもしかして言語能力のようなものに結びついているのかも・・・というのは少し思いますね。二番目がお喋りという定説です(笑)。
Q スケートでジャンプしているときの時間の感覚って
どのような感じなんでしょうか?
ジャンプしている時間の感覚は、うーん、少し長く感じるかもしれませんね。でも、いつもではなく、集中しきれてないときは、あっさりと一瞬で降りているときもあります。
スローモーションのように感じるときもありますね。ちなみに、平昌2018冬季オリンピックのフリーの演技の最後の「ルッツ」は、スローモーションでした。「あ、これ転ぶ。どうしよう。どうしよう。どうしよう。あ、立った!」くらいの感覚です。すごく長く感じました(笑)。
Q 羽生選手にとって、「幸せ」とはどういうものでしょうか?
幸せな瞬間は、家族団らんしているときです。こういう立場になってすごく思うのは、家族との時間がとても大切です。その時間が、どれだけ自分の心を豊かにしていて、スケートや普段の生活の中で活力になっているのをすごく感じています。
オリンピック後は、祝勝会や旅行など特別なことは何もしていなくて、日本にいて、家族でご飯食べるくらいだったのですが、本当に幸せな時間でした。家族で、一緒に食卓を囲んで、一緒にご飯食べて同じテレビ見ながら笑ったり泣いたり、そういう「団らん」の瞬間が幸せなんです。自分が素に戻れるっていうか、自分が帰るべき場所があるというのは幸せなことですね。
************
以下のものは、2015年に羽生選手が答えたインタビュー内容です。フィギュアスケートを始めた頃の話をしていますので、載せておきます。
「フィギュアスケートとの出会い」について
今や日本、ひいては世界を代表するフィギュアスケート選手となった羽生選手。スケートを始めたきっかけやその当時のエピソードを語っていただきました。
フィギュアスケートを始めたきっかけは、姉がやっていたから。当時は姉がやることには何でもついて行っていましたし、全部真似していました。その流れで、姉が通っていたスケート教室に入りました。当時4歳の僕にとって、4才年上の姉は絶対的な憧れの存在であると同時に、勝手にライバルと思って、いつか抜かそう!と思っていました。姉はなんとも思ってなかったと思いますけどね。姉を追いかけてやっているうちに、自然と引き込まれていったんだと思います。
当時は無我夢中になって練習していたのですが、スケートの魅力は何となくわかっていた気がします。スケートは非日常なものであって、普段歩くスピード以上の早さが出るし、ジャンプもスピンも陸上では考えられないような動きができる。そして、それが難しかったからこそ僕は夢中になれたと思います。
僕はとにかく負けず嫌い。実はもうその頃から“オリンピックに2回出て、2回とも金メダルを取る!”といつも母に言っていました。母は「なんでそんな自信があるの?」って、あきれていたみたいです。学校でも学芸会では主人公になりたいタイプ。だから、練習は嫌だったけれど、みんなが見てくれる試合は大好きでした。リンクをひとりじめして、みんなに見てもらえている緊張感が、ものすごく好きでした。」
…このインタビューでは、2度金メダルを宣言していた幼児期の自分を無邪気に語っていますけど、この時はまだ、羽生選手は五輪2連覇を目指していた段階で、実現出来てはいない時期だったということに注意して読んで頂きたいですね。
誰に頼まれたわけでも、強制されたわけでもない、小さい頃から、既に羽生選手の想いの中に、好きなフィギュアスケートと、今日への使命感が与えられていたことがわかりますね!
ハレルヤ♪
Q 6歳の時に出場した大会で初優勝。その後も数々の大会で頭角を現し、15歳の時には日本男子史上初の、中学生での世界ジュニア選手権金メダルという快挙を成し遂げます。瞬く間に才能を開花させていった年月は、羽生選手、そしてご家族にとってどんな日々だったのでしょうか。
「小さい頃、練習は大嫌いでした。基本的につまらないものだし、怒られるし、怒られて泣くので、いつもリンクから追い出されていました。最後まで練習ができたためしがないんじゃないかなっていうくらい。それに、小学生になるとフィギュアスケートをやっている男の子ってあまりいないんですよね。野球やサッカーをやっている子ばかりで。父が野球をやっていたので自分も野球やりたいなっという思いもすごくあって、しょっちゅうやめたいと言っていました。
「スケートやめたい」って両親に言うと、いつも「じゃ、やめれば」「野球やれば」とあっさり言われるんです。決して嫌味ではないんですが、僕も負けず嫌いなので諦めきれなくなって。それに両親は、好きじゃないものを押しつけるのでなく“好きかどうか、やりたいかどうか”を大事にしてくれました。それが一番のサポートだったと思っています。いつもその言葉があったからやめなかった。つまり“やっぱりスケートが好きだったから”だと思います。
もちろん、両親の日々のサポートなくしては続けられなかったと思っています。母はほぼ毎日送り迎えをしてくれたし、近所のリンクが閉鎖して遠くまで通うようになった時は、父も送り迎えをしてくれました。衣装を作ってくれていたのも母です。最初の試合からシニア1年目までずっと。洋裁を習ったこともないのに、型紙から作ってくれて。当時は仮縫いのためにじっとさせられていたりして、面倒くさいなあ、なんて思っていましたが(笑)、今思うとすごく支えられていたんだなと思います。 今でも、フィギュアスケーターとしての羽生結弦でもあるけれども、やっぱり一人の人間というか、「羽生家に生まれた結弦」というところも大切にしていきたいと思っています。」
家族とともにスケートに捧げた日々。スケート以外の時間は、どんな風に過ごされていたのでしょうか。学校での勉強や、遊びの時間のエピソードについても話していただきました。
「とても活発だったと思います。勉強は、始めるとハマるタイプなんですけど、国語は苦手でした。歴史や科学、数学だとかそういうのは好きでした。国語だけは、自分の中で納得できる点数は取れなかったです(笑)。放課後はランドセル背負ったままリンクに通っていたので、その分、朝や昼休みだとか休み時間にドッジボールをしたり、目一杯遊んでいた記憶があります。学校で遊んでいたという感じです(笑)。」
羽生結弦選手 ジュニア時代の成長と歩み
- 4才
姉の影響でスケートをはじめる
- 6才
千葉の「ダイエーカップ」で初優勝
- 10才
近所のホームリンクが経営難で閉鎖
- 13才
全日本ジュニア選手権初優勝
- 14才
全日本ジュニア選手権2連覇
- 15才
世界ジュニア選手権優勝、シニアデビュー - 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
- そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
- 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
- わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」
- (フィリピの信徒への手紙4章6‐9節 新約聖書 新共同訳より)