さっぷいさっぷい外語学院(生徒:ゴタ、張るカイロさん)

ご一緒に学習を!
私は先生ではありません.間違いだらけかと思います.
ご容赦下さい.

4515番:以上、ガイド試験合格まで10年以上かかった話でした

2024-07-18 02:22:34 | 日記

以上で過去の日記を終わります.合格まで10年以上かかった話でした.

——なんで?

——何か?

——なんで10年以上かかったの?

——現役じゃなかったからだよ.卒業して長年タクシー運転手だったからね.

——北海道に行った話は?

——トラック運転手をやめたとき、しばらくアルバイトで行ってました.

——そのときの日記ある?

——ないけど?

 

ないけど今、回想日記として書いたぞ~!

1983年 7月31日
礼文島 Ⅱ 1983年 7月31日~8月3日


社長宅をお暇乞いして、近くの民宿に移動。
そこは、「民宿知床」という宿で、漁師さんの家です。

旅人が集まる宿。
知床とは、地の果てという意味。文字通りここは、
日本国の地の果て。礼文島南端に位置します。

礼文島の最南端を地図でみると、あと、数100m南。

行ってみると、ごつごつした岩だらけのところ。
何もないところ。襟裳岬がなにもないように。

ついでに、襟裳岬の歌をそこで、歌ってきました。

襟裳の春は、なにもないですぅ~
ベンサシ岬も、なにもないですぅ~
なにもない夏でした~
愛もロマンも、何も生まれなかった~

8時間の徒歩コースを歩けば、ふつうは、
ロマンが生まれると聞いたんだけど~
それは~カッコいいやつだけに通用する話だぜ~


好き放題、歌ってください。無料ですので。


最南端の民宿は、「民宿はまなす」です。

そこで、礼文島滞在最終日は、
宿を「はまなす」に取りました。


  「コンサートをするから、来てくれ」


と柳井達夫さんにいわれて、宿を移したのですが、
まさか、コンサートの前座を
するなんて、想定外でした。

ギターは、コードを
かき鳴らすだけですが、一応弾けた。

 僕は礼文島の怪しげなガイド~
 C  F   C   G7

でも楽しかったです。
あんな大勢の前で歌ったのは、
あれが、最初で、最後でしょ。

来世は、歌手になるんだぜ。
その種まきをしてきたんだ。
てか。


翌日、島を出ました。船の見送りには、
「はまなす」のみなさん方、
ほぼ総出で、来てくださいました。

当時は、見送りに、紙テープを投げたのです。
たくさん投げました。
船の下には、30人ほど見送って
下さいます。

ヾ(@^▽^@)ノ

いや、30人だか、50人だか、わからない。
あちこちの民宿の人が見送りにきています。

念のため、当時の写真をみたら、
そんなに大勢ではなかった。

記憶は、薄れると共に、
数が増えるのでしょうか。
10人ほどの見送りのようです。

その中で、桃岩荘ユースの人たちの見送りは、
迫力満点でした。

「桃岩荘ユース」の見送りは、ダンス付き。
あの振付は、とても面白い。

ミツヤサイダーの踊りなどは、
礼文島最高のダンス。

面白い見送りダンスで、有名なのは、
おとなり、利尻島が本家本元。
そこのユースの見送りには、

「カッコいいやつ」

があって、またいつか、
ご披露したいと思います。


船

山田錦(ゴタ)

 

1983年 7月30日
礼文島


【礼文島香深】

とあるバス会社


社長 : おーい、山田。あんちゃん、
     悪いが、もう1日、アルバイトを
     やってけろ。


山田 : ええよ。


  20人のお客様が、マイクロバスに乗ります。
  私、山田は、ここで、観光ガイドのアルバイトを
  していました。

  8月からは、学生アルバイトが
  たくさん来るというので、
  私は、この日が最後の周遊観光
  ガイドをすることになりました。

  香深港には、船が1日数回やってきます。
  1回目は、朝7時。これは、稚内へいく船です。
  2回目は、朝8時。利尻島の船です。

  3回目は、午前10時。稚内往復の宗谷丸。
  4回目は、午前11時。利尻行きの船。 
  5回目は、午後1時。利尻島へ行く船。

  6回目、午後2時。稚内ピストンの船。
  7回目。最終の稚内行き。
 
  島の周遊観光の所要時間は、1回で3時間。
  朝7時の船のお客様を案内すると、
  次は、午前10時か、
  11時の船でやってきたお客様を
  案内します。

  そして、そのあと、午後1時の船のお客様か、
  午後2時の船でやってきたお客様をご案内します。

  船の大きさは、稚内就航の船
  が圧倒的に大きく、ほとんど、
  毎朝、7時に観光業務は、スタートします。

  港では、船が出る度、見送りの歌を歌います。


  忘れないで 忘れないで この島のことを・・・カラオケ

  民宿「はまなす」のヘルパーさんだった
  柳井達夫さんが作った見送りの歌です。  


  【午後2時】

 山田、最後の仕事です。すでに、
 バスには、20名のお客様がご乗車。

ヾ(@^▽^@)ノ


山田 : ほんなら、出発しまーす。


お客様: あんれ?
     このガイドのあんちゃん、
     おかしな言葉だがや。
     おんめ、どこさがら、きた?


山田 : みなさん、申し遅れ、すみません。
     きょうのみなさまのガイド、山田錦、
     はるばる大阪から、やってまいりました。     
     
     えーと、この中に、大阪から、きはった人、
     いてはります?

     ああ、おふたり。おめでとう。何も出ませんけど。
     東京は?
     あ、そちらの方ね。あ、あなたも、東京。

     じゃ、あとは、みなさん、札幌?

     じゃ、ないのね。あなたは?
     あ、稚内なの?そこじゃない?
     お名前は、松野さんね。

     あ、外国の方もいはりますやん。

     ワッチャ ネイム ?

ご婦人 : ジェーン。       
 

山田  : ジェーン。ハロー。じゃ、みなさん。レッツゴー。


    香深港を出発。5分で、見内神社に到着。

 【見内神社】

 香深港から、北へ5分。
 香深井という村落にある神社。
 昔、アイヌの戦争があったとき、ここから船で、
 アイヌの戦士たちは、出かけました。

 青年戦士ハンニバルも、ここから、
 宗谷へと漕ぎ出でました。

 妻、ヘレナは、いつまでも、
 ここで、夫の帰りを待っていました。

 夫は、戦死するのですが、
 いつまでも、待っていました。

 そして、とうとう、
 岩になってしまっったのです。

 それ以後、岩を見て通ると、
 不幸になるという
 言い伝えが生まれました。 

 なので、この神社は、
 人が、見なくてすむよう、道路に対して、
 反対側に建てられています・・・
 というか。

 ヘレナが、いつまでも、
 海の方向を見ていられる
 ように、との配慮ですよね。


 【金環日食記念碑】

昭和23年5月9日、ここ礼文島、キトウスで、
金環日蝕が観測されました。


  【久種湖】

アイヌの伝説では、
この沼には、アヤメが咲いていました。


ヌプリとイコップという少年が、
同じ少女に恋をします。
少女の名は、ヘレナ。
美しい少女でした。

ヌプリとイコップは、
やがて、少女をめぐって、
戦います。

大なたを振り回し、
ついに、ヌプリが、イコップを倒します。

でも、その結果、残されたふたりも、悲しみのあまり、
死んでしまうのです。
3人は、折り重なって亡くなりました。

その3人の亡骸に、
アヤメが咲き、そして、湖になったと
いわれています。



  【海中公園予定地は、スカイ岬の名に。】     

道中は、フキが群生しています。
フキ以外の場所では、くま笹が、
茂っています。
高松宮殿下がこられたときに歌を詠まれました。

 「ささなめく・・・」

 あと、忘れましたけどネ。

榛松も多い場所です。高木はありません。
それが、この礼文島の地形上の特徴です。 

島の西側、西泊という集落に着きます。

青緑色の幻想的な海です。二つの岬に囲まれて、
湖のようになっています。

島の周辺では、ウニ、アワビ、
そい。そいというのは、鯛に似た味の魚。
そして、忘れてはならないのが、コンブ漁。

夏には、磯一面に、コンブが干されます。
干すといえば、
スケソウダラも、各民家の庭に干されています。 


ヾ(@^▽^@)ノ

  【スコトン岬】

北緯45度28分。最果の岬です。
海馬島が、約1キロ先に見えます。


アメリカ人は、退屈そうです。
だって、私の説明は、日本語だから。

そこで、思い切って、
カタコトながら、中学生英語ながら、
英語ででもご案内してみた。


山田  :  This is Sukoton Cape.
       Northern latitude of
       45 degrees 28 minutes.
       Look at the island.
       It's Alaska !
      ここがスコトン岬だっせ。
      北緯45度28分。  
      それで、その島が、
      アラスカ!  

ジェーン
  さん: Oh my God.
      ひぇー。  


山田  : Not Alaska, but Todo Island.
      ではなく、海馬島です。  



  【桃岩】

250mの小さな山です。アイヌの古戦場です。
ここに、数多くの高山植物が咲きます。

私、山田が確認しただけでも、
トリカブト、チシマフウロ、ヨツバシオガマ、
イブキトラノオ、エゾカンゾウ、ミヤマオダマキ、
レブンコザクラ・・・

それから、有名なエーデルワイスは、
林道に入ったところに、群生しています。
ただし、今は、聞くところによれば、
自衛隊の敷地に移されたのだとか。

だって、もう、30年も昔の話ですから。

 
  【元地】

嘗て、瑪瑙が取れた海岸は、メノウ浜と呼ばれました。
礼文島の西海岸になります。



 3時間の周遊観光は、これで終わりです。
 6月からのアルバイトも、これで終わりました。

 バスが、港に戻ったとき、バス一杯の拍手を
 もらって、感激しました。

 なお、後日談をここに入れますが、
 ジェーンさんは、その後、9月に、大阪の
 山田宅を訪問。そのまま、ホームステイとなりました。

 そのホームステイは、1ヶ月続きました。

 昼間は、あちこと、お出かけされるのですが、夜は、
 私に、英会話のレッスンをつけて下さいます。


ジェーンさん: Nishiki-san, Let's begin the practice.
        練習するよ、英会話!


山田    : Okay let's.
        オッケー。     
  

来る日も、来る日も、英会話レッスンがつづきました。
今、思えば、教える方は、大変だったに違いない。
山田錦の脳みそは、英会話向きではなかったからだ。

 でも、まる1か月、よくぞ、耐えてくださいました。

 ただし、山田錦が、ガイドに転向するまでには、尚、
 20年以上の歳月を要しました。   

 その間、投げ出したこと、数年づつ、数回、
 これがなければ、もっと、早くにガイドに就業
 していたものを・・・

  とも、思うが、挫折することが、私の私たる所以なので、
  これで、正解なのですよ。


  おしまい
  山田 錦
 



  すけべなゴタには天国だった礼文島

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