Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

南直哉師との面談其の①

2018-11-05 | 翻訳

①あの面談からもう一年以上が過ぎた。

去年の夏、青森県むつ市恐山にある菩提寺で

南直哉師が指導する坐禅修行を受けるため日本に行った。


その坐禅修行を受けるようになったきっかけは

ずっと前の2年前から始まっていた。

否、もしかしたら私が坐禅を始めた10年前から

既にその縁起が発生していたかも知れない。


ある日、ひょっとしたきっかけに

YouTubeから南直哉師のインタビュー番組を見つけた。

当時は坐禅関連のサイトを検索していたからか

類似のサイトが自動的にあがってきたようであった。


始めは普通に昔の禅師の教えを延々と解説するくらいだろうと思って、

流したまま他の雑誌を読んでいたが、

話が「私はなぜ他人ではないのか」 になって、

次第には

「本当の自分というものが分からないから探すわけです。

もしそうだとすれば、会ったことのない人を探すっていうことは

どだい無理ですからね」

「これは、ものの考え方が

なにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね」

「それからもう一つは、

自分を探そうとして

本当の自分に出会うということになれば、

その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを

判断するのは誰なのか?という話になりますよね」

になった時は、

あれ?これは私がずっと知りたかったことなんだけど?

と驚きがあった。

 

南直哉師の恐山関連ブログ記事のURL

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0b1cb7456a1a2b1924eaed94846498c2

『メディアの言葉』

 

それから、ビデオを最初から戻して

注意を払いながら再度観始めた。

その日は、連続して同じビデオを繰り返し観て、

私が何を掴んだのかを頭で整理した。

それから、南師関連の他のサイトも全部調べ始めた。


その中で分かったのは

この南という僧侶は今まで見てきた僧侶と全く違うということだった。

この人は自分に初めから何かの疑問があって苦労してある答えを得て、

それを言葉で表していると思った。

話のトーンも自然で

どこか深いところから湧き出るような印象を受けた。

また他のビデオからも一貫した態度が見えたから

この人は全てどこでも自分で勝負している人のように見えた。


その日、私はこの人の本を訳すと決めたのであった。


その決心をしてから一年後、

坐禅修行の前に事前に面談を申請し、

本を訳したいので相談したいことも伝えた。

申請した面談が受理された時は、

未来への期待と翻訳を断られるかもとの心配で

複雑極まる感じだった。


日本に行く支度をしている間は

会って何をどう話したらいいかとか、

私の言語能力をテストされるだろうかとか、

期待や希望よりは心配や不安のほうが多かった。


日本に行く飛行機の中と

青森行きの新幹線の中でも

持参していた彼が書いた本を読むことができず、

ずっと考えてしまった。


ここまでに至った経緯、

私が坐禅を始めた切っ掛け、

英語の独学中挫折した時でも諦めなかったこと、

弁護士のアメリカ人夫との結婚、

アメリカへの移住、

彼のサイトを見つけた偶然、

彼との関りを持つために始めた日本発信のブログ、


それらすべてが同じらせん状に絡まってクルクル回り、

その中心に向かって私が今、行こうとしているその事実が

一秒一秒近づいてくる切迫した緊張があった。

菩提寺までの道のりは長かったが、

その間私は持っていた本を1ページも読めなかった。


やっとロビーに着いて名前を言ったら、

デスク案内の方が私の名前を憶えていたので驚いたが、

面談の時間を知らされた時はもっと驚いた。

面談時間が予め決められてあったからだった。


予約した部屋の前に何故か、

桂蓮の名前だけ書いてあった。

アップルバウムという苗字は長くて入りきらなかったようであった。

荷物を簡単に片付けて、

面談約束の時間より早くロビーに降りて待っていたら、

背の高い、ほっそりした感じの南師が現れた。


其の二へ続く...


 

注:この面談は書きたいことが済むまでシリーズとして続行します。

  英訳はできる次第に別枠で英語版としてアップする予定です。

 

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