私がどう挨拶していいか分からなくて困っていたら、南師が
「まあま、挨拶はいいから、そこにおかけになってください」と
軽快な口調でロビーのソファを指してくださった。
その指示に従って低いテーブルを挟み南師の真向いのソファに座った。
まず、南師の初印象からは清い清潔感を感じた。
その清潔感は内面から湧き出ているようで、
長年の習慣や生活様式が蓄積されて、それが外に表れているようだった。
キメ細かい肌には動物性の油気が全くなく、
全体の雰囲気は言い難い静かな清楚感があった。
だが、意外にもあの細長い体から出た声は大きく明瞭で、
澄んでいたので驚いてしまった。
私は何を話し出せばいいのか全く見当がつかなかったのもあり、
軽く目礼をしてから黙って勧められたお茶を飲んだ。
私は大人になってから人との初対面でも緊張したことが無かったのだが、
あの時は空気が張り詰められたようで、
空気が重たくなり、また迫ってくる感じがした。
これが緊張するという状態なのかと初めて肌で実感した。
私が話せなくて困っていると察したのか、
南師がお茶の器を皿に戻しながら、
最初に私の名前をきいてきた。
続いて、どこから来たのか、
日本にどのように来たのか、
いつ日本に着いたのかなど簡単に聞かれた。
その他にも私と言う人間を取り巻く
外部的な情報に関する質問が暫く続いてた時、
この面談は私を具体的に知るための南師からの面接だと気がついた。
それらの質問を通して
南師はおそらく目の前にいる人物が、
坐禅指導を受けようとしている者、
面談を申請した者、
翻訳をしたいと申し出た者、
英訳付きの坐禅ブログを書いている蓮の花と名乗った者、
恐山ブログで外れ者とか蓮の花でコメントした者、
それらの格人物が目の前にいる人物と一致させるなど
人を分かっていく過程を丁寧にしていると思えた。
また、人の存在を大事にしてきたことが身に定着しているようにも見えた。
質問に答えている間、
私は『私という自己』が
『あなたという他己』のありさまに直面しているような
一つの自己がもう一方の自己と
真っ正面で対面している瞬間が目の前に停止しているような
時間の流れが研ぎ澄まされいて
瞬間だけが一時停止しているような感覚が一貫してあったのだが、
そのような瞬間感覚が存在する自体、
考えたことも想像すらしなかったので凄くショックを受けた。
南師は他人の自己を自分の自己とほぼ同格に扱っているのかなと
思えるくらい自他に対して丁寧であった。
思い返せば、塾をやっていた15年間、
私は自分という自己を無くすことを何よりも優先させていた。
生徒や講師のためだけにいる空気のような存在になりたかった。
私自身の個人的な欲望や目標などを忘れ、
ただ他人のためだけにいたかった。
それが日常になってたから他人に自分を説明する機会が滅多に無かった。
だからか、私の自己に関する質問に答える時間が非常に長く感じられ、
面倒にもなり飽きてきて、いつ終わるかなと思いながら
私の自分説明に疲れてしまったのを隠して
平然を取り澄ましていたら、
突然、「あなたの坐禅の基本はなんだ?」と咄嗟に
核心を突く質問になった時にはっとなって
疲れていた脳がぱっと覚めた。
「え?坐禅の基本姿勢みたいなことですか?」と聞き直したら、
「まあ、あなたが坐禅をどうみているか、どのように考えているかといった基本的な見方かね」
と補足を付け加えて下さった。
その質問に私がどう答えたか、具体的に覚えていない。
この面談の続編を書くために自分がどう答えたかを思い出そうと
必死になって記憶を辿ってみたのがどうしても思い出せなかった。
どう言ったかは覚えていないが、
脳科学の本から坐禅を知って、坐禅を実行したら、
心理学では得られなかった『自らを癒せた』
『考えの苦しみから救われた』
などの体験をしたから、
坐禅を知らない人に知ってもらいたいのもあって
もっと知ろうと自分なりに研究していて、
それが私の基本であり動機でもあったと
要点だけ伝えた気がする。
自分がどのように言ったのかは具体的に覚えていないのに
今でもはっきり覚えているのは、
南師特々の『聞き方』と『言い方』である。
何かを聞く時は慎重極まるが
聴いてからは言っていたことの要点を的確に刺す、
また、問うていることに無駄が一切なく、
その問いへの言い方は鋭くかつ明瞭で
まるで完璧に研ぎ切れた剣で
ものをきっぱり斬る切れの良さがあった。
南師のシンプルで尚且つ機敏な会話の誘導にただ従っていると
鈍かった頭がぱっと覚醒するような
極めて明瞭な何かに直面させられるような、
なんとも言い表せない緊迫感と迫力が私に迫ってくる感じがした。
その活き活きした感覚は未だに体感として鮮明に残っている。
「あなたは私の本を翻訳したいと言っているが、なぜ私の本なの?でなぜ私なんだ?」
と聞かれた時は急所を突然突かれたような、驚きで一瞬息が止まった。
そのような質問をされるとは予想さえできなかったので
突然頭をガーンと叩かれた感じになった。
だが、予想外のピンチになると
正直になるカードしか出せないので、
平然な振りをしながら、
『翻訳しようと決心した経緯』から
『なりゆきの到達点』や
『他の人がいくら正しくても私との関連が無い』
『私が訳したいのは南直哉師の本しかない』と
できる限り短く要点だけを言った。
その面談時のことを今になって
南師の立場に置き換えて考え直してみると
突然ある人がポツンとどっかから現れ、
しかもその人は翻訳をしたいと言い出してきて、
しまいにはアメリカから日本まで遥々きた、
ならば、その人が一体全体どんな人なのか知りたくなるだろうし、
知るためには分からないことを聞く、
ただそれだけのことだったのではなかったかなと思う。
だから南師にとっては、
私が質問に対して既に考え尽くしたと何らかの見做しがあっただろうから、
自分の質問が核心を突くとか、
的を射るとかは眼中に全くない
『知らないことを知る手段』にすぎなかったかも知れない。
だが、私は南師との面談では
おそらく私の言語能力を中心的に聞かれるのかと思って
英語通訳能力に関する予想質問項目ばかり用意していた。
しかし、私の質問予想解答案は見事に外れたのであった。
私の予想質問攻略編は外れたのだが、
他の思想系や哲学書に関する私の解釈の仕方を聞かれた時は、
運よく以前から考えていたことをきかれたので、
思ったことをすんなりと言えた。
また、どうやって坐禅をアメリカで紹介しようとしているかなどのプランも聞かれ、
10年後の見込みとして、今のIT社会は因果的に人の断絶を伴う、
よって次世代は心理学の治癒法や宗教の教えも効力を無くす時が来る、
その時に坐禅の需要が必然的に生じる、
なので、今その下準備として坐禅関連の翻訳を始めたい答えた。
其の三へ続く....
補足:其の二を読んで下さった方々へ
まだ、面談の一部しか書いてないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回にします。
次回はなぜ、私が今になって面談を書くと決心したかを書きたいのですが、そこまでいけるかどうか
実際書いてみないと見えてきませんので、何とも言えませんね。
英訳はシリーズを進めながらまとめて投稿する予定でいます。
このシリーズで南師の本を翻訳することになった因果関係を
公で明らかにしたいと思って書き始めたのですが、
書きだしてからこの面談編をもっと早めに書くべきだったと気づきました。