AIの知識容量に人が依存しつつある。
People are becoming rely on AI-knowledge capacity.
グーグル検索、Wikipedia、ChatGPTなどは
瞬時で全うな情報を提供してくれる。
Such as Google search, Wikipedia, ChatGPT, etc.
they provide us information that is quicker with complete form.
即決に分かる便利さは
人の知りたい欲望を満足させてくれている。
Those convenient tools allow people to take no time to know
and let the users be satisfied quickly.
この前、ChatGPTを使った時、
長い間持っていた疑問が瞬時に
しかもその場で解消される経験をした。
The other day, I experienced that
long-standing questions I had in my mind
were resolved instantly at that moment by using ChatGPT.
その呆気ない経験をしてから、
分かることや知ることは何かと
別の視点から考えるようになった。
After the stunning experience,
I conceived about knowing and understanding
from a different perspective.
ChatGPTは2日だけ集中的に使ってみたが、
何故かもう二度と開く気にならない。
I used ChatGPT intensively only for two days,
but for some reason, I don’t want to use it again.
AIから得た知識は決して
自分のものにならないと気づいたからだ。
Because I realized that
the knowledge I got from AI,
it would not be mine.
分かって、知って、それでお終いなのである。
Getting to know and understand it, that is the finish.
私が思うに、分かることは、
教える人と習う人の相互作用による連鎖反応だと思う。
In my opinion, the thing of what to know is
a chain reaction that interacts between people
one who teaches and the one who learns from.
教育はGive and Takeの原理が原動力として働いている。
Education is driven by the principle of GIVE & TAKE.
教える人がGiveをして
習う人がTakeするシステムである。
The systemic definition is
one who gives teaching and the other takes it.
そのシステムでの問題点は
習う人がTake しない限り、
Giveしたことが成立しないことである。
But the problem in the system is that
until the learner takes what was given,
the action of the given will not be linked to each other.
GiveはTakeの作用があって行為が成立する。
The giving can be given when the taking took place
and then it will be established.
外部から始めたA運動が他人の身体の内部で
学びに関連する神経伝達物質を起こせなくなると
Aの運動は方向先を失い消える。
Motion A, which started from outside,
if it fails to generate inside the other's body
by the secretions of neurotransmitters
which respected learning something
motion A loses the direction to go, and it disappears.
要するに、運動性Aが受け身Bに向けて動き、
結果Cの行動が起こる、その力動性が教育の力学である。
In short, motility A moves toward passivity B,
and both behaviors occur as a result of C,
and it is the dynamism of education.
その力学から観れば、分かる、分かったような気持ちは、
分かることへの出発点にすぎないことがわかる。
If we look at the perspective from the dynamism,
knowing or the understood-like feeling is
merely being a starting point to the processing of knowing.
だが、今のネット世界では
分かったような気持ちが
分かったことになってしまっている。
However, in the worldwide network nowadays,
the feeling that understood-like
it has become understanding itself.
分かったような気持ちだけでは、
自分が何を分かっているか説明できない。
The feeling that likely understands,
you cannot explain what you knew about.
教える者が自分で分かったことを受け身の他人に、
似たような分量や質で伝授できた時に
真に分かることが循環し始める。
True knowledge begins to circulate
when teaching one can pass on
what he or she wants to transfer to the takers
in ways of similar quantities and qualities.
分かることは曖昧さに耐えながらも
関連データを集め、そのテータで結論を出せる作業でもある。
Understanding is also the task of collecting relevant data
upon withstanding the ambiguation and
drawing conclusions from that data.
Aが言ったことをBが似たような波長で
共感することによって、Give and Takeの連鎖になり、
またTookがGiveに連動していく。
By sympathizing with what talker A said,
taker B responds with a similar wavelength,
Give and Take becomes a chain
and the motion of took interlockings to the motion of give.
知識への空腹感を安易に
クリック一回で満足させては
何だかいけない気がする。
I feel like that hunger for knowing
should not be satisfied easily with one click.
分かることは長い時間をかけて
考えを育てていくことで、
育つ生き物になっていくだろう。
Knowing takes a long term
and it will become an organic biological creature
by cultivating thoughts and nurturing.
技術面で発達して、もっと受け答えが細やかになれば、一人の時間が長い人などは話し相手がわりになって良いのかもしれないですね💡家族がいる人などは今のところ日常生活ではあまり必要性をかんじないような・・
外国語などもそうですけど、「この先生から習いたい」という、人間のみりょく(魅力)って大きいんですよね🍀🍀✨✨クリンはやっぱりなんでも「物知りな人」からお話を直接おききしたいです💛(そのほうが楽しいもん🎵)
伝えることと伝わったかどうかは別問題のようです。伝える人聞く人伝え方聞き方、ケースによっていろいろです。私はAIchatは使いません(使えない?)がネットは頻繁に使います。でも辞書代わりです(必ずしも正しいとは思っていませんが)。
AIの時代、これから色々出て来るでしょうね。厄介です。ではでは。
おはようございます
give and takeですね
私の人生の師の紀野一義先生
に40年近く教えを受けました。
先生の本で『わたしの愛する仏たち』という本がありますが、
英訳にチャレンジされたらいかがですか?
この本はAmazonで買えますので
貴女の思索の助けになると思います。
私が AI に相談することで、AI の知識領域が広がるのが嫌ですね。
誰もアクセスしなければ、AI も無用の長物です。
この人から習いたいっと感じないと
その人から何も受けたくないですよね。
日本に住んでた時に
バレエ教室を3つ通ってました。
ジムでのバレエクラス
家から近いバレエスタージオ
本格的なバレエスクール
その中で、一番習った、習いたいと今も思う人は
ジムでのバレエ講師です。
今もその先生に会いたいし、
ピルエットができるようになって
一番見せたいと思った人は
そのジムの先生でした。
後の二人は何故か忘れたいほどです。
この二人から習ったことは
特に覚えていないです。
この二人は特にプライドが高く見えたでしたけどね。
返事を書きながら、何だかジムの先生に会いたくなりましたね。
結構、深く考えてみました。
疑問が落ちたとの褒め言葉に
私なんかか値いするのかなど、
疑問が落ちた、そのような感じでも
私には、私の存在が揺さぶれるような
大きな、ルート的なことばです。
マンネリ化したブログ記事に
何か、目覚めさせるような
自分が書いたことについて
反応、応対された(深いところから)感じをうけました。
眠くウトウトしてたら
どこかで、起きろ!と叱られた感じなような
はい!もう少し
起きていようと思いました。
本当に、叱って下さって(褒め言葉で)
ありがとうございます。
40年も教えを受け続けたロコ様のほうが
もっとすごいとおもいました。
参考文献の紹介、ありがとうございます。
誰も使わなければ、死んでいきますよね。
でも、今のAIChatより
より感情的なバージョンがもうすぐ出るようですね。
最後に使ってた時に
量子力学を質問したのでしたが、
私の質問の仕方が何を問うているのか
分からないことを
どの人間より礼儀正しく答えてました。
感服しましたね。
何歩か先行ってますね。
仏陀の教えなどを
脳科学的に解説していこうかなと
思っているから
その道開き的な意味で書いてみたのでしたが、
もう見通しですね。