Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

南直哉師との面談其の②

2018-11-12 | 翻訳

私がどう挨拶していいか分からなくて困っていたら、南師が

「まあま、挨拶はいいから、そこにおかけになってください」と

軽快な口調でロビーのソファを指してくださった。

その指示に従って低いテーブルを挟み南師の真向いのソファに座った。

 

まず、南師の初印象からは清い清潔感を感じた。

その清潔感は内面から湧き出ているようで、

長年の習慣や生活様式が蓄積されて、それが外に表れているようだった。

キメ細かい肌には動物性の油気が全くなく、

全体の雰囲気は言い難い静かな清楚感があった。

だが、意外にもあの細長い体から出た声は大きく明瞭で、

澄んでいたので驚いてしまった。

 

私は何を話し出せばいいのか全く見当がつかなかったのもあり、

軽く目礼をしてから黙って勧められたお茶を飲んだ。

私は大人になってから人との初対面でも緊張したことが無かったのだが、

あの時は空気が張り詰められたようで、

空気が重たくなり、また迫ってくる感じがした。

これが緊張するという状態なのかと初めて肌で実感した。

 

私が話せなくて困っていると察したのか、

南師がお茶の器を皿に戻しながら、

最初に私の名前をきいてきた。

続いて、どこから来たのか、

日本にどのように来たのか、

いつ日本に着いたのかなど簡単に聞かれた。

 

その他にも私と言う人間を取り巻く

外部的な情報に関する質問が暫く続いてた時、

この面談は私を具体的に知るための南師からの面接だと気がついた。

 

それらの質問を通して

南師はおそらく目の前にいる人物が、

坐禅指導を受けようとしている者、

面談を申請した者、

翻訳をしたいと申し出た者、

英訳付きの坐禅ブログを書いている蓮の花と名乗った者、

恐山ブログで外れ者とか蓮の花でコメントした者、

それらの格人物が目の前にいる人物と一致させるなど

人を分かっていく過程を丁寧にしていると思えた。

また、人の存在を大事にしてきたことが身に定着しているようにも見えた。

 

質問に答えている間、

私は『私という自己』が

『あなたという他己』のありさまに直面しているような

一つの自己がもう一方の自己と

真っ正面で対面している瞬間が目の前に停止しているような

時間の流れが研ぎ澄まされいて

瞬間だけが一時停止しているような感覚が一貫してあったのだが、

そのような瞬間感覚が存在する自体、

考えたことも想像すらしなかったので凄くショックを受けた。

 

南師は他人の自己を自分の自己とほぼ同格に扱っているのかなと

思えるくらい自他に対して丁寧であった。

 

 

思い返せば、塾をやっていた15年間、

私は自分という自己を無くすことを何よりも優先させていた。

生徒や講師のためだけにいる空気のような存在になりたかった。

私自身の個人的な欲望や目標などを忘れ、

ただ他人のためだけにいたかった。

それが日常になってたから他人に自分を説明する機会が滅多に無かった。

 

だからか、私の自己に関する質問に答える時間が非常に長く感じられ、

面倒にもなり飽きてきて、いつ終わるかなと思いながら

私の自分説明に疲れてしまったのを隠して

平然を取り澄ましていたら、

突然、「あなたの坐禅の基本はなんだ?」と咄嗟に

核心を突く質問になった時にはっとなって

疲れていた脳がぱっと覚めた。

 

「え?坐禅の基本姿勢みたいなことですか?」と聞き直したら、

「まあ、あなたが坐禅をどうみているか、どのように考えているかといった基本的な見方かね」

と補足を付け加えて下さった。

 

その質問に私がどう答えたか、具体的に覚えていない。

この面談の続編を書くために自分がどう答えたかを思い出そうと

必死になって記憶を辿ってみたのがどうしても思い出せなかった。

どう言ったかは覚えていないが、

脳科学の本から坐禅を知って、坐禅を実行したら、

心理学では得られなかった『自らを癒せた』

『考えの苦しみから救われた』

などの体験をしたから、

坐禅を知らない人に知ってもらいたいのもあって

もっと知ろうと自分なりに研究していて、

それが私の基本であり動機でもあったと

要点だけ伝えた気がする。

 

自分がどのように言ったのかは具体的に覚えていないのに

今でもはっきり覚えているのは、

南師特々の『聞き方』と『言い方』である。

何かを聞く時は慎重極まるが

聴いてからは言っていたことの要点を的確に刺す、

また、問うていることに無駄が一切なく、

その問いへの言い方は鋭くかつ明瞭で

まるで完璧に研ぎ切れた剣で

ものをきっぱり斬る切れの良さがあった。

 

南師のシンプルで尚且つ機敏な会話の誘導にただ従っていると

鈍かった頭がぱっと覚醒するような

極めて明瞭な何かに直面させられるような、

なんとも言い表せない緊迫感と迫力が私に迫ってくる感じがした。

その活き活きした感覚は未だに体感として鮮明に残っている。

 

「あなたは私の本を翻訳したいと言っているが、なぜ私の本なの?でなぜ私なんだ?」

と聞かれた時は急所を突然突かれたような、驚きで一瞬息が止まった。

そのような質問をされるとは予想さえできなかったので

突然頭をガーンと叩かれた感じになった。

 

だが、予想外のピンチになると

正直になるカードしか出せないので、

平然な振りをしながら、

『翻訳しようと決心した経緯』から

『なりゆきの到達点』や

『他の人がいくら正しくても私との関連が無い』

『私が訳したいのは南直哉師の本しかない』と

できる限り短く要点だけを言った。

 

その面談時のことを今になって

南師の立場に置き換えて考え直してみると

突然ある人がポツンとどっかから現れ、

しかもその人は翻訳をしたいと言い出してきて、

しまいにはアメリカから日本まで遥々きた、

ならば、その人が一体全体どんな人なのか知りたくなるだろうし、

知るためには分からないことを聞く、

ただそれだけのことだったのではなかったかなと思う。


だから南師にとっては、

私が質問に対して既に考え尽くしたと何らかの見做しがあっただろうから、

自分の質問が核心を突くとか、

的を射るとかは眼中に全くない

『知らないことを知る手段』にすぎなかったかも知れない。


だが、私は南師との面談では

おそらく私の言語能力を中心的に聞かれるのかと思って

英語通訳能力に関する予想質問項目ばかり用意していた。

しかし、私の質問予想解答案は見事に外れたのであった。

 

私の予想質問攻略編は外れたのだが、

他の思想系や哲学書に関する私の解釈の仕方を聞かれた時は、

運よく以前から考えていたことをきかれたので、

思ったことをすんなりと言えた。

 

また、どうやって坐禅をアメリカで紹介しようとしているかなどのプランも聞かれ、

10年後の見込みとして、今のIT社会は因果的に人の断絶を伴う、

よって次世代は心理学の治癒法や宗教の教えも効力を無くす時が来る、

その時に坐禅の需要が必然的に生じる、

なので、今その下準備として坐禅関連の翻訳を始めたい答えた。


其の三へ続く....



補足:其の二を読んで下さった方々へ

まだ、面談の一部しか書いてないのですが、記事が長くなってしまったので、続きは次回にします。

次回はなぜ、私が今になって面談を書くと決心したかを書きたいのですが、そこまでいけるかどうか

実際書いてみないと見えてきませんので、何とも言えませんね。

英訳はシリーズを進めながらまとめて投稿する予定でいます。

このシリーズで南師の本を翻訳することになった因果関係を

公で明らかにしたいと思って書き始めたのですが、

書きだしてからこの面談編をもっと早めに書くべきだったと気づきました。


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143 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2018-11-13 11:47:08
続編をありがとうございます。
此方としては、長文と言われるほど、長くは感じられず、すぐに続きを読みたいほどでしたよ。
ですが書き手としては、疲れることかもしれませんね。余計な提案ですが、無理に長文で纏めようとせずとも、小出しに投稿されても宜しいのではないでしょうかね。
まあマイペースが大事でしょうね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-13 15:18:06
なんて、ありがたきコメントでしょう。

誤字脱字を再編集する時間が無かったので
コメントでその文字ミスの嫌味を言われるだろうなと
独りで苦笑いしていたら
続編は小出しでいいと言われて
肩の力が抜けられました。

深い配慮をありがたく受取ります。
返信する
「内部」と「外部」 (榮久)
2018-11-13 17:54:59
「私」などというものは、
どこをどう探してみたところで決して見つかりはしないのだ。
肉体が「私」か。 大脳が「私」か。記憶の集積が「私」か。
そう問われなければならないその限り、
それらのどれも「私」ではなく、それらについて考えるそのときに、
「私」という主語や目的語がそこにあったりなかったりするだけである。

何らかの実体性をそこに求めることはできず、
従って、拘泥するべき固守するべきものもなく、
全ては一様に茫洋と拡がっている。

さて、そのように全く恣意的に変容する「私」にとって、
「内部」「外部」と命名され、
そう思い為されているところの事態は迷妄以外のものでもなく、
「私」「私」と各々ぶっかり合っているその「私」たちは、
掌の上で小競り合う孫悟空たちのようにもみえる。

それぞれの「私」たちが、
それぞれの固有名詞を賭けて相争っている諸思想もまた、
「論理」の成立を押さえた純粋思考にとっては、
既にそこにある「論理」に基づいて構築された様々なる意匠として、
等しなみに並列しまうのだ。
誰が、どの衣装を、好んで身につけ衒ってみたところで大差なく、
裸の思考にとっては既にそこにある「論理」を越えること、
つまり、未だそこに「ない」ものを知ることだけが、
その最後の課題として残されている。
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Unknown (Unknown)
2018-11-14 03:08:00
南師のブログこめで貴重な指摘がされていましたね。
曹洞宗国際部長の藤田一照師が、
禅を海外布教する為には只管打坐だけでなく、
釈尊の観瞑想法のような五蓋の座禅を、
何故、奨励するのかという視点ですね。

つまり只管打座だけだと、欧米の方にとっては、
マインドフルネス瞑想とほとんど変わりが無く、
自己啓発の為の、単なる精神修養に終わってしまう。
だから仏教修行の本質である貪瞋痴の撲滅、五蓋の消去を目指す観照禅も併用する方が、
欧米の方に仏教に基付いた禅を普及させるのには有効だ・・とか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-14 03:44:28
そーいえば桂蓮さんが、
マインドフルネス瞑想では無く
なぜ道元禅(只管打座)でなければならないと
お考えになっておられるのかの論理的根拠は
一度も話された事ありませんでしたよね。

心理学に基ずいた坐禅の研究では両者はどう違うのか?
この辺で其の根拠をお聞きしたいです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-14 05:53:37
Unknown (Unknown)
2018-11-14 03:44:28さんへ

其処らへんも次第に
それらを語る時がいずれくると思います。

私は目標を設定したら
段階を踏み、
踏み終わってないと
次に進められない生き方への難関があります。

なので、国の差から生じる坐禅の捉え方差は
今、言及する段階に至ってないです。
よって、根拠をデーター集めする課程でいますので
それらが揃う次第
纏めて記事として扱っていく予定です。

それらも段階の一つですし、
誰かの見方を参考にするのも
私の踏むべき段階を踏み終えてからにしたいです。

ですが、要点をまとめて頂きありがとうございます。
返信する
大きな理由 (海洋州の雇用ロット)
2018-11-14 08:57:50
非常に良い話。日本語を一言も知らない私たちの方々も、あなたが設定したシーンの質感を楽しむことができます。
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Ocean state job lotさんへ (桂蓮)
2018-11-14 16:44:32
上記のコメントの説明
Ocean state job lot
(ホームセンターの店名:海洋州の雇用ロット)
 
上記のコメントはうちの夫が自分の英語を
グーグル通訳にかけて投稿したようです。
私しか通じないジョークなので
意味など完全に無視しても大丈夫です。

私が英訳しなかったから
グーグル通訳にかけて大まかな意味を推測したようです。
日本語が分からなくても
場面の雰囲気が伝わる記事だと言いたかったようです。


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Unknown (桂蓮)
2018-11-14 17:01:45
栄久さんの哲学的な詩は
私には興味深いです。

おそらく私という概念を
遠く離れて、イメージを描いてみたかったようですね。

言葉やイメージは
同じ現象でも人によって
捉え方が異なるから
栄久さんは『私という現象』を見た側面を
感情を排除して、残った印象として
書いたでしょう。

人によって
そのイメージを描く過程が異なるので
理解できない、ついていけないかも知れませんが

言葉による表現を絵だと仮定してみると
人それぞれ捉えて表した絵が違うから
栄久さんの言語作品として
読んで、そうかな~と受けるだけで
いいのかと思います。

人のイメージに文句付ける必要もないですし
それを分析すると失礼に当たるかもです。

だれかが栄久さんのコメントを
切り刻むかなと心配になってきたので
私の所見を書いておきます。

おそらく栄久さんは記事中の
自己のイメージを描いてみたかったかなと思えます。

返信する
写真について (桂蓮)
2018-11-14 22:07:59
今回の記事の写真は恐山です。

3泊目の朝、早起きして
宿坊で知り合った方と
坊舎周辺を散歩していた時に撮りました。

この写真を撮る処は
硫黄の匂いが充満していて
他の硫黄温泉とは格別に異なる何かが漂います。

今になって
もっと写真を撮っておくべきだったと若干後悔してます。
返信する

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