Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

An axis of self and its centrifuge force自己の軸その遠心力

2019-03-26 | 坐禅

自分の軸になる中心点はどこにあるだろうか。

Where is a central point that can define an axis of one’s self?

全ての物体には中心点がある。

All objects have a center point.

数学の幾何中心は

図形の点を亙ってとった算術平均の位置にあり、

その図形の全ての点をピンで止めた時、

完全に釣り合う点を示唆するようだ。

A geometric point of mathematics seems to be found in a figure

when pinned points and angles are perfectly balanced

and positioned at an arithmetic average.


体の中心点を見つけようと意識すると案外、難しい。

It is hard for me to locate when I try to find

the center point of my body consciously.

昔のバレエの先生が“女子はバランスが命”だと言っていた。

My former ballet teacher always told us that

 “balance is girls’ decree”

そのバランスを取るためには

中心がしっかりしないといけないとも言っていた。

She also said, to take the balance

the center point in body must be solidly fixed.


バレエの中心点も数学の幾何中心のように、

足の裏で足の指とかかとが釣り合う交点が

中心になるところのようだ。

Taking center point in ballet is similar

with getting geometric point in mathematics,

it must be centered at the sole of the foot

where all points are counterbalanced.

その中心点を体で実感すべく、

レッスンが終わっても残って猛練習したが、

どこが的確な中心なのか確信が持てなった覚えがある。

To follow her instruction, I have thought that

I ought to get the center point with my physical experience,

so I did hard practices after lesson,

but I found myself not yet sure where the correct point was.


歩く時も中心を移動させることを集中していた時もあったのだが、

意識に長く留まってなかった。

Even when I was taking a walk,

I tried to concentrate on mobilizing the center of my body,

but the consciousness did not stay in my mind.

処が、普通に座る時は自然に中心点が取れる。

However, when I sit normally

the center point stands spontaneously.

身体が接する面積が広いと

足の裏よりは中心が簡単にとれるからかも知れない。

Maybe it because the wider square measure of the body

the easier stabilize than the sole of the foot.


座りの中心は割と簡単に取れるとしても、

坐禅や簡単な瞑想をやる場合は、

その坐り方に決まりことがあるため、

体の中心を指示に従って定める必要がある。

Comparably say,

even though the center points relatively easier when have a sit,

in cases of doing simple meditation and Zazen,

there is certain direction to follow to be accurate.

その指示に従って改めて中心を探そうとすると

逆に座り方が不自然になり、

不安定になってしまう。

For the sake of instruction,

finding the center point can have opposite effect,

and the sitting form falls and looks artificial or unstable.  

自分の体の感覚に頭の理屈がついていけなくなるようだ。

It seems my body senses are unable to keep up

with my brain orders.

中心を定めようとする意図は意識上に長く留まらない。

The intention of control to the center

does not stay long in my mind either.

中心を探しているうちに、

その過程で生じた違和感や軽い痛み等に

意識が向いてしまうからだ。

While I try to find center point,

my conscious tends to toward uneasy feelings and slight pains.


そのような体の感覚と教えの見本のズレで悩んでいたので、

日本で南直哉師からの坐禅指導を受けた際に

“体の中心をどうやって探すのですか?”と

坐禅後の講談で直接聞けた時があった。

When my last visit to Japan to take zazen practicing

from Minami Jikisai who is known as a master,

I could ask him directly about finding the center point in the body

when questions were allowed.

Since the gap between actual physical sense and

sample of directions was bothering me, my question was:

“how can I find the exact center point of my body?”   

彼は、“私もその中心点を探すのに困ったことがあるが、

ある日突然、パタッと体の全てが何かのところに当てはまるような時があった”

と答えてくれた。

He answered for me and told me that

“I also have had the same trouble as you have

finding the center point

but one day suddenly a moment has come to me

where every part of my body fits in somewhere righteously

sounded like bang”  

また、“これ以上、ズレるところがないところに中心点であるようだ”

と教えてくれた。

He added more detail that

“it seemed the center point is located

at a place where there is no other gap”


私は完璧な中心感覚が絶対にあるはずだと思っていたから、

彼からの例談で少し気が楽になった。

Since I thought that

there must be a perfect physical sense of catching the center,

his teaching made me feel released in a way.

その教え以来、

絶対的な感覚、数学の数字みたいな数値がなくても

『これ以上が無い』ところで

それ以上を追及しなくなり、

余計に考えなくなった。

Following his guidance,

I stopped chasing unnecessary thoughts

and pursuing extra ways to think [no more of it]

even though I can’t have such absolute sense

or precise value like mathematics.

身体の中心点は意識を定めることによって、

体が勝手にやってくれるようだ。

Somehow my body is enabled to find

the point with its own way as set up conscious.


だが、自分のという意識の軸はどこに位置しているのだろうか。

But where is the axis of conscious? called as being me?


軸があるなら、

その軸を中心点に形が展開していき、

機能できるような構造になっていく。

If there is an axis of one’s mind,

the centered axis will be developed to form,

and the formatted structure becomes functional.

ある形が機能するとそれが動く。

When the form functions it moves.

動きだすと、その動きによる反応が生じる。

When it moves, it generates reaction.

その反応は状況に影響する。

The reaction affects situations.

その影響力は動きの範囲を限定する。

The affection limits the range of movement.

その限定力は動きに外からの圧力をかける要因になる。

The limiting force will be a factor to exert

upon the movement as an external pressure.


外からかけられた圧力は中からの動きと交流し、流れ始める。

The pressure which is set by external force interacts

with inner movements and starts to flow.

その流れが上手く流れない時に、

全ての問題が生じるようだ。

When the flow is unable to stream well,

all problems about to occur.


しかし、問題点が無く自由に動けるようになった動く物体は、

軸を中心に外に向かって広がるようになる。

But movable object which can work freely with no problems

can spread to the outward based on axis.

外に向かって広がる運動性が連続すると、

そこから速度が増加する。

When the mobility moves outward,

the speed increases as velocity is activated.

その速度が一定に安定してくると

その動き自体から遠心力が生じる。

When the speed becomes constant and unchanged,

the velocity produces centrifugal force.


その遠心力の核心に中心点の安定性がある。

At the core of the centrifugal force,

the stability of center point can be found.

遠心力は基の動きの限界性を超えて広がるようになる。

The centrifugal force will expand

as it exceeds the limit of the underlying mobility.

その自我の軸になることはもしかしたら

『命を生きる』ことなのかも知れない…

Perhaps [live a life] may be the axis of ego…

 

 

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35 Comments

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Unknown (ZIP)
2019-03-28 00:34:39
中心点としての軸が認識する自己
軸の外側の軌道が認識された自己
軌道の外側に離れようとする力が自我
軸の回転を生み出す力は何か、また
中心点と軌道との間に働く向心力は何か、
ということです。
返信する
Unknown (榮久)
2019-03-28 04:38:31
身体を細かく割る

私が習った武術では足も両足均等に加重しないで
右、左と移しながら立ち、ひたすら自分の身体の内側で
起きている事象を意識してみつめ
身体を構成している無数の「パーツ」に対する
感覚を磨くことを気の錬磨とか練丹法とか伝えられ
同時に呼吸法や瞑想法等も含めて
身体感受性を伸ばすことにあると練習し
また試合というのは副次的なもので
術枝の達成段階のチェックとして
ときたま行うものでした

この「意識」という言葉
読み散らした現象学や仏教の書物
とくに唯識論と「意識の経験の学」としての
ヘーゲルによって確信を得
よっし見えた ━━ と思ったのだろう
だが「私の意識」
この「私」という語に違和感が ━━

すべてを認識できる意識であるところの私
しかし「私」と「意識」の語がうまく重ならなくて
永く納得できないでいた

「魂」という語が突然浮かび
この語と「私」が重なるのかな と思うこの頃です
返信する
Unknown (桂蓮(ZIPさんと栄久さんへ))
2019-03-28 23:18:00
Zipさん、栄久さんへ

いつもですが、高品質のコメントを頂き恐縮です。

コメント内容が私の身の寸法(応える範囲)になくても
負けじまいと無理無理返答してきましたが、
今回はそう簡単にいかない、です。

私の視野より
遥かに遠いところを視ているようで
少し、時間のスーパンを持って
吟味しようと思いました。

思い立つものが出てきたら
その時に返答しますね。

二人とも、私の心の動きを着実に診て下さっているので、
しっかり時間をかけて
咬み下していこうと思っています。

取り急ぎ、読んだことの報告にかねて書いておきますね。
返信する
Unknown (栄久さんへ(追伸))
2019-03-29 09:13:54
忘れかけていたので、追伸です。
前回の記事英文中のスペースあけミスは
未だ改訂していないのですが、

このブログ会社がリニューアルして
何やら編集機能が簡単にできなくなっているため
間違ったままになっています。
過去記事編集画面がどこなのか、探せないので
暫くそのままになっちゃいます。

まあ、いい訳ですが、ご了解ほど。

追伸2
日本で空手習ってましたが、
中心の置き方まで詳細に説明されてないです。
来週からコネチカット州にあるバレエスクール通うことになりました。
空手の道場はバレエ稽古が安定したら
通う予定です。
返信する
Unknown (榮久)
2019-03-29 19:15:03
空手??
バレエで充分だと思います
何か危険を感じたら逃げる、近寄らない、と教わりました
女性と男性では体重と力の差があり
重量差がダメージに影響大です
よほど技に優れていなければ組伏せられます
まして、アメリカは銃社会
とにかく逃げましょう

私が習ったというのか
身に付けたのは祖父や父と共に
代々続いた流派の技です
銃の前には役にたちません
生き方と死に方を少しだけ受け継いだのかなと
返信する
無意識という軸 (月のような者)
2019-03-30 19:49:29
明後日に日本の新元号が発表されるそうです。
昭和天皇が亡くなった朝はたまたまテレビを付けていなくて、母親と出掛けた先の駅の売店の新聞でその事実を知りました。
昭和の最後の日に、電車の窓から昭和の初めのモダン東京を探してみました。そんなことをする10歳の子供はあまりいなかったと思います(笑)
しかし「モダン」は見つかりませんでした。たとえ昭和初期にタイムスリップしても、そこにもまた普通の雑踏があるだけだと思います。
しかし昭和の終わり頃に、「昭和初期の無意識」を写真などからも敏感にキャッチしていたことは、子供ながらに私の中にも存在した歴史的無意識がなせる技だったのではないかと思っています。

当時のモノクロ写真は関東大震災に打ちのめされた東京人のデストピア化した無意識の名残を写し出しています。しかし徐々に陽の光が差してくるような暖かみも写っているのです。光と影と活力、そのバランスの妙こそが私の感じた「モダン」の実態だったのではないかと思います。
その当時たまたま家にあって愛聴していた井上陽水の「レ・ヴュー」というベストアルバムが私にとっての「昭和初期の無意識の音」でもあり、それは日本の深い深い自然に取り巻かれている「文明人」の気持ちとしても響いていたのです。まったく偶然にも最高と言える「音のテキスト」が私の手元にひょっこり存在していたのです!
平成最初の日の朝に、昭和懐古ということで小津安二郎の「生まれてはみたけれど」が放送されていて嬉しかったです(笑)

まあ東日本大震災の時は東京も独特の雰囲気になっていましたね。そして夜になると日本の中世の無意識までが宙を漂っている気がしました。神社に行くと、神様が東北に行ってからっぽになってる…と思いました。あの時はかなり遠大な時代と時代の狭間だったのでしょうか。後になってみないと正体が分からないでしょうね。
歴史は人間っぽい生き物であり、歴史の節目には目に見えない人間の本質が様々な形で浮かび上がるという話をしてみました。
返信する
Unknown (ZIP)
2019-03-30 22:20:59
時間は同一性に合理的な保証を与える為の規則に過ぎないわけです。
変化するものを同じもの、として合理化する為に時間という概念を用いるわけです。
地球において太陽の運行に一定の規則性があることを発見し、それを根拠に文明や社会というものを構築してきたわけです。
合理性、規則性は、存在することが必然であり自然だと思わせる為の人為的なものに過ぎないわけです。
軸の回転を生み出す力は、普段意識されることない意識の作用です。

しかし実際は、地球があるということも、太陽があることも、人がいるということも、これらはなんら合理的な理由もなく、たまたま存在しているだけのことです。
しかし、規則性は偶然の内なる属性に過ぎないわけですが、向心力としての同一性を確かに保証するものです。
このように、昭和の質感も、平成の質感も自己同一性の向心力になり得るわけです。

月のような者さんみたいな古参の方が、たまに
こうして正解をしてくれることが刺激になるわけですからブログも適当というわけにはいかないでしょう。
返信する
体の軸についてです (月のような者)
2019-04-01 00:10:25
昔と比べて丹田と末端の手の繋がりがより明瞭かつ強くなったかなとは思います。体幹部がより動くようになったから丹田の力をポンプのように手に伝えられるということですね(以前よりは)。体幹部が動くということは背中とかの意識が濃くなって自分の体を三次元的に感じるようになったと。まあ素質のある人は十代で当たり前のようにやっているんじゃないでしょうか。丹田といっても玉みたいな感覚はないですね。まあ腹腔を一応空間として感じてポンプのように収縮稼動する感覚ですね。稼動の支点は仙骨と背骨です。とにかく後ろの方です。「お尻の骨」とはあくまで仙骨であると捉えることにしました。腸骨は仙骨より前方に出ていて背骨および仙骨と足を繋げる媒介みたいに捉えると下腹部に上方からの力が集まり易いです。ある居合術の解説で腰骨の意識が極まれば下腹は自然に満ちるとあったのでそれが頭に残って参考になっています。腕は骨で鎖骨と繋がり筋で肩甲骨と繋がっていると捉えて肩の力が抜き易くなりました。パンチを出す時は丹田、広背筋、肩甲骨、腕、拳の順です。しかしどうしても掻き込むような力の感覚が残ってしまうのは日本人の宿命でしょうか。まあとどのつまり攻撃行動に完璧でスマートな脱力なんてあり得ないのかなと。肋骨は「思ったより下にある」と捉えています。それで腕や肩に頼らずに体幹部から頭までを立てるようにします。力を下腹部に落とすための上腹部の脱力を促し易いということと、肋骨を稼動(肩甲骨と連動)させ易いからです。私は腕が長くて肋骨と腕の感覚を混同し易いので、腕と体を切り離して認識するプロセスは大切になります。まあ腰と足の感覚的な区別も同じように大切です。
正直全てが腰、丹田、中心に感覚を集めるための方便と言ってもいいかもしれません。丹田が万能という訳ではありません。しかし丹田より頼りになるものってあるのでしょうか。丹田は(上級者なら)爆発的な力を引き起こすそうですが、上級者には深く「諦めの力」も備わるはずなのです。たとえば戦場には生き残る方法はないので、護身の最終形は死の覚悟です。それを知る人が生き残り易いのです。なにも期待していない時、案外丹田に意識のピントが合っているものです。それは頭の片隅に置いていてもいいと思います。
返信する
本日 (のしてんてん)
2019-04-01 13:11:32
メールお送りしました。

ところで、私の心の体験ですが、中心はないと思います。

中心は己が求める必要であって、己の数だけあると想像できますが、無数の中心を中心とは呼ばないというのが論理的に納得できる答えのように思えます。

己が中心という思いから地球が中心という思いに変り、太陽が中心と知識をひろげ、銀河の中心に思い至り、さてそこからどこに中心が移るのでしょうか。

それは己の内側にしても同じこと。中心を定めたら、無数の真実が歪んでしまうように思えます。
返信する
Unknown (ZIPさんへ)
2019-04-01 13:13:04
>軸の回転を生み出す力は何か、また
中心点と軌道との間に働く向心力は何か、<

書いてた時は
Zipさんが提示した上記の設問が
仮説として念にありました。
仮説と言っても
厳密的に言うとイメージですが、
その軸の回転の力は
E=mc²です。

それを言いたかったでしたが、
>軸の外側の軌道が認識された自己
軌道の外側に離れようとする力が自我<

軸の外力=与えらた力
離れようとする力=超自我

それらを総括するのがEのエネルギーだと
描いていたのです。

というわけで、私が視た視野より
Zipさんの見方が広かったと驚いたのでしたが、
その解釈を簡潔な言葉で書けた能力に
どう応えたらいいのかと
即座に思いつきませんでした。

自我の力の原動力は
人によって定義する方法が異なるのでしょうが、
Zipさんの表し方は
それだけで完結性がありながらも
他の仮説へ導けるものがありますね。

金曜から、どのように応えるか(堪え)について
あれやこれや考えましたが、
素直に感想を述べることしか思いつかなっかたので
ベスト反応でないと思いますが
一応、私の意見として書いておきます。

追伸:おっしゃるとおり、適当に書けなくなりつつあります。
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