思考を可視化することは可能か
Is it possible to visualize cognition?
自分が思っていることを外側から見られるか
Can we see what we think from the outside?
私が何かを思う時は
When I think of something
頭の中で何かが動き
Something is activating in my head
言葉に似たようなイメージが瞬間的に表れる
An image appears at that moment which resembling words
それから身体感覚が伴ってくる
After then my body sense comes along
私が坐禅を始めた8年か9年か前
When I started doing zazen 8 or 9 years ago
経営していた塾の仕事から関連したストレスが
Associated stress from the job which was a cram school I had
私が処理できる範囲を遥かに超え
The stress was far beyond the range that I could handle with
制御できなくなっていた
It became uncontrollable
心理学を専攻したことから
Since I majored psychology
ありとあらゆる心理治療に関する本を読んだが
Have read books on psychotherapy as I could
読んでいる瞬間は納得できて
The books I read were made sense to me at the time I was reading
ストレスの因果関係が見えてきたのだが
Although the consequence of stress has become to be seen
本を閉じるとストレスは理解できた分、更に巨大化していた
It became even bigger as the amount of comprehended, when I closed the book
心が狂い叫んで煩かった
Again, my mind was shouting crazy and lousy
常に心が重苦しく、息できない窒息感があった
My mind was always heavy and suffered, had felt suffocation
最後の試みとして坐禅を試した
I tried zazen as the last trial
やり方が書いてある本を横に置いて
Put the book aside which was written how to do
電気を消し
Turned off the light
蝋燭を灯してから
Lighten the candle
線香をあげ
Incensed the incense stick
和室の壁を向いて坐った
I sat toward to wall at the Japanese style room
そうすると頭の中から
As I sat, from my head
記憶が洪水のように溢れ出た
Memories overflowed like a flood
その日あったこと、誰かに言われたこと
Things that happened that day, things that someone told me
言われてどう感じたこと、私がどう見えてただろう
How I felt someone’s spoken, how I was seen
他人の顔が現れて、私の感情が言葉になって続く
Appeared someone else’s face, my feeling kept traced it as a word
ふっと、気が付くと
Suddenly, when I realized
記憶の海に溺れて沈んでいく自分が見えた
I saw myself who was sunken drowning into the sea of memory
『思考を切る』と書いてあった本を思い出した
I reminded the book written that『Cut the thought』
思考を追わない、そのために思考しなければならない
Don’t chase the thought, to cut it must think at first
思考を切るためにも先ずは考えなければならない
Due to cut the thought need to think in the process
何が思考で、切るべき思考は何なのか
What is thought, which thought I should cut to
何が記憶で、何が考えなのか
Which is memory, which is thought
そう思っているうちに
While I was thinking such
ポツンと目の前に
Pounded in front of my sight
石鹸の泡のような思考が広がっているのが見えた
I saw the thoughts was spreading out like a soap bubbles
その泡に焦点を合わせて見ると
With focusing on the bubbles
現れては消え、また現れ、また消えていく
Appearing and disappearing, it appeared again and disappeared again
私は後ろ側になり
I was set behind
思考が前に現れる
The thought appeared in front of me
その思考は言葉と感情が容れ混ざった
The thought was blended with words and emotions
決して美しい形ではなかった
It could never be a beautiful form
私は9年前のあの坐禅レベルに比べて
My present level of zazen to compare I had 9 years ago
それほど大きな伸展がなく
It is not improved enough
未だに思考を切ることができない
I yet can’t cut the thought
だが、坐禅の回数に伴い
However, with the numbers I have been doing sessions
ストレスは単なる記憶の動きにすぎないと分かってきた
I found out that stress is just an activation of memory
もし私が記憶の側面を全部見られるなら
If I can see all aspects of memory’s side sections
きっと、自我の中側から外側へと
Surely, my ego to outside from inside
卵の中から卵の外側へ
From the inside egg shell to outer egg shell
宇宙船に乗って宇宙の中へ
Taking a spacecraft to travel universe
狭い空間から広い空間に出られる境地を見られるかもしれない…
I may able to see the reaching point that I could be out to the huge space from narrow space…
Yet, I never framed the question in the way you when you writet: "Can we see what we think from the outside?"
That is an elegant question.
I have much more to say about this post and the story you tell. I will later share my experience with trying to "cut the thought" during the few times we meditated.
But back to your question: "Can we see what we think from the outside?"
Perhaps the question is equally important to the answer.
Some people view the human mind as a thing built by evolution so the universe can view itself.
I don't know how I feel about that view, but it does tend to eliminate the distinction between the internal and external, between the subjective and objective.
Anyway, a really great post that strikes at the essence of human experience.
①彼は私が書いた『思考の外側から見られるか』について疑問を持っていたが、その枠組みを捉えることはできなかった。
②上記の問いはその答え同様重要である。
③人間の精神は宇宙の進化によって形成されたとみなす人がいて、宇宙の視点で可視できる。
③その見方は主観的視点と客観的視点の間の識別を排除させる傾向がある。
④人間の経験について核心をつく記事だ。
私の訳は彼が言おうとしたコアからズレている可能性はありますが、日本の方と思考の側面について意見を交わしたいと願う本人の要望があり、簡単にまとめました。
今までは、このブログに書かれたコメントを彼は自動通訳(マウスの右クリックで出てくる)で読みそのちんぷんかんぷんな訳と私の補足で分かろうとしてきましたが(エリックは私:桂蓮の夫)コメントから人との関りを感じてきたらしく、考えや意見を言葉を超えて討論したいようです。
もし、皆さんの中で彼と話したい方がいたらエリック宛にコメントを残してくれれば、私が通訳して(+自動通訳)伝えます。
今までは私の師匠Tが英語達者な事柄から、直接意思が疎通できたみたいですが、
他の人の意見も聞いてみたいようです。
わたしが苦悩を覚えて半世紀たちました。その経験から言いますと、思考とはエネルギーだということです。
頭脳はエネルギーを加工する力があって、ノーマルなエネルギーを思考エネルギーに変えていると思われます。
重要なことは、頭脳は同時にいくつもの思考をつくり出しているように思われます。
生命の発生(宇宙の歴史)からいえば、まず脳幹が生まれ、その上をおおうようにに大脳皮質が成長します。人間が生まれる訳ですね。
ですから今も、いのちそのものを司る脳幹の思考が働いていると考えるべきでょう。その思考は宇宙の摂理のまま思考します。
しかし大脳皮質の思考は宇宙の摂理よりも、己を自分の力で確立しようと働き、様々な欲を生み出しているのではないのかと思われます。その力が強いため、脳幹の思考は昼間の星のように隠れてしまっている。
そして生まれて歴史の浅い大脳皮質は、正しい道を見つけられないまま、自らつくり出した妄想にとらわれ苦悩している。
ですから私は、座禅やそれに類する瞑想は大切だと考えます。
瞑想で何をしているのでしょうか。
それは混乱する思考を外から眺めるのではなく、その思考の内に深く潜っていくことだと私は思います。
深く潜っていけばやがて、混乱した思考エネルギーを突き抜け、原始の脳、脳幹の思考エネルギーとつながるのです。
泡のような思考は、その途中で見るエネルギーの風景かもしれません。
なにが正しいというものはないでしょうけれど、私の瞑想はおよそこのような感じで体験し、脳幹のエネルギーを通して、宇宙とシンクロするイメージを得ています。
何かの参考になれば幸いです。興味があればエリックさんにもお伝えください^ね^
しかし、私は米国人も日本人もそれほど違いがあるようには思えません。
思考を外側から見る、ということが
私にもよく分かりません。
そもそも、「思考」とは何でしょうか?
のしてんてんさんは「エネルギー」だと
おっしゃいますが、私は知覚した「事」を先ず始めに「物」化するということが
思考として最初にあるのではないでしょうか。
私にとって、「物」化というのは言語化という意味なのですが、お二方はどのように思われますか?
意識的にであれ無意識的にであれ、前日に解答の見つからなかった特定の疑問、
雑念の海(=雑多な情報過多・過剰意識)で不鮮明になっていた、混乱し混沌の意識界でさ迷よっていたその疑問が・・・
睡眠に入る事によって全てが一旦ゼロにリセットされる(ゼロポイントに到達する)。
寝るとは「意識」を失う事だから、いわば「無我」に成る訳だから、恐山師流での「死の受容」足るべき「涅槃」の世界に達した訳であり、全ての雑念(=「生での識」)は一切取り払われる。(注;全ての人は誰でも睡眠を通してそうなっている筈だ。)
すると脳内下部組織の【海馬】が自動運転し始めて、脳内に蓄えられた全ての情報の海の中に検索の航海を始めて・・・もつれた糸を解きほぐし・・・正解を、自動的に探し出して来て呉れる。正解が紡ぎ出される。
そしてそれが言語化された時、
【朝の目覚めのご宣託】が起きるというシステムだ。
睡眠中は左脳と右脳の情報交流は遮断されているので、左脳のロゴス的警戒心も周りに伝播しないので、パニック症状も起きず、禅病も起きず、石鹸の泡も観ず、思考の可視化も起きない・・・。
左様に結論としての「朝の目覚めのご宣託」という言語的表現(=正解)が出現してくる訳だ。
注;コレハ私の場合であって、極個人的な論理付けではあるが・・・。
やがて時代の流れに沿って、それらが「認知科学」と言う科学の一形態なって現れ、
心理学・人工知能・言語学・人類学(含む考古学)・宗教学・神経科学(脳科学)・認識論(哲学)を総合的に考える科学として発展してきた。
そして今は、脳科学によってその「存在の根拠」を確認する実証科学として、人の実存の在り方を探る方向へと焦点が移ってきている。
単なる幻想世界から、脳の論理回路の実存の解明への遷移である。
人はなぜ迷い、なぜ石鹸の泡が起き、いつシャボン玉となり、それが空高く放たれて、宇宙の旅へと消えていくのか・・・
それをイメージさせるのは、思考を可視化させるのは、
それが右脳の世界だからだ。
今、脳科学の究明はそのメカニズムの究明の旅に焦点を当てたのだ。
心理学的「坐禅」のメカニズムの究明に役立つはずだ。
私が素粒子物理学に初めて接せた時、坐禅や妄想の基本概念に通じていると察して、ずっと勉強しています。
芸術家の捉え方は知識も美しく視覚化させるのですね。
ですが、私の場合思考は言語を通して始まります。
3か国語を話す私の視点から言うと、日本語の思考が上位で、次が英語、最後に韓国語といった3段階になりますから、より複雑になってしまいます。
ところで、POさんのブログURL残して頂けますか?
のしんてんてんさんの読者欄から探そうと(誰がPOさんか特定しようと)しましたが、多すぎてできませんでした。
To visualize is Picture World which exists in the right
brain, in the most cases.
Note;
30% to 50% of left handed persons have Logos World (= The language center) on their right brain.
The left handed people exist as 10% of whole human's population.
Now,
if the left brain's logos(=words, languages) can be transferred through the brain circuitry to the right side brain, you will see a picture image for the words,
(thought that image had been already existed from long time ago in the brain circuitry as a pictorial association for the word....since the nothingness can create anything in this world).
And this may be used, I think, as an answer to Ren's question in her article this time.
Interestingly it's known that the right brain tends to see yourself (=your own body) 5feet above & apart from your body.
This phenomenon may explain something for the justification of using word [ From Outside] in her contents.
恐山の南師の最新記事は、応答であるようですが、数回読んだ挙句の果て、ポイントが掴めないので師匠の補足で、関りがあるかもと思い始めました。
ただ、私が思うことは、涅槃の言葉の意味さえ分からなく、読み方すら分からないので(その言葉を知っている人向けだけに書いた)読者を選びすぎかもと思います。
私には師匠の解説無しに、南師の記事を理解することはできません。
ですが、毎日分かりやすいコメントがあるか確認はしていますが。
実際ある人は夜眠りに着いて、そのまま次の朝、目覚める事も無く永遠の眠りについたりする(これは病院のベットでも日常的に起こる)訳ですから、意識の有無に関して言えば「睡眠」と「死」との境目はない事に成るのだと思います。
では何故ある人は次の日の朝、目を醒ますかと言えば、
物体である心臓が動き続けるており、体内時間が日差しを感じて眼を覚まし、同時に脳の意識(=コンピューター)がオンされるからという事に成るのだと思います。
よって睡眠中の脳意識のオフ(コンピューターの電源遮断)は「無我」を指し同時に「死の受容=涅槃」も指していると解釈出来るというのが私の理解です。
ジル・ボルト・テーラーによれば、左脳は「自我・自己」を構成し「他者」と自分の間を仕切る機能がある(=差別主義者だ)。
しかし右脳は自分と言う境界線(自己の壁)が無く、宇宙に漂っている流体的存在物だと思って居る、
という体験を敷衍すれば、人が死ぬ時発生する「実存の流れ」は、
先ず意識を失って、左脳のロゴスの世界観が消えて、
次に右脳の宇宙の輝く光の中に溶け込むと言う、
しばしの恍惚時間を体験して、
やがてエネルギー(心臓からの血流中の酸素)補給が断たれて右脳も活動力を失っていく、The Endとなる。
そう理解してます。
(彼女的には右脳による世界観と解釈する訳ですが)。
原義は、絶対無の世界、安寧の世界、ストレスフリーの世界、心の完全な安らぎの世界、寂静の世界、静かな喜悦の世界、~~、と解釈されていると思います。
もし釈迦が悟りで涅槃を実体験したなら、釈迦はそのことを言及しないのはおかしい筈であるが経典の何処を探しても涅槃の内容が説明されていない。
単に「涅槃」(ニルバ~ナ)という単語がポンと経典に放り投げ出されているだけだから、
後世の仏教修行者が自分は「解脱した、涅槃に達した」と宣誓したとしても、それが釈迦の体験した涅槃と同じものなのか、全然違うモノなのかすら分からない。
だから恐山殿としては、私流の「涅槃」の定義は「死の受容」と言う事である・・・とのべておられる訳です。
で、私が此処のコメ欄で「死の受容」とは睡眠中の脳内現象であると括ってみたわけです。
初期教典文集の中で、「人の悪口(多分??)を言わないだけでもニルバーナ(=涅槃)に達する訳だから~~」と書かれているのだから、後世の教義学者僧侶たちの、小うるさく難解に定義した様なモノではなく、
釈迦当時の「涅槃」(=ニルバーナ)はもっと分かり易り単純明快な「心の安らぎ」という程の意味だったのだろう・・・とか述べている様ですね。
死の受容の一貫だと解釈することもあり得ることですね。
睡眠にそれほど禅的意味があるとは考えつかなったです。
不眠や過眠の悪循環を繰り返している者として睡眠中にそんなにありがたいリセットをしてくれるとのことが分かって、睡眠に対する姿勢を改めようと思いました。
解説をもう一度読んで、ポイントを掴めてからもう一度書きます。
のしてんてんさんのブログにコメントしたこともありません。
ただし、あなたのお母様についてのやりとりをしたのは私です。ごめんなさい。
ご主人が師匠のTさん以外の日本人と
話しをしてみたいとおっしゃるので
師匠の考え方と違う者として、さらに
私も日本人以外の人と話しをして、考え方の共通しない部分がどの程度あるのか
知りたいと思ったものですから。
先ずは、のしてんてんさんと話されてみてはいかがでしょうか?
何でも言いたくない部分は速い段階で言ってしまえと思っていますので、タイミングは良かったと思っています。
言わせたことにご心配なさらず。
ですが、POさんは私の逆の質問を素通りしまたよね?
のブログはコメント論争の記事で拝見していました。
ずいぶん高尚、論理的で高嶺の花 です。
アラン写真館の別館ですので、できれば本家の
アラン写真館に登録して頂けると、とても嬉しいです。
くだり坂
がまん坂
まさかの坂
これ本当に名言です。
私は登坂を超えて
下り坂をすべり落ちて
がまん坂をくぐり
今は
まさかの坂で
アメリカ住まいになりました。
実はあの時どう答えればいいのか困ってしまいました。
何せ、桂蓮さんの質問が私にとっては驚きでしたからね。
私が貴女にそのように思われていたとは
これっぽっちも思っていませんでしたから。
最初の質問についてはおおむねYES
次の質問には解答できません。
性別が違いますので。
ちなみに既婚、娘が一人。
それにしてもそんな風に思われてたとは
・・・・・
私は秘密とか隠し事とか、苦手なので、自分にとって都合悪くてもオープンです。
それがプラスもあればマイナスの方が多かったのですが、何せ一匹狼というか、出た釘でしたが打てる人いなかった感じですかね。
まあ、あのやり取りしたコメントは消そうとしたら瞬時に消せますけど、そこまでして自分のメンツ守りたくないと言うか。
逆にそこまで迫ってきた人がいたとの記録として残す価値があると思っています。
私の個人的論理では、左脳と右脳の相互干渉がまだ幾分か働いている状態の時ではないかと考えています。だから未だ自我意識が残っていて色々なストーリーを勝手に持ち出してくる(事が出来る)。
ならばそれは「無我」の時の「涅槃」(死を受容)した状態には達していない時の現象ではないのかと考えられると思います。
そう思う根拠は、睡眠中みる夢は脳の幻覚・暴走を意味しており、坐禅での禅病に相当していると思う訳です。
フロイドの夢判断は五感を遮断された時の脳の暴走を意味し必ずしもリビドーを意味しない(この論争から、
ユングがフロイドから離れて行った)と理解しています。
それらに対比して、恐山師の言う涅槃の境地は完全な死の状態つまり無我の状態への到達だから、意識が完全に失われている状態の時点を意味し、
依って夢・乃至禅病と言う如くの、或る種の意識の出現は起きない・・・のではないかと言う理屈です(今の処私の推論ですが・・・)。
私の「朝の目覚めのご宣託」というのは、夜見る「夢」みたいな紆余曲折したストーリー性のあるものでは無くて、
すっと正解が言葉として浮かびあがって来るというのものです。「アッ、こうすればいいんだ」とか「アツ、これが答えなんだ」とかの【ヒラメキ】に近い種類のものです。
雑念が取り払われたので、【直観】が正常に機能したという形なのかもしれません。
記憶だけが残って、自我が当の本人だと認識できない訳ですよね?
『ファスト&スロー、あなたの意志はどの様に決まるか』
で【直観】は右脳の作用?でヒラメキ型のファスト(fast)の決断。
【思考】は左脳のロゴス作用で 色々ぐじゃぐじゃ考えての末のスロー(slow)型の答え。
[直観]は早い決断が出来るが思慮浅い故に間違った結論を出す事が有るという事な訳ですが・・・・、
日中、色々考慮した後、雑念を取り去ると言った形で、睡眠中、海馬が下す直観的結論には正解が多い、という事に成るのだと思います。(=坐禅でも同じ事な訳です)。
失礼なことだとは承知の上で追っかけようと思ったのは、私にそれなりの理由があるからです。
貴女と妻の人生が、発言の内容も含めてあまりにもにかよっていたからです。
ただし、決定的な違いは、ご自分でも言われるとおり、貴女はオープンであるということです。
男性としての立場から言うのもおかしな話ですが、ご主人を大事になさってください。
心に浮かぶ色々な「断片的思い付き」をフリップチャートの上に、離れ小島の様に書き出して行って、それを「点」と見做して、頭の水平飛行を続行させていく。
点が一杯出来る。ネタ探しのネタが点として十分集まる。ひょっこりひょうたん島があちらこちらに出来上がるイメージだ・・・・
その画像、フリップチャート上の点、点、点、点、点の集まりを眺めていると突然ヒラメキが走る。
この点とこの点を結び付けて線として(・・・松本清張ばりの『点と線』を施して・・・)、
離れていた一本の線ともう一本の線が繋がり・・・、
一つの絵が忽然と姿を現してくる。見事に意味を持った正解が現れる。
ハタと手を打つ瞬間だ、「ガッテン」の時が満ちたのだ。塊の樹木(古代ギリシャならば大理石の塊か)の中にいる観音像・聖人の姿が、その素材の塊の中にハッキリ見えた瞬間だ。瞬時にインスピレーションが湧いたのだ・・・・・。
坐禅・瞑想に於ける「悟り」とはその様なモノであると思う。
恐山殿は【悟り】とは「縁起的実存の自覚における主体性の生成」と言ったり、【悟り】とは「無明の発見」と言ったりするが、
「主体性の生成」とは、観音像・聖人の姿が、問への正解が、姿をくっきりと出現させる事であり、
「無明の発見」とは、その混沌の中からヒカリ輝いた一筋の光明が差し出て来る瞬間だ。
それが「悟り」であり、ヒラメキであり、
坐禅はそれを生成させる。
(T流「坐禅の流儀」では【今朝の目覚めのご宣託】という形を取るが・・・)。
一歩この世をしりぞいて、座禅の中に、眠りの中に、
『逃げるは恥だが役に立つ!!』(最近のテレビドラマの題名だ・・・)。
私はその点と点を結ぶ前に、一つの点が線になってしまいますが、やはり修行が足りていないことでしょう。
縁起的実存の自覚における主体性の生成
上記の引用は主語と述語の相関関係さえつかめないので、私の解釈から言えば、
主体性が成り立つのは
存在を実感することによって
実感する
ってことでしょうか?
もし、似た体験がおありでしたら乗り越えるにはかなりの知識や援助が必要だと思いますが。
何かが出現してくる、現成してくる、姿かたちがハッキリして来る、真理と言うモノが現れてくる、点点だったものが絵となって来る、姿を隠していた正解が今眼の前に出現した、~~、~~。
それらを総称して「主体性」って言うんだとのT流解釈ですね。
それは単に一つの点に釘付けになって、その周りをウロウロ・チョロチョロしているに過ぎないからだ。
此れは水平飛行とは言わない。
発想の転換になっていない、ブレインストーミングは此れを嫌う。
なぜならそれは単に旧式の思考方式に囚われて、閉じ込められて、身動き出来ずに堂々巡りをするだけで、いたずらにあがいている時に現れる姿だ。
もしかしたらブラックホールの中に閉じ込められて、輝く宇宙として外に飛び出せない幽閉された暗黒星の如くだ。
知識がぎっしり詰まり、頭はいいが、そして如才なくふるまえるが、
そこからは斬新な突拍子もないアイデアなんか生まれない。世を変えるどころか自分を変える事も出来ない。自分の日々の生活での新発見や発明が出来ない。
点点点と結ぶのはパラダイム・シフトがなされたモノから全く新しい自分を生み出す事だ。総合力としての直観の働く場所だからだ。
全く違った自分を発見する事なのだ。
注;自分の事は棚に上げてます。
おわり。
ご懸念についての心配は無さそうです。
それにしてもオープンマインドである
ということは、貴女がおっしゃるとおり
マイナス面が多いというのも納得できます。
I enjoyed watching the TedTalk video you sent very much. The experience described by the speaker was something so beyond our everyday experience, and yet, if we could feel brain function we would understand that what she describes IS part of actual experience. Most people just miss it because of the way our brains "normalize" reality to the verbal.
Interestingly, a certain percentage of the population does have language function in both hemispheres.
I am interested in your opinion about something: Do you think those who do have language spread out through both hemispheres would find it easier or harder to view the self from the external which the non-verbal visualizing portion of the brain can do as you described?
私の経験から言わせてもらえば、私や奥様がくぐり抜けてきたそれらの出来事(欠けたこと)は信頼できる人に出会え、無条件に受け容れてもらう必要があります。
POさんが奥様にとって信頼でき、無条件に受け容れてくれた存在だと感じたから心配のない関係が持てたと思っています。
私の他にそのような経験を持つ人がいると分かっただけでも私には力になります。
That literature describes how big bang could have been produced from a black hole.
I wrote my comments on the topics, which was dated as 1-17, 10:44:29 on the same article of yours.
Please refer to it.
It seems that are some activities in a black hole,
anyway.
That is a good question, and actually I didn't know their existence till you mentioned it.
Logical thinking let me wonder why they need to have
such brain structures. There must be some difference of detailed functions at each hemisphere even in the language category, such as photographic memory, foreign language understanding, math calculation area, so on, for instances.
In any case, according to Jil Bolt Taylar, she is saying that you can only recognize world's reality in normality through your language function,
since the language you use is defining how the world is like or to be seen alike as being normal.
Therefore, I guess, if you lose your language function by whatever is the reason, you will see some kind of abnormality a while until your primitive recognition mode regains by itself (like body language or like a cat's activities without language).
I guess it would be very difficult to imagine that a cat can feel like herself floating in the sky (=feels herself external as you say) ,
though the human right brain can let me feel in such a way.
If, I guess, a man is born in the cat society, left him there and brought him up only in the wild cat group exclusively (=no contact at all with human beings),
the language function won't be created in that gay after all.
So this indicates that the creation of the language center in the human brain must be post-natal even though DNA factor exists for the language sector.
Now I suddenly remembered that Jil Bolt Tayler expressed herself as voicing wowowowowo&rarararara_when she tried to enunciate her words.
So Tarzan will speak(=voice) in the same way as Jil did, in the jangle even though he has a perfect intact brain.
I'm not sure if I'm corresponding with you adequately.
These are my thinking which came up in my " The Language Center "today.
何度もコメントをするのは大変気が引けるのですが、どうにも気になって仕方がない事が貴女のお返事にあるものですから今回だけ甘えさせてください。
お返事を読んでいて、ふと気付いた事があります。
桂蓮さんは「欠けたこと」にどうして
気がつかれたのでしょうか?
欠けていると認識できていることが、
妻との大きな違いです。
手前勝手な憶測ですが、お祖母様の存在
が気になります。
私(=板橋師)は坐禅中にハタと閃(ヒラ)めいて良いアイデア(=最近気になっていた意識的ないし無意識的に横たわっている問題に対する正解)が(突如何の前触れも無しに)浮かぶ事が有る。
そのままにしておくとすぐ忘れてしまう。それでは余りにもったいない(後になったらそれが何だったか忘れてしまうから・・・)。
だから手元に雑記帳を置いといて、周りの修行僧に気付かれ無い様にソッと(そのアイデアを)書き留めて置くんだよ、(そして又、何気無いフリをして坐禅に戻るんだ)ふふふ!!
曹洞宗(総持寺系)の過っての貫主様の「悟り」にはこういう側面があったようだ。
此れが恐山殿の言う、【悟り】とは「或る主体性の生起」、「無明の発見(の結果として・・・、beyondとして・・・あとに現れて来た結論)」と言う意味と考えて良いのではないかと思う。
処で恐山殿は、坐禅は、或る身体操作によって現れる特殊な変性意識(それ以上でもそれ以下でもない・・・)である的な表現をしているが、
その変性意識そのものが「悟り」で在るともいえる。
何故なら釈迦が問題意識を持っていた、彼の長年のテーマであった、「苦とは何か」という疑問に対して、ある日ある時、突然ヒラメいて、ハタと正解を見つけた(=ガッテン!!)・・・人々はそれを釈迦の悟りとよんだのだから、
我々一人一人が感じている今の疑問に対して、変性意識的に、直観的に、ヒラメけば、それが、その時の君の悟り(=或る問題に対する正解)だという定義の仕方が可能になる。
座禅のテクニックは色々ある。人それぞれで何かしら役に立てば良い。
役に立たない坐禅、害に成る坐禅は邪道だ。
(御利益を考えるのは厳罰だから)何も考えずに「先ず坐れ、ただ坐れ、ただただ坐れ!!」には、
「坐れば役に立つ」という暗黙の了解があるから出来る事だ。
座禅の心理学ではそのメカニズムを解明するべきなのだろう。
欠けてるという意味は、
①親は存在すべきだ
②母親は子を愛すべきだ
③産んだら責任をとる
大まかに以上の3の項目につき、あるべきと『決めつけ』が人々のルールのようですが、
私にはそれらが存在化されない、
つまりは欠けているのです。
元々欠けていたと認識することによって、
決めつけのルールから離脱することができた訳です。
あるべきだと決めていれば
欠けていることを受け入れず
常に求めるでしょうが
欠けていることを
認識すれば、
事実がどうであれ
受け容れることは可能です。
受け入れと受け容れは違いがあり、
受け容れた場合、溶け込んだことに
通じるため、再発することは差ほどなくなります。
恐らく奥様は
POさんの支えによって
知らないうちに
受け容れた(溶けた)かもしれません。
以上の私の観方は
大学での私の恩師の教え、
『受け容れ』の差を教わってからこそ
言えて気付けたものですが。
それらの『暗黙の了解』『閃き』などを
心理学的に究明していけば、
私のブログも
一人の戯言
よりはレベルアップ、なりますかね?
気にかけてもらっていて、書いてないと
気が付きました。
祖母は無くなりましたが、
例の継母の悪ふざけにより、
葬式にも行けず、、
ですが、幸い幸運が巡ってきて墓地にはいけました。
ご自分で領収書を発行できているという
ことですね。
いい恩師に出逢われましたね。
ちゃんと決済できた桂蓮さんと話せた
ことは、私にとっても大変実りのあるも
のでした。
ありがとうございました。
ご無礼の数々、慎んでお詫び申し上げ
ます。
何か繋がった感じがします(ヒラメキ??)
恐山師の「自己と言う実存には根拠が無い」
欠けていると認識するのみだ。
ならば囚われる事は最早ない。
そこで恐山殿の「死の受容」(=涅槃)が出て来る。
恐れる事はもう何一つない。
此の世に「苦」なんてモノはない。
全ては元々欠けており、~~するべきだなどは元々ないからだ。
で、あなたならその後どうする。
私なら・・・、日々是好日、眼は横に在り鼻は縦にある。空は青く輝き白い浮雲にのって・・・、
天に向かってジャンプする。。。
彼は「悟りとは何か」という一般定義では無くて、
単に、「釈迦の悟り」とは「無明の発見」、であったと言っているに過ぎない事に気が付いた。
つまり、あなたの悟りとは、私の悟りとは、~~、~~、
「悟りとは人それぞれだ」という訳だ。
2500年前のインド環境下では、なぜ「苦」がこの世に存在するかという哲学的思考での【正解】が存在していなかった。よって釈迦は12支縁起説(の原型)にヒラメキが及んで、無明の循環説を編み出したわけだ。
「苦」は脳内での虚構、即ちサンスカーラである事を発見したのだ(現代だったら心理学的に言い直せそうだが・・・)。
で、これは明らかに釈迦の悟った、即ち釈迦の頭にヒラメいた、あらたな光明で在ったに違いない。
ーーーーーーーー
処が、「悟り」とは「無明」を知る事だ、という一般化を試み、さらに君の坐禅の目標が「無明」を追体験する事だと定義してしまうと、かなりおかしな事に成る。
酸素を吸うから生命は生きていると解明されたから、坐禅でそれを実感する???mmmかなりバカげてない???
坐禅による無明の実体験って言うならそんな感じだ・・・。
今や理屈が解明されたのだから、「Beyondその後」の、君に内在する問題・疑問の答えを求めて、
坐禅テクニックを使用しての、
ヒラメキ=正解=悟りを求め続ける・・・、だから日々生まれ変わっていく君が毎日、その日毎の悟りを得続けて行く。
これが坐禅の効用であり悟りの定義であろう。。。。
(追:)ついでながら、遺産経由で恐山殿が「無明とは言語の(問題の)事だ」とかの意味付けがあるが、
ますます訳が分からなくなって来る。
無明とは「明で無い事」(明らかでない事)それ以上でもそれ以下でも無い。そこで議論はザ・エンドだ。
人が生きてるのは酸素だって分かったら命題はそれで終了。
酸素とは【言語の問題】だってェ~mmmmmそんなの意味ない後追いに過ぎない(と思う)
こんばんは!
読者登録有難うございます
素晴らしく凄い人生経験をされたことに驚きと不思議な感動!
今は米国東部での新しいご主人との生活を大切にしてください
あなたが禅を自分のこれからの人生の生き方にされたのは素晴らしい事です
あなたは他人と禅問答をされてもかまいませんがあなたの生き方自体が禅ですからあなたはあなたの思うがままのままの思想を貫けば宜しいのではないでしょうか
宗教は教祖がいて癒される拠り所を求める場所
あなたはそのか弱き人々の拠り所として生きてゆこうとされているわけですから他人の哲学・心理宗教に左右されず我が信ずる道を歩けばよし
世界に名を残した前人たちも既存の宗教や哲学・心理に迫害や批判を受けたようにあなたにもその苦しみや不安・孤独が付きまとうかもしれないが、それを乗り越えればよし
人は兄弟姉妹であれ一人として同じものはなし
信じることが一番じゃないかとおもわれます
人は違った宗教観・心理・精神を唱える人や祖と意に違った意見をいう事を嫌うのが一般人です
あなたはあなたの世界を確立(築く・宗派)すればよいのではないでしょうか
一つの世界で生き抜いた哲学者とあなたのように二つの世界で生きてきてまた、違った世界で生きようとする人との意見相違は当たり前!
釈迦とていろんな世界を徒歩と馬上で見てきた人ですからね
新しい心理を見つけてください(禅の閃きで)
時々、遊びに行きますから宜しく!
Jil Bolt Taylar told us that the left brain creates the sense of ego(= self) due to the language function.
Thus you feel like you are bound on the world as you see.
But on the same time, this means that the brain has to discover (= define) what and how is like to be outside (= external) from yourself, since otherwise
you can not understand (=distinguish) what exists between yourself (= your ego) and the external from
yourself.
I think this is the process that only the right brain of the human beings accumulated the opposite view of the world as Jil Bolt Taylar described on the video.
In essence, it can be said that the language function in the left brain created the right brain's function at the same time as the opponent world (like plus and minus, or positive and negative, earth and sky).
It seems that other animals ( like Cat) can not develop such a world view at all like human beings did , because they don't have language function from the beginning.
All events in the human brain seem to be the post-natal events, I think.
Another word, the enlightenment is a phenomenon inside brains only, not from outside of human body like external something.
So it says that that must be the soul (=quantum soul) which is existing in the universe right now and forever.
But my question is,then, how your identity as a mass can exist in the universe as an indivisual and separate entity.
It seems to me that 's a just fantasy wrongly utilizing
the quantum theory.
Besides, if the soul exists in such a fashion,
then when you die which means cutting off of all your electricity in your body circuitry,
the quantum information about yourself in the universe shall phase out at the same time your body dies out, so nothing shall remain about yourself anywhere.
This is the way why, I think, the quantum soul is a totally fake.
①受けた(価値を交換した)ことの証
②物々交換があった証
③いつ、どこで、何を、どのように交換したかの印
④受ける側がもらったことに対し、払った内容として受容するもの
⑤与えるものが価値をつける
上記の5項目の意味を成すものだとすると、
それらの5項目を含む相互の了解が、何かの組織内で引証を得てから、発行するものが領収書でありえると思います。
それを発行できた、決算できたというのは、何かが済んだことの証であると推測したのですが、
何しろ、領収書の発行や決算といったEXCEL用語がこれほど面白い展開になるとは思わなかったです。
POさんが思った領収書や決算はどういう項目を持っているのでしょう。
我が道って、彼ら道が無いと我がのものかどうか確認できませんね...
私は我が道については、悔いの無い歩み方をしました。
目的地に既に着いた訳であります。
自分が決めた目標は達成しました。
今死んでも悔いが残りません。
ですが、残りの人生では
他が道のために生きるのも
いいかと思うようになりました。
それらについて
我が道でできたことや
我が流については
もう気にならなくなりました...
此の世に「苦」なんてモノはない。
全ては元々欠けており、~~するべきだなどは元々ないからだ。私も同感です。
天に向けてジャンプしても、また地にもどるようですが、ジャンプした記録はのこりますよね。
ジャンプすれば、重力には逆らえないと分かる分意味が慎重になりますかね~~~
T以外の方へ:
もし、どなたかここまで読んで下さった方がいらしたら、ここのコメント欄には何が書いてあるか、何について話しているか、全く掴めなく割り切って入れないと思います。
私=桂蓮=筆者は一般人として坐禅を研究しており、自らの経験に基づき記事を書いております。
そこで、私に不足している知識系や根拠系は私が個人的に認めた師匠Tによって解説されていっています。
恐山と書かれている部分は、
恐山あれこれ日記のブログ主である作家南さんのことを指し、(ブックマークのリンク先で確認できます)
私は個人的に(一方的に)南さんのブログが導火線になって、このブログを書き始めた歴史上のことがあるため、
また、坐禅と深く関わっていることもあり、坐禅用語や境地などを書く以上必然的に引用していくことになってしまします。
ですので、もし誰かさんが関心がありましたら、ここのコメントと恐山のコメントを対頂して読むと、少し分かってくるものがあるかも知れません。
私はこれほど人がコメントすると全く予想しなかったため、真面な返事はできませんが、人の問いには極力正直に答えようと思っています。
どうもありがとうございます。
領収書の宛先は自分ということになります。
自己を認知するとも言い換えられます。
私が私と呼びうるものに対しての承認
(決済)です。
「思考のラテラル」と合成すると更に輝きを増して箔が付く。現代的でハイカラさんだ。
新車のモデル名にも打って付けかも・・・ああ、ジャガーランボギー二!!
又はベンツ新型モデル【思考のラテラル】と来た日には、ブラックホールから宇宙が飛び出して来たようだ。
宇宙をサッソウと走る快感、
天駆けめぐるペガサスの勇姿、
天に向かってジャンプすれば、
ペガサスの背の上に跨れるのかも、
・・・しれない。
又は「雲の仙人」の様に
地上の痴女に引き付けられて
万有引力の3次元世界に呼び戻されるのかも
・・・しれない。
って、こういう事を書くためにコメ始めたワケでは無かったのだが・・・又、脱線した。
此れは「松の大樹」型思考のラテラルだ。
エリック旦那曰くの「知識(=雑学)在り過ぎて枝わかれ」した成れの果てだ!!
スドクとなれば西のラテラル、左脳世界。
北極星をばペガサスは目指す。
そしてオオ!!
南となれば、北海道より南の、恐山をごろうじろ!!
恐山殿曰く、自利行と利他行がぶつかったらば、
自利行を切り捨てよ。利他行の為自らは死ね・・・と。
そこで塩野七生の『再び男たちへ』が顔をだす。
曰く、「ノーブレス・オブリージュ」(=エリートたちの「尊き責務」)、は3000年かけてヨーロッパ人が培った処世術の智慧だ。
「自分の事を考えて今良き結果を産んだので、これからは他者の為に生きる事も考えるべきだ」という前提がつく。「エリートはそれを持っていない人々を守るから敬意を受けるのである」・・・と言う。
坐禅を通して、まず自分というしっかりとした土台、即ち「自己の確立」が果たされた後で、その土台の上に無我の城を築かねばならない。
そうしないと「無我の城」は砂上の楼閣となって、
あっさり無残に崩れ去るものだ。
死ぬ覚悟が【受容】の形で成されている時が最も強い自己が保てるのだ(『禅と弓』柳生十兵衛逸話の意訳)。
北極星は何時も変わらず真っ直ぐ北を指している!!
宇宙の暴走族でしょうか。
じゃ我ーの取り消し(?)決算書への税金対策でしょうか。
それにしても面白過ぎて(笑っちゃいけない)M(恐れ入るさん:山)の記事読み直してしまいました。
今日になってやっと何について書いているのか、あっはときましたが、Tは芋と自称しながらもじゃー我の道で既に把握なされたのですね。
恐れ要ります。
[N]=North[北]
[e]=East[東]
[w]=West[西]
[s]=South[南]
恐山登頂成功、おめでとうございます!!
登ったと記録残そうと思いましたが、他の人がまだ登っているようで、そのまま降りてきました。
ですが、近道が分かったのでまた登ります。
さて【恐山殿】は言う
①.「坐禅で自己の実存強度を低減する」
②.「自利行を殺して利他行を選ぶ」
③.「結果的に《なすべきことをなした》と言う実感がわく」(=結果として現れる自己の実存の根拠、自分の存在の理由を実感する、悟る、自己の充足感を感じる・・・という意味であろうか???T言)
【ジル・ボルト・テーラー】は言う
④.「(言語機能がある)左脳が自己を認識し、他者と自己を差別する」(=人間関係の争いは左脳から起こる)
⑤.(この世で生きていく為には《自己という実存》に必然的に優先順位があって、人は自己に囚われるが・・・)「右脳の世界観に身をまかせれば、《自分の壁》は取り払われて、全ての人が(一滴一滴の雨垂れが川の流れに溶け込んでしまう様に)平和・融合の世界の中に住めるのだ」(=天国の中での生活の事??・・・らしい、T言)。
そこで【塩野七生】は言う。
⑥.「ノーブレス・オブリージュ」!!
つまり、「先ず自己の確立が先に在って、それが土台となって利他行が【尊き責務】となって果たせるのだ」。
(=自己の確立《つまり土台》が無い「無我の城」《つまり利他行城》などは砂上の楼閣だ、という意味になる・・T言)。
【アドラー】も言う(意訳)。
⑦.人の悩み、苦しみは全て対人関係から生まれる。他人を気にしない事が重要だ。『嫌われる勇気』を持つことが重要だ。
・・・がしかし自利行の中だけでは真の満足感は得られない。利他行をしているのだと実感出来る時にのみ人は自己の実存(=生き甲斐)を感じられるのだ。
【NHK番組「ばっちゃん」】を観た(後半部のみ視聴)。
⑧.自分の家庭や世間から見放された、何百人もの(自らの行き場が無い)若者達の、「心の拠り処」と成って彼らの世話をなん拾年も積み重ね続けている、或る老女のドキュメンタリー放送だった・・・ばっちゃんと慕われて・・・
人は問う、「なんでそんなことをそこまでするんですか?」と・・・
ばっちゃんは答える「なんでじゃろ、何で自分がこんなに苦しい事をやってるのか自分でもわからん!!」
(いったい何が彼女をそこまで掻き立てるのか…T評)
【武田鉄矢】(今朝の三枚おろし)が映画「二人の桃源郷」を見た感想を語っていた。
⑨.65歳位の夫婦が何かの想いに突き動かされて、人里離れた(電気・水道・ガスも無い)奥深い山の中で二人だけで開墾生活・自給自足生活を送った26年間の生活を追ったドキュメンタリー番組だという。
私は問う「なんでそんなことを、そこまでするんですか?」と・・・
そこで再び【塩野七生】の言葉が浮かぶ
⑩.人に必要なのは、何かに突き動かされる様な熱き心の心の想いだ。
自分が、自分の生きがい(=自発的な自らの選択・決意)としてやる時には、どんな苦しい事も「苦」と感じる事がないのだ。何かを見つめて「耐え忍ぶ」ことさえ悦びと感じるのだ・・・と。
【Life Springセミナー】が明らかにした。
初対面の人でも5秒間、相手と眼を見合わせれば相手がGiver かTakerか分かるモノだと・・・。
⑪.相手が限りなくTaker(=自利行追求者)ならば、
自分がいくらGiver(無我的利他行者)でも、やがては私(Giver)は破産する・・・(=それでも自己の充足感と呼んでよいのか??T言)
ーーーーーーー
さて①から⑪までの点、点、点、~~をどの様に結んだら線となって、線が繋がって或る絵が描き出されるのか??
どんな自画像ができるのか??
ここ(=ブレインストーミング)から飛び出して来る「直観」(ヒラメキ)はなにか??
座禅との関連において、坐禅の心理学は此れをどう取り扱かい、どう解釈するか??
自分がいくらGiver(無我的利他行者)でも、やがては私(Giver)は破産する=この項目は昨夜私も思ったことなので、どっか通じましたね。
まあ~私の右脳がどこまで掴めるかわかりませんが、その日に掴んだこと、掴みたいこと、掴めないことなどを、師匠Tと取り上げてスポットを照らしてみたいと、午後起きてから思いました。
⑫.Giver or Taker Game を多世界(=多くの国々)で行ってみた結果を言及していた。
即ち、戦争状態・社会的不安定状態の国の中で、このGiver or Taker Gameをやってみると、
必ず(相手を)Takerだと宣言する割合がダントツになると言う事であった。
すなわち沢山のTaker(=搾取者、自利行者)が少数のGiver(=無我的利他行実践者)を食い物にしてしまう為に(塩野七生氏的に言えば)国家が滅亡してしまう訳だ。日本国内の問題としてもそれは起きる。
更には国外にもTaker国が虎視眈々と敵性国を創り上げてGiverを志す民の国を食い物にしようとしている現在の国際政治がある。Giverにとっては重い課題だ。
Giverとしてふるまっても、相手が過度なTakerなら人間関係がいずれ破綻する事は運命付けられているが、
そして破綻はGiverの責任では無い訳ではあるが・・・、
理想と現実のはざまに在って、
恐山流無我的利他行修行を「死の受容」として一体化したした場合に、
現実に生きている人間としの一人一人が、
何処に現実と理想の間で線引きをするか、
左脳と右脳の調和をどこに見出すかという問題提起が個人個人に突き付けられている、という事であろうか??
更には「もともと何も無いと受容する事から来る、~~すべきであると期待する様な事などは何もない」という思想が、
Giver哲学とどう繋がるか、坐禅心理学のテーマとなるであろうか??
ユダヤ教では、「目には目を、歯には歯を」という思想を説いたが・・・・、
恐山流儀の「死の受容」による、「自利行を殺し、利他行に励め!!」という思想は、
イエスキリストの説いたアガぺーの愛「汝の右の頬を打たれたら、左の頬も指し出せ!!」という思想と類似しているという事に成るのではないだろうか??
坐禅したらそれが出来る????
そこで(思考の側面である)点⑬としてインド独立の父と言われたマハトマ・ガンジーを振り返ってみるのも意味ある事だろう。
⑬.【マハトマ・ガンジー】曰く、(注;無抵抗主義者というのは誤解であるが)、自分(=ガンジー)の説く【非暴力的不服従】は暴力的抵抗より優れてはいるが、
しかし、もし臆病と暴力のうち、どちらかを選ばなければならないとしたら、私(=ガンジー)はむしろ暴力を進めるだろう…意気地なしで辱めを受けるよりは、私は武器を取ってでも自分の名誉を守る事を望んで居る」
と言い、
又「ヒトラーは500万人のユダヤ人をガス室で殺害した。しかしユダヤ人は、人のナイフの下に自らを差し出したのだ。ユダヤ人は崖から飛び降りて海に身投げすべきだったのだ…英雄的な行為となったのだろうに・・・」とも言っている。
その他の点的思考として・・・
⑭佐々井秀嶺師】言もある。.『必生、闘う仏教』を著書した、現在のインドに於ける仏教再興者だ。
カースト制にも入れない最下層人ダリット(不可蝕)に仏教を通して人間性回復を図っている。
彼曰く「煩悩上等、戦いあるのみ!!」というのが、尽きせぬ生来の苦悩の末に出した結論であったらしい。
私の学識がまだついていけないこともあり、
常に引用に対する解釈を必要とします。
なので、それらは探ってみるのに
十分に値するものですが、
現時点で自分が扱える範囲内で追っていこうと思います。
ですが、Tの教えは、これから扱っていく分野を特定してくれているので、一つ一つ掴んでいこうと思います。
それにしても、GiverとTakerのゲームは国家間でも起こりうることだと知ったのは
恐るべき理論だと思いました。
空想的精神論か、実証できる科学なのか??
人の心理はどこに在る!!
恐山師曰く、【坐禅】、【坐禅その後】で、
【心頭滅却すれば火もまた涼し!!】
①.自己の実存強度を低減し(=願わくば無我したいのはやまやまなれど・・・)、
②.「自利行」滅却させて「利他行」を励むべし。
③.自らには「死の受容」の枷(かせ)を嵌め(はめ)、
じっと動か痔、火の中で煙が如く、燃え尽きるべし。。。
理想と現実の狭間に在って、Takerがあなたから全てを取りにきたら・・・理想と現実のどちらを選ぶかを問うている。
精神論が勝ならば、
少年野球元祖「巨人の星」の星飛雄馬である君は、一徹おやじ恐山師を仰ぐべし・・・
少年ボクシング漫画の元祖「あしたのジョー」での
矢吹丈たる君は、コーチ段平の怒り顔恐山師から頬っぺたドつかるるべし・・・
で、現実世界であるならば、
ニッポン女子バレーの奇跡を生んだ大松監督こそが、恐山師の昔の勇姿・・・
又は恐山師は、
本能寺焼き討ちで火の中に消えた織田信長の子孫で在ったか、
それとも敵役の本能寺焼き討ちで心頭滅却した「さる僧兵」のやんごとなき落とし子なるや??
意外やはてさて、ジャンヌ・ダークの西洋ながれか??
・・・【滅却の系譜】はさまざまあれど。。。。心理学徒は如何に解く??
恐山師はニンニク嫌いかな?
精神論には【吸血鬼】ドラキュラ世界もあったのか~。
では、
『ドラキュ~~ラ、恐山に現ァ~~る』の巻!
新家訓三条参上:::恐山の山上に高く勇ましく掲ぐるべし(さもなくば惨状あるぞえ!!)
第1条;寝る時は全ての窓に鍵すべし!!
第2条;庭にはニンニク畑を作るべし!!
第3条;我が身を吸わせて奥方殿をば庇護すべし!!
それとも敵役の本能寺焼き討ちで心頭滅却した「さる僧兵
正;
それとも敵役の比叡山焼き討ちで心頭滅却した「🐵僧兵」
釈迦の周りに、
はせ参じた出家僧たちは
我が胸焦がす(こがす)熱き想いが有った筈
塩野七生の「何かに突き動かされる様な、熱き心の想い」が・・・・、
さもなくば戒律の全てが、にがき「苦悩」となって出家僧に重くのしかかる・・・
ではその「熱き想い!!」とは??・・・、
輪廻転生の、六界形式の、永遠に「苦」が付き纏う(まとう)転生循環のくさびから、
それこそ「THE抜け出す!!」
その唯一の手段として、
釈迦の奥義に従う事が、
六界輪廻の鎖からの、
唯一の脱出方法だと知ったからであろう。
これは「栄光へのエクソドス」だ・・・
その「熱き想い」があれば強く生きていける、
心の炎ですべての「苦」を焼きつくす。
ーーーーーーー
ならば現代仏教ではどうか??
現代仏教に熱き心の想いはあるか??
「何も無い」という事を受容すれば気が楽になる・・・
それ故【死の受容】が格好の落としどころか??
坐禅心理学は何処をめざすのか、
何を人に訴えたいのか、
まず坐れ、ただ坐れ、タダタダ坐れ、またまた坐れ・・・
「黙って坐ればピタリと当たる・・・
みたいなもんじゃあなかろう」とは恐山殿の言語録だ。
Tのいったとおり、情熱の炎で煩悩を焼き尽くせると思いました。
実践後、ただ座るだけでは、お仕事になってしまう恐れありと思ったのは、恐山師の意見に似通ったのかどうか。
(南師の本は読んで~ING)のためいえませんが。
心理学って枠にとられ過ぎないのも、面白いかなと思っています。
目指すどこ無いっついえば無いっす。
Sorry for the delayed response.
Yesterday I had a 6 hour hearing in the Juvenile Court.
One areas of law I do is representing children who have been taken from the home of their birth parents by the Massachusetts Department of Children and Families based on allegations of abuse or neglect by the parents.
The children are then placed in foster homes or sometimes in institutional settings.
My job is to represent the interests of the children before the Court, and assist them in returning home if the allegations of neglect are unfounded, or to request on their behalf before the Court continued protection from the parents.
Each case is different. Yesterday there was a six hour hearing involving a new born baby who was immediately taken from the birth mother at the hospital after the child was born.
Both father and mother have serious criminal backgrounds and the State was concerned enough to place the newborn with relatives.
I did an investigation and supported that placement for the time being and the Judge ruled not to return custody to the birth parents at this time.
These are difficult cases and I want to be careful and have as many facts as possible before making a recommendation to the Court on behalf of my infant or child clients that they should be kept away from the parents.
When I got home yesterday I immediately went to sleep as the hearing was rather draining.
I will continue this in another post below.
Actually, I have some comments related to children without parents.
You wrote the following:::
"If, I guess, a man is born in the cat society, left him there and brought him up only in the wild cat group exclusively (=no contact at all with human beings),
the language function won't be created in that guy after all.
So this indicates that the creation of the language center in the human brain must be post-natal even though DNA factor exists for the language sector."
There is observational and experimental support for what you say. It is very interesting. I completely agree and I think there is an important lesson about cultural evolution embedded in this fact as you state it.
First, I will discuss the case of Feral Children. These are children who grow up outside of usual human cultural interaction.
This can occur in various ways. Sometimes the parents are abusive and will lock the child in an isolating environment and fail to nurture the child. Other times the child is simply abandoned in a rural setting, and will sometimes be raised by other mammals, such as wild dogs. Other times the youngster, even an infant, will instinctively run away from abusive parents, and begin to grow up alone or be raised by non human mammals.
In most cases of so called Feral Children, it is found that after they are discovered and re-integrated into human society, they display profound inability to acquire and master human language.
The theory is that there is a stage after birth which is critical for language ability and the capacity to even learn language.
Most neuro-scientists and child psychologists agree that the human brain is pre-wired at birth to acquire language. But these neural pathways require specific stimulation and human interaction during the first few years of life.
If that interaction is not available, the pre-wiring will NOT help the child learn language later.
I find this fascinating because, in my opinion, it reveals a truth about humankind:
That physiology and culture work in harmony to form our minds.
I am NOT suggesting that Feral Children are less than human. People with disabilities are obviously fully human and should enjoy the same dignity and respect.
However, to even begin to reach our potential we require cultural inputs to activate the pre-wired hardware of the brain.
Culture can not be stripped away as a component of evolution. Humans are a social species and the development of our minds is dependent upon cultural interaction.
As science gives us more insight into the physical world, we find that subjective experience and culture remain vital.
I learned about the work of Jean Piaget. He identified four stages of human development. This supports your thesis stated above.
I won't go through all four stages now, but I will touch upon the first stage of human life, between the time of birth and age 1 or 2.
During this period the child is not language dependent.
Also, such an infant can not discriminate between him or herself and the external world. Indeed, a newborn "believes" that they are the world, and everything they perceive with their senses is part of them.
Interesting is it not!!!????
We are truly big when we are small. :-)
Let us discuss Jean Piaget's developmental stages when we have time. I believe understanding these stages illuminates brightly the human experience.
人が其処に共通して見るイメージは「生命の力」(=生命エネルギー)だと思う。生きている時だけの現象だ。
或る人間が「死、ないし死の受容」に引き付けられるとしたら、「生命の力」の裏面・反作用なのだとおもう。
人が一歩、先を進めるには「生命の力」が必要だ。
T的には自然界の中での生命力に共感する時だ(朝日の光の輝きも含めて・・・青空・輝く白い雲・頬にたなびく風も含めて・・・雨の滴もふくめて・・・)。それが私の胸をこがすという意味だ。今生きている私は今だけ、生きているという事を実感したいだけだ・・・
他方「死の受容」とはただただ暗闇の中の墓場にさ迷う時なのかも知れない。もしかしたらカラッとした明るい墓場もあるのかも知れない。先祖との続がりを確認する想い出となる貴重な場所なのかも知れない。
しかし私にとっては、無縁の場所で、自分では海での散灰を望んでおり、この世での記録、他者内の心の中での記憶の一切を抹殺したい・・・それは初めからこの世に存在していなかった如くの、
絶対無へと帰着する事を意味する。
唯一の、病身で寝たきりの、一人の姉が無くなれば私の家系(血筋)はすべて途絶えるのが前提となっている・・・
私は開き直り人生を歩むのだ・・・
そういう生き方なんだ、それがなにか??(唯我独尊)
Your comments were so interesting. Thank you very much for your explanations.
Now I remembered the fact that the right brain and left brain are connected by unsheathed wires (bare wires) between, until age 3years old.
But at the 3years old, all these wires become completely sheathed (=each wires are insulated and
isolated from each other electrically).
I feel this phenomenon may tell us something about
the acquisition process of the language ability.
When an infant sees a picture first at his or
her right brain ( for example, mother's face),
and the mother speaks to the baby as [I am your mother!!], with mother's smiles and soft hands and with her breasts,
the baby's whole emotions on his right brain shall radiate through his bare wires (uninsulated wires...
till age 3) throughout the right and left brain,
as well as the baby can fix that time the word as "mother" in totality .
But after age 3 years old, since all wires connecting the both hemispheres become insulated (=isolated),
the right brain's pictorial or emotional images
don't communicate satisfactorily with left brain's language center, probably.
This, same time, may suggest that the learning of
a foreign language later at the age should take a different path in the brains' function (=different pathway from acquiring a native language ), I guess.
.
are only meant as colloquial language which should be associated with pictures (=pictorial images).
Then after these processes become complete as
the basis of language center in the left brain,
now the enhancement of vocabulary will happen,
and then the left brain will be ready to
associate with letters for each word.
Therefore if you do learn a foreign language by learning letters first, you are only using your left brain,
so the situation will be totally different from the way of learning of your native language, I think.
Due to the too big difference of everything between my native language ( Japanese) and English,
I know that I am only using my left brain to understand English ,and there is no emotional attachment there from the right brain.
I can recognize this difference, though woman's brain function for language understanding could be a little bit different.
When I hear Japanese talk,
I don't have to concentrate myself at all, of course, in each Japanese word to understand what a speaker is saying. This means that my right brain is detecting emotions which are associated with and included in the words.
But when I really want to concentrate myself for thinking something else, even a small voice of Japanese talk in TV disturbs me a lot, because my emotion on the right brain is interfering my logos
section on my left brain.
On the contrary, when I listen to English, the effect on my brains is just the opposite.
I really concentrate my left brain to listen to the English words as word ( with no emotional attachment in my right brain).
But when I want to concentrate my thinking on something else, loud English voices don't disturb so much, since I'm not using my emotion on the right brain for English voices.
Therefore, I guess, when a feral child starts learning the native language after the ages later,
he must be conceiving the native language
as if he is hearing it like a foreign language only by
the left brain without any attachments (associations) to his right brain.
It could be very interesting to know how Hellen Keller's tutor taught language to her.
ネット記事で『死亡直前に9割の人は【せん妄】状態に陥る…』と言うタイトルをみつけた。
「せん妄」は坐禅学的に言うと「禅病」に近似しているようだ。 坐禅心理学卒論の為には「傾向と対策」篇を編み出す必要があるのかも???
いずれ、私は大学院に進みます。日本では大学院の研究生で中退したので、ここで進学の念を晴らすと思っていました。
今、そのテーマが見つかったので、これからそれも手付けていこうと思います。
ですが、公式的に発表しないかもしれません。
(師匠に個人指導して頂くことになりますが)