Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

苦痛の暗号-Code of Pain

2017-01-31 | 坐禅

苦痛は暗号か?Is pain a code?

坐禅のフォームは慣れるまで苦痛を伴う

Zazen form brings with physical pain until getting used

特に足の痺れや痛みは

Especially the numbness and pain of legs accompany

足を使えなくなるのではないかと

Would not be able to use my legs

恐怖感までもたらす

Bring up the feeling of fear


背中の痛みは正しく座れば

If I sit correctly the back pain

足の痛みほど強烈ではない

-is not strong as legs pain

だが、足の痺れによる痛みは

However, pain due to numbed legs

以下の妄想につながる

It leads to the following delusions


➡血が通らなくなる

⇒Blood fails to pass through

➡血液循環が悪くなる

⇒Blood circulation deteriorates

➡足の血管が切れる

⇒Leg’s blood tube be cut

➡血管が破裂する

⇒Blood vessels burst

➡致命的な損傷を起こす

⇒Causes a fatal damage

➡救急車に運ばれる

⇒Carried to an ambulance

➡手術をしなければならなくなる

⇒Would have to undergo surgery

➡一生障害者になる

⇒Becoming a disabled person forever


そこまで妄想が暴走したら

When the delusion has run wildly to above

それ以上坐るのは無理になるので止める

It will be impossible to sit any further, so better stop

だが、一度その妄想に立ち向かった時があった

Although, once there was one moment I have faced on the delusions

苦痛の実体を眺めようと思った

I thought to try gazing at the entity of pain

苦痛を分析したり

Analyzing pain or

圧倒されるではなく

Not to be overwhelmed 

苦痛をただ見つめようと思った

I just wanted to gaze at pain


苦痛を見るには

To see a pain

苦痛を感じている身体感覚から離れる必要がある

It needs to get away from physical sensations which I am feeling

身体感覚が自分のものだと決めつけると

If I decided that the physical sensations are belonged to mine

私という自我は苦痛そのものになって

Then my ego which as me, becoming pain itself

苦痛を避けたくなる

It wants to avoid pain

私という自我は苦痛を無くすために

The ego of me tries to eliminates pain

恐怖を感じさせ

-it lets me feel fear

苦痛を止めさせようとする

-tries to stop having pain


恐怖心は人を怯えさせ

Fear frightens people

事実に直視できないようにする

-it tries that not to look directly on facts

私はその恐怖心の態を見ようとした

I tried to look at the form of fear


実際に身体の苦痛が進行しているので

In fact, because of the physical pain is ongoing

苦痛がもたらすはずであろうとの

Whether the pain should bring

恐怖心を直視することは難しい

That is difficult to look directly into the fear


だが、自我を外側に置くと可能になる

But it will be able to see if put ego on the outside

つまり感覚を感じている自分を見ることだ

That is, seeing myself which is feeling senses

そうすると、恐怖に圧倒されている個体が見える

If so, can see the individual which is overwhelmed by fear

その個体は苦痛に塗れて

The individual has smeared with pains

恐怖に怯え、恐怖を直視できていない

-frightened to fear, not been able to face up to the fear


その恐怖の実体は事実でありながら

Both side the entity of fear is as a fact

幻想でもある

-it is also an illusion

それらを眺めているうちに

While I was gazing at them

気がついたら苦痛が和らいでいった

I found that the pain has demised when I aware


苦痛というのは

The pain is

暗号か…

Is it crypto…

解読したら見えるものか...と思った

It can be seen if I decoded…that was my thought


これらは

These are

H24.10.25(2013)の4年前に

4 years ago, on October.25. 2013

坐禅ノートに書いてあった…

Written in my zazen notebook…

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42 Comments

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どっしり感 (92.5%)
2017-02-07 15:46:18
ある心理士から、私の座り方が仏陀のようだといわれましたね。
私には安定感があるようで、人から落ち着いているとよく言われます。
自分からは自分を視覚的に見ることはできないから、そおか~くらいで終わっちゃいますがね。
そういえば、恐山の南師のYouTubeビデオ観たら、彼もかなり落ち着き感がありましたね。
どっしり感でしょうかね。
Tの写真からも落ち着き感がありましたし。
それもどっしりすわった感ありました。はい!!
返信する
Unknown (T)
2017-02-07 09:17:31
>解決すべき問題がないからか?

自己の実存を感じる時は、他者との比較時においてのみなされる。大自然の中に一人存在している自分を想う時でもよい・・・。

自然の脅威に直面している時、乃至、
他の人の存在が自分に問題を引き起こす時、
また自己である事を否定される問題が出現した時に・・・、

自己の主体性が現れ、
この時、不安現場を支配する主人公は誰なのか、
自分が主人公であるのか、向こう(脅威・恐怖)が主人公であるのかを決めなければいけなくなる。
自分がどっしりしているかどうか感じるのは(=試されるのは)そういう時に感じる感覚なのだと思う。

そう言う時に自己と言う主体性(自分が自分の主人公なのだという意識)が現れて来る。

もしその時、頭が真っ白でパニックを起こしているのなら、それは自分が自分の主人公であるという事を忘れている証拠なのだろう。

すべて外敵に対する脳内反応での概念に過ぎない。
自性孤立的に「どっしりとした自分」などという実体は存在し無い。
「物事に動じない」と言っても、物事が発生しなければ、動じないでいる自分も起こりえない。
普段の自分は、どっしりすわった感も望まず、浮遊物感も無く、主人公意識も無くていい訳だ。

経験的に過去の自分がどうだったかは評価出来、
それ故に将来起こる問題に対しても自分がどう応答するだろうかは予測できる。

自分がパニックを起こしやすい人間だと思ったら、前もって心の準備をして置くことだ。
予め、幾つもの回答集を用意して、全てを想定内に収めて置けば、
その時になって慌てふためいて我を忘れる事はないという事に成る、まあ92.5%の確立で・・・。
津波避難訓練や防災ドリルは役に立つ。地震・雷・火事・オヤジ対策勉強会も役に立つ。エリック操縦法勉強会もおおいに宜しい!!

だから普段はネ・・・、
「目は横に在り鼻は縦にあるみたいじゃよ!!」(美形のいかつい道元禅師)、
「腹が減ったら喰らい、眠たかったら寝る・・・ワ・タ・シ!!」(くっちゃねの瑩山禅師)で、シラッと&のほほんと・・・暮らす(自若泰然)。
これ即ち、「どっしりすわった感じ」という事なのだと思う。
mmmなんか武田鉄矢んちの「どっしりかあちゃん」って感じだね!!
返信する
概念上の項目 (要は)
2017-02-07 03:20:55
『どっしりすわった感』
ー約20年前
そのどっしり構えた感じが持てなかった私は
いつか、自分という概念がしっかり掴めたら
私もどっしり、
外の状況に振り回されず
どっしりいられると思った。
当時、自分は軽くて根がはっていない、浮遊物のように感じていたからだ。
それから20年、私の自己概念は
変わってきた。
妙にも
どっしりすわった感をもう望まない自分がいる。
浮遊物感も無いのだが、
主人公意識も無い。

解決すべき問題が無いかからか?
返信する
Unknown (T)
2017-02-06 17:39:13
>果たして自分が本当の主人公だと言えるだろうか?

答えはYes & Noとなるのかな。

自分が「考える主体だ」と思えばYes,
自分の自由意志決定だと思えばYes,
成熟した大人の自分と思えばYes,
etcのそれなりの理屈でYes.

しかし人は「環境の奴隷だ」と思えばNo,
人の行動は他者に左右されていると思えばNo,
人は(不可抗力的な)感情で動くとすればNo,
etcのそれなりの理屈でNo.

いずれにしても、
しっかり確立した自己の上に立って、
自分を見失なう事無く居られる時には(=自失茫然・頭真っ白・激高で我を忘れるetcの状態では無く、冷静沈着である精神状態の時には)、
自分は「自分の主人公だ」と自己洗脳する心が作動する。
よって肝がすわって、問題解決の道筋が見通せて来る・・・、
そんなシチュエーチョンで使われる概念上の言葉であるようだ(=論理学上での正確な言語ではない)
返信する
意識度 (主人公)
2017-02-06 12:05:12
舞台の主人公....Tに取って私は脇役で、視聴者でもある。
或いはエキストラか。
主人公Tにも監督がいるだろう。
プロヂューサーだっているだろう。
脚本家だって、
主人公は与えられた役を
監督が要求する注文通りに演じなくてはならない。
決まったセリフを言わなければならない。
自分の番を待たなければならない。

そう思うと
主人公ももはや主人ではなくなるのはないか?
もしかして、主人は監督や脚本家かもしれない。
確か、役の重さ
割り当ての時間に換算したら主人公のほうがずっと多い。
ギャラも下駄違い。
だが、それが果たして
主人公の意味付けになるだろうか?

人との劇の中でも
それぞれ自分が主人公だと思っていても、
上記に書いた例のように
果たして自分が本当の主人公だと言えるだろうか?
返信する
問題意識の視点 (不安の解釈)
2017-02-06 11:25:24
不安は、
ある状況下で人が感じる本能的な先見だと思う。
本能的先見とは、自分の存在がある危険に陥るのはないかと予測できる見渡しでもあろう。
危険を感じるセンサーが不安として感じてくると訳の分からない不安として現れる。
失敗するかも知れないと感じるのも不安になるだろう。
釈迦は果たしてその種の不安を抱いたのだろうか。
死や病死、老いについてどのように思っていたのだろう。
釈迦は自分自身の死、病老の予見に不安を覚えただろうか。
或いは、その死がある
病老がある、ことに問題意識を持てただろうか。

釈迦の感覚は
感覚有りだったのか
感覚無しだったのか

凡人の私には
書籍に書いてあることでしか
計り知れないが、

悟りを得たことが
修行の着地点だとは思わない。
返信する
Unknown (T)
2017-02-06 09:21:45
総持寺元貫主板橋師は『息身仏』の中で、
自分も若い時には「漠然とした不安・存在そのものに対する不安」の如きものに煩悶した者であるが、

何時しかそういう問題意識が「向こうから訪れて来なくなった」的な事を書いていた事を思いだす。

これは坐禅の結果、幻想・妄想から目覚めたという事なのか、
単に年取って無感覚になったという意味なのか??

心理学的坐禅教育長としての見解というモノもあるのだろう。

返信する
Unknown (T)
2017-02-06 07:56:22
前述した「漠然とした不安」「存在そのものに対する不安」と言っても、何故(或る)人がそのように感じるのかは、原因が色々あるモノなのだろう。
心理学的に分類別けする必要があるかも知れない。

釈迦は何故自分の「The問題意識」から解脱出来てしまったのか、心理学的に考察する価値があるのだろう。

恐山殿によると、自分はその問題意識を解決したのではなくて、(サラッと)やり過ごす方法を釈迦から学んだと言っている訳であるが、
それなら釈迦自身も問題意識を解決したのでは無くて、単に問題を考えない様にする「やり過ごし方!!」を会得したという事なのか???
う~む、心理学的に興味が沸く・・・。
返信する
訂正@03:10:36コメ ()
2017-02-06 04:06:12
きれいサッパリなってしまった・・・・>

きれいサッパリ無くなってしまった
返信する
補足 (T)
2017-02-06 04:00:35
「坐禅」とは思考を止める事。
「悟り」とは坐禅そのもの、思考を止めて生きる事・・・と言う禅僧もいるようだ。
道元の行住坐臥、一日の全てが坐禅だという言葉をうがって考えるとそういうことに成る。

そういう禅僧は、日々をそのまま平常心で暮らす事が「悟り」そのものなんだとも言う。

「日々是好日」とは「毎日がいい天気だなァ~」と(単に受動的に)感激する事ではない。
雨・嵐・雷・火事・(そしてオヤジ)の日々であっても、
天変地異に動じず、常に自分が自分の主人公であるが故に「眼は横に在り、鼻は縦にある」(道元禅師)、
「腹がへったら喰らい、眠たかったら寝る」(瑩山禅師)
の如くの、ごく当たり前の事をごく当たり前に受容(=現成受容)する・・・これぞ「悟り」の境地・・・・という様だ。
返信する
欲求する坐禅、解決する坐禅 (T)
2017-02-06 03:10:36
此の世は不安定な時代だ。悩み多き時代だ。
人々は容易に【漠然とした不安】【存在そのものに対する不安】に襲われる。存在する事そのものが苦痛となる。

それに対して坐禅が果たすモノ、果たせる事は何か。

釈迦の例で考えて見る。
王宮に住んでいる29歳位の時の釈迦は、まさに「漠然とした不安・存在そのものに対する不安」を感じ、それに苦痛を感じて・・・・、
ある人評して「釈迦は鬱病になった」「妄想苦から遁れる為に出家世界に逃げ込んだ」・・・の如くで在った訳だ。

で、菩提樹の木の下で坐禅に服して7週間後、35歳の時に「悟り」に至った訳だ。

では釈迦の得た「悟り」とは何だったのか??
「漠然とした不安感、存在そのものに対する不安」からの解決・解放なのでは無かったのか??
私的にはそうであった筈だと推理する。なぜなら「解脱した、涅槃した」という言葉が付随しているからだ・・・。

上座部派では其れは彼(=釈迦)の恒久的普遍的かつ不変的に体得した(大乗派仏師「恐山殿」の言う)【変性意識】であったという事に成る。
以後は「漠然とした不安感・存在そのものに対する不安」はきれいサッパリなってしまった筈だろう(と思う)。

では何故釈迦はその後も坐禅し続けたのか??
①.弟子たちに対するデモンストレーション
②.弟子たちとの一体感を楽しむ
③.日々新たに起きる現実的・実質的・具体的な問題に対して、客観的に冷静な目で正解を得る為

では現在の世に於いて、
欲求する坐禅とは何か、解決する坐禅とは何か??
返信する
追加 (T)
2017-02-05 08:58:59
そう、
坐禅は、自分が「自分の主人公である」という事を思い起こさせて呉れる場所だ!!と言ってもよい。
返信する
Unknown (T)
2017-02-05 08:47:16
世の中には火事場の馬鹿力を発揮する人もいる。
普段とうへんぼく(唐変木)で人生気楽な稼業で、何一つ考えないので、
いざ事が起こっても、何一つ想定内にない想定外の出来事に出くわす事になるが・・・、

頭の中が真っ白にもならず、そこは豪胆に、
エイヤ~っとやっつけ仕事で切り抜けてしまう・・・豪傑タイプと言うべきか。
でも稀には立ち上がれ無くなる時もある…なにせ何一つ準備する事も無かったのだからそれも運命だ・・・・・
ーーーーーーーー

他方私の様な生来の小心者は心配症を患って、10の想定解答集を前もって創り上げる。
しかし今までの経験値によって、その9割の事は実際には起きないのだと知っている。
ちょっくら頭を冷やして、即座に不安が遠のいて行く。スラッと平静さが戻って来る。

万万が一、マーフィーの法則によって、運命の宣告がが下されるのなら、
それはモハヤ不可抗力の運命だとして受容する覚悟は出来ている。
自分は既にやれるだけの予防策をして来たのだから、自分としては最善の事をしたのだからと自分を受け入れる事が出来る。
私は自分で【自分が主人公】を演じ切ったのだから・・・

人生とはそんなものだ!!
返信する
我が中心 (少欲知足)
2017-02-05 07:29:25
実は私、怒りぽくて攻撃的になりやすく吠えがちなので、読むと耳が痛く(目も痛く)なりました。
どうやってそれをコントロールするか分からなかったところでしたので、自分が主人公であるとの自覚を考え直す切っ掛けになりました。
怒った時は自分を失っていたのですね。
その自覚は無かったのでしたが。
返信する
Unknown (T)
2017-02-05 03:04:22
「頭を冷やせ」とは「短気は損気」と言う事だ。
頭にカア~ッと血が上ってしまうと、喧嘩ッ早くなり、冷静沈着さを失う。方向性を見誤る。正解が出なくなる。
交感神経系がドンドン活発になり、非常事態警報が鳴り響く。自らを見失う。物事を対立的に捉え、悩みが生じる。妄想が始まる。自分を失うから自分が主人公であるという自覚を失なう。

 
自分が主人公であるという自覚があればどんな事態でもすべて解決する様だ。
きょろきょろしない。己の立つ処を踏みしめる。
視線を落ち着かせてあたりを見回し、にげる方角をさがす。
今出来る事、そこからまず一歩を踏み出す・・・。

自分が生きたいと願わない限り生きる道が見つかる筈は無いのだ。
其の為には頭を冷やす、冷えた頭で辺りを見渡す事が肝心なのだ。

運命があなたを作ったのではなく、あなたが運命を作るのだ。

そして、あなたが運命を作り易くする為には、
釈迦の言う
「知足の人、地上に臥すといえどもなお安楽なり」、
「不知足の者、天道に処すと言えども未だ意に叶わず」から智慧を学ぶべきだろう・・・

注)知足=少欲知足
返信する
About fear (To Eric)
2017-02-04 11:32:07
At home, we talk about this blog a lot, my readers and their articles.
At most we talk about T and the relation with the writer's blog as a circle.
When I started this blog, you were the first and the only one reader.
When I started to post this blog on Facebook, you are the only one who gave me "like" but sometimes you didn't give me it.
To come this far, yours support is the most important part.
This moment,you asked me" Are you writing comment for mine?" and watching movie Impossible, yeah...it was impossible to come up this for without your help.

Fear...I think it is a offensive function to protect oneself when face on a danger or lisk.
But T will give you more accurate answer.
返信する
Unknown (Eric Applebaum)
2017-02-04 07:26:38
I used mechanical translator and read all the comments on this blog post.

The post itself is fascinating. The subject of fear has been with humans even before we were humans.

Evolution of the human species is linked to fear, how we control it, and how it controls us - to the extent there is a chemical response in the body and brain to fearsome incidents and/or thoughts.

Perhaps through mind practice alone one can alter the autonomic chemical responses to fear. This must be true.

Fear was an absolutely necessity as we evolved from hominids to humans.

Some anthropologists suggest we may have stopped evolving, as the risk of tigers jumping out of the woods to eat us has subsided. Perhaps. Perhaps not. The challenge of fear is still with us....this ancient friend to survival, this lonely harbinger of suffering.

Julius Caesar said the best death is one that comes unexpectedly. An interesting statement for a warrior king, not known for cowardice. Perhaps the statement is simply practical: Fear is a time killer.

Over the years I have known the blog writer, I have had the opportunity to admire how she faces straight on the issues of her life.

I am very happy to see that my wife's blog generates such spirited and interesting discussions.

I read of the comments carefully, as well as the blog post itself. Even though the translation is not perfect, I can get the meaning of the comments, and I just read them for the pure experience of such spirited discussions.

As a lawyer it is my job to advicate for my clients. But today I just enjoyed "listening" to the comments, letting them be peacefully and fearlessly upon me without the intention of any response or rebuttal or support, other than to say: "Thank you commenters for such interesting ideas."

Fear...it is a response, it is not?
返信する
冷暖房兼リモコン (エアコン完備)
2017-02-04 05:45:46
ザープロの流儀として、
体内温度維持のために腹巻きに徹する。
腹巻きは綿の素材が望ましい、何故なら科学繊維に比べて静電気が起きないからだ。

足の組み方に伴う苦痛の予防策として、
柔らかい座布団をひくのも一つの可決策だ。
大体、坐府(ざふ)は小さすぎて欧米人のでか尻には間に合わない。
また、加齢に伴うお尻の垂れ具合や肥満による面積増加にも不適切であろう。

頭を冷やせ!との指示については
千差万別なので、
Tにその方法を伺ってみようと思っているである。
返信する
補足 (T)
2017-02-04 04:25:49
野球選手は肩を冷やすな!!
妊婦は腰を冷やすな!!
短距離走者は足を冷やすな!!
寒がり屋なら首を冷やすな!!

見つめ続ける人は眼を冷やせ!!
学者なら頭を冷やせ!!
冷やかし屋は口を冷やせ!!

では坐禅者「Theプロフェッショナル仕事の流儀」は?
返信する
【頭寒足熱坐禅】 (T)
2017-02-04 04:15:40
科学的坐禅研究課題。

座禅の真髄は(精神的に)「頭を冷やせ!!」の実践だろう(冷たい手ぬぐい鉢巻きも名案かも・・・)。

「思考の一点グルグル回りから離れて、一旦自分の思考を絶ち切って・・・」、客観的・水平飛行的に、自分と周りの環境を見つめ直すという事であろう(只ひたすら大悟を狙うという事で無いならば・・・)。

さらに(丹田呼吸を通しての)腸の刺激により腸内温度を高めて副交感神経系の活発化を図るのも理にかなっている(=腸は第二の心)。
腹巻して坐禅をするのも良さそうだ。あるいは懐炉とか・・・(おなかにアイスノンを付けるのは逆効果?)。

同様な理屈で足湯坐禅も理に適っていると言えそうだ。足湯してると心が落ち着いき安らぐから・・・・
ーーーーーーー

逆に足氷漬け坐禅は苦行そのものだ。
科学的に是認出来ない感じがする。足の麻痺疼痛が脳に苦痛をあたえる。脳が忘却する・・・・「忘却とは忘れ去る事ナリ!!(@君の名は)」。

では古典的「床足組み坐禅」はどうか。
君が下手くそだと足の血管を圧迫する組み方となるだろう。当然血流が悪くなる。足は痺れてやがて無感覚になる。下手に足組みすると足氷漬けと同じ効果(=副作用)が出そうだ。

その是非は科学的に実証されるべきであろうか??

そこはひたすら精神論(苦行精神)で乗り越えるべきか(みんなもそうしてるんだからね・・・と言うわけで)??
欧米人に広く普及させるには「足組み坐禅」は根拠性に欠けている。志願者を自ら縮小させてしまう(・・・と思うんだけど??)
返信する
Aweのワオ! (Quantum理論のAwe)
2017-02-03 04:05:41
量子力学坐禅法、格好いい

3次元坐禅は最、最クールなり!

ザーCutting edge坐禅

知識のトップを極めた者でないと書けないコメなり!
凡人には理解できまい
だが、凡人にも情報を提供してもらうクラウド上の恩恵が与えられている。
ネットに感謝しろなりうる。
返信する
Unknown (T)
2017-02-03 02:51:59
心理学的坐禅とは??

その一、
心象学的坐禅と解すれば、
クラシックな床に足組みするスタイルが仲間との融合の充実感(一体感)を産む。
トランスポーテーション効果を生む。
【量子力学坐禅法】だ(by Quantum Theory, ワオ!)

その二、
科学的三次元坐禅と解すれば、
足がどこに在るかは問題にならない。三次元座標軸上の何処でも良い。
床に足組みするか、椅子に座るか、釈迦横臥涅槃図でやるか、テック・ナット・ハンの立ち姿か、道元の「行住坐臥」スタイルか・・・・、コレ全て人の好き好き
返信する
Unknown (ところ)
2017-02-02 16:36:26
椅子坐禅は邪道ではありませんが正式な坐禅でもありません。足の不自由な人に薦める方法です。不自由でない人は正式な座りかたがいいです。苦行は悟りには至りませんが坐禅の足の痛みは苦行ではありません、何時でも自分次第で座る時間を変えられます。何時も素晴らしい見解を楽しみにしています。
返信する
Unknown (T)
2017-02-02 13:58:55
坐禅に於ける【姿勢】の本質は丹田呼吸(腹式呼吸)をするという事であり、それによってセロトニン分泌が促進されるという事は脳科学者の有田氏が『仏教と脳科学』で述べています。さらには丹田呼吸で腸が刺激を受けて、腸が刺激を受ければ副交感神経系が活発化する事も分かっています。
床に直に坐るか椅子に腰かけるか(又はソファ等使用か、そして歩くにしても臥せるにしても・・・)云々は生理学上は無関係でしょう。要はどの様な姿勢でも、丹田呼吸が最大限に出来ればよい訳で、其の為に口・喉・気管支と体の姿勢の関係を調節するという事がポイントなのかと思われます。
まあ坐禅堂に参加する時には決まった作法に従わないと統制が取れないでしょうけど・・・

注)有田氏は東京で【セロトニン道場】を開いており、セロトニン分泌増進のために色々な研究(プログラム指導)をしている様ですね。或る形式のダンスなどもいいとか指導している様ですね。
坐禅(丹田呼吸)を3か月続けると、脳内のセロトニン受容体が継続的に大きくなるとかですね。
日本人は極端にセロトニン分泌が少ないので悲観論者が多くなる、欝にもなりやすいとされている様です。心の安定の為にはセロトニン増幅作用が有る坐禅(=丹田呼吸)はお勧めだという事は科学的に実証されてるようです。曹洞宗の地域広報活動でもそれを宣伝してるし、『息身佛』の総持寺元貫主の板橋師もその事に言及してますね。
返信する
椅子坐禅 (ところさんへ)
2017-02-02 12:06:45
そうですね。椅子で坐禅を行っても効果は差ほど変わらないでしょうね。
苦痛が悟りに近づく方法でなければ、他にどのような方法があるのでしょう?
返信する
標高1200m (カラマツさんへ)
2017-02-02 11:56:25
からまつさんは標高1200mの山での住まいですよね。
山と本に、瞑想も、とても清らかなライフスタイルのようですね。
ヨガはジムで何回かレッスン受けたことはありましたが、教意は知らないので勧めの本を探して読んでみますね。
ありがとうございました。
返信する
Unknown (ところ)
2017-02-02 11:18:01
苦痛は悟りに近づく方法ではありません。足の痛みは仕方がありませんが座り終わった時の解放感と達成感はなんともいえません。東洋人は座る機会が西洋人に比べ多くすぐに慣れてくると思いますが、椅子坐禅というものもあります。足の痛みはありません。ご存知だと思いますが
返信する
瞑想 (カラマツ)
2017-02-02 07:30:14
 興味があったので読者登録させていただきました。
 
 日本で人気の般若心経では、仏陀は人が知恵の完成を目指すべきことを説いていることを知りました。
瞑想にチャレンジしていますが、とても良い本を見つけました。
インドのヨーガ指導者スワミ・サッチダーナンダという人が、ヨーガの教義を現代風にわかり易く書いた和名“インテラル・ヨーガ”(めるくまーる社刊)という本です。

 私の場合、心の作用を止滅させるまでには到底至っていませんが、とにかく続けていこうと思っています。

返信する
時代を超えるもの (苦行の時代性)
2017-02-02 06:55:37
坐禅における方法論の時代的考察
仮説B
坐禅における苦行論を現代の時代性に合わせて工夫できるか。
結論
科学的な根拠は必要である。なぜなら、安全である保障が持てるからだ。
現代は何事にも保険が必要、冒険はしない。
時間を費やして得られる結果が期待値を下回ると販売価値が落ちる。
科学的な保障があれば、確実に例外なく効果を得られると期待し、試す意欲を促す切っ掛けになるだろう。
だが、その方法論は坐禅が禅宗から派生したことにより、宗教の儀式の影響を受けてしまう。
これらの諸問題を解決できる方法を模索すべきだ。
返信する
時代の背景 (苦行の効用)
2017-02-02 06:44:47
現代人に苦行が必要か:仮説A
必要としない。
何故か?
コンビニが蔓延する現状を見れば分かるように便利で手っ取り早い手段を好む。彼らがわざわざ不便な状態を得るために、苦しい過程を必要としない。
結論
結果を急ぐ現代人にとって、苦行は無意味だろう。
返信する
Unknown (T)
2017-02-02 06:18:41
メソッド(方法論)の在り方Methodologyは時代の発展に伴って変わっていくモノだ。
物事の本質が明らかになるにつれ、同じ効果を産む、より良き方法(メソッド)が開発されてくる。心理学的・科学的見地から物申す事が出て来る。

2500年前のスタイル、800年前のスタイル、古来からの苦行のスタイル、~~、~~は永遠普遍の真理では無いのかも知れない、そうなのかも知れない。
それについては時代時代で明らかになった手法で実証される事が望ましい。
現在では実に様々な新メソッドだって存在している訳だし・・・。
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Unknown (T)
2017-02-02 03:47:47
荒行は精神集中の為・精神力強化の為の、
自己鍛錬・自分自身にかける洗脳みたいな気がする。

ある種の変性意識は出て来るかも知れない。自己に打ち勝ったという想いが出て自信がつくのかも知れない。自分の弱さに打ち勝つための手っ取り早い方法論かも知れない。

釈迦は6年間それをやった。
でも自分の疑問は解消されなかったから荒行を止めて(=荒行は無意味と判断し)、菩提樹の下での瞑想を最終的な拠り所とした。1か月?位で悟りを得た。

で、一つの疑問は、釈迦の6年間の荒行は全くの無意味な時間浪費であったのかどうか、と言うことだろうか。
「急がば回れ」で、釈迦の悟りの為には結局6年数か月が必要だったという事だったのか?、
もし釈迦が、荒行を早々にスキップしていたら出家して6か月もあれば悟ってしまう事ができたのか??

現代社会は必要な情報を素早く得ることができる。昔は寿司屋になるのに10年以上かかると言われていたけど、今では半年で寿司屋になれる。様々な情報を駆使できるからだ。

現代人に苦行は必要なのかを考察する事も心理学的坐禅の研究課題かも??
心理学的に真に必要な「心の在り様」は何なのか??

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涅槃像 (Tへ(桂蓮))
2017-02-01 14:19:26
では荒行で悟りを得ようとする宗派は(滝に打たれる、断食するなど)何のために苦行をするのでしょう?
涅槃が穏やかな形で現れるなら、私はきつく見えるので、もう見た目から外れ?でしょうか?
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Unknown (T)
2017-02-01 10:14:23
日本語のウィキペヂアで「涅槃」(ねはん)と検索すると、
涅槃=悟りとある。

日本で近代仏教研究者の祖である中村元は、
釈迦時代の様子を良く表しているダンマパダ第十章暴力、134節の訳注において、
「安らぎ(=ニルヴァーナ、涅槃):声を荒らげ無いだけで涅槃に達しうるといっているから~~」と記している。

明らかに「悟り」と「苦行の苦痛」は本質的には関係無くて、
むしろいつもニコニコしていて、言葉が穏やかな人こそ涅槃に達した人だ、と言ってよいことに成る。
(注)後代の仏教教学者が悟り・涅槃を小難しくしてしまった様だ。
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それっ! (桂蓮)
2017-02-01 08:22:39
『透き通る静寂感』これについて昨夜書きましたが、データー不足で止めてこのタイトルにしました。
私のノートほとんど、それについて書いています。
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データベース (桂蓮)
2017-02-01 08:19:41
T=Data bankですよね。
右脳と左脳を繋ぐ脳幹が女性並みに太いと推測しちゃうほどです。
脳幹が太い女性はそれが細い男性に比べて、直観が鋭いらしいですね。
知識を関連付けさせる能力も、左右の脳のバランス感覚が優れているから、そんなに素早くデーターを持ち出せるでしょう。
私は、知識系に疎くて消化できるまで時間を必要としますが、一度飲み込めたら、後は早く処理できます。
アップロードするには、ダウンロードしてインストールしてその他の他、再構成など過程が複雑です。
Tのいう水平飛行は私の2020年版に可能でしょう。
データー処理には時間がかかりますので、了解ください。
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Unknown (T)
2017-02-01 08:01:48
即ち、悟り・解脱・涅槃の本質は、悦び、安寧、平安、透き通る静寂感だから、
苦行の苦痛感からは生じない。
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Unknown (T)
2017-02-01 07:47:15
ついでだから言及しとくけど「呼吸セラピスト」以外にも
「笑いセラピスト」と言う分野もあるよね。
基本理論は、哲学者アランの「人は幸せだから笑うのではない、笑うから幸せになるのだ」という真理?から出ているよね。

日本では昔から「笑う門には福来る」との諺があったしね

さあ皆さんご一緒に・・・ワッハッハ!!
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Unknown (T)
2017-02-01 07:35:50
悟りと苦行が関係あるというデータも探せばあるのかも知れない・・・人さまざまだから。
しかし基本的に言うと、もし苦行が苦しみに耐える時間と言う事で言うと交感神経系の異常緊急警報が発令されている最中だから、そういう状況下では「悟る」事は難しそうだ。
交感神経系の異常警報を精神力で抑え込めれば、苦行中「悟り」を得られる可能性はある。しかしその時は苦行中ではなく苦行を超越した時点で「悟る」という意味となる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の比叡山僧兵の焼かれ姿が目に浮かぶ・・・。
ーーーーーーー

悟りと苦行は関係ないという事を示すデータは、
南さんの変性意識=悟りの一形態は、坐禅中、永平寺で屋根の落雪の音で突如訪れた。

釈迦は坐禅中、明けの明星を見た鶏の鳴き声で突如悟りに達してしまった。

これらは苦行と悟りは本質的には関係ないという事のように見える。
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Unknown (T)
2017-02-01 06:24:19
数年前の恐山殿の記事で「坐禅の作法」について解説していたけど、
坐禅体位は、呼吸が真っ直ぐ通って腹式呼吸がしやすいためだ、といってたよね。 
腹式呼吸は丹田呼吸の事だから日本では全ての武芸家(今ではスポーツ選手)が「肝をどっしりと据える」と言う目的の為に遣っていた呼吸調えのテクニックだよね。

医学的にいえば、腹式呼吸をすると腸が刺激されるから副交感神経系が活発になる。副交感神経は、気持ちの安らぎ・安定感・落ち着き感を醸し出す、と繋がってくるわけだよね。
呼吸療法と言う分野があって、落ち着きのないせかせかしたストレスいっぱいの人は胸式呼吸で息が浅いから、腹式深呼吸をさせると、人間が変ったように落ち着て来るという事で、呼吸セラピストもいるよね。

坐禅形式は集団作法として道元師がみんなで一緒に「型」から入る事の精神性(集団行動理論)を優先したからだとTは思うよね。

現在のサンガ指導者のベトナム人臨済宗派テック・ナット・ハン師は(数歩前に)「歩く瞑想」(の繰り返し)を指導しているよね。
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痙攣常習 (桂蓮)
2017-02-01 05:59:40
Tへ
4年前に書いたノートを要約したものです。
当時は心的苦痛が酷かったので
苦行だと思いませんでした。

当時のノートを読むと
もしかして、私あの境地に?と思ったりしますが、もう長年が経っているのですっかり忘れてしまいました。

今は自分のノートを理解するために記憶を呼び起こしています。
認知症の予防接種!!
悟りと苦行は関係はあると思いますが、
データーで言えと社会心理の先生からいつも言われましたね。
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Unknown (T)
2017-02-01 05:41:10
まさに苦行者が苦行を行う時の心理ですね。
苦行者はそれを乗り越える事に快感を覚える。

釈迦は6年間?の苦行者生活で何一つ悟りを開けなかった。
苦行者生活を止めて、その後、菩提樹の木の下で瞑想をしていた数日間は足が痺れるなんて事は無かったんでしょう。

それで悟りに至った。
悟りと苦行は無関係??
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