Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

無思考のエネルギーEnergy of None thinking

2017-01-27 | 坐禅

『思考を切る』という坐禅の枝法がある

There is a zazen technique as “Cut a thought”

この技法を扱うため『思考の側面』を書いたのだが

To deal with the technique I wrote “Lateral of Cognition” though

その過程で思考が止まるゼロ時点を言及する必要があった

I was needed to mention the zero point

where the thinking(=cognition) stopped in the process


そのゼロ時点は空間感覚を伴うため

Due to the zero point accompanies a spatial sensation

私達が生きている3次元以外の4次元以上の空間

The space that more than 4-dimensions

-other than 3-dimensional we’re living at

つまりは時空間を解明していくことになり

So, it has led to explication of the time-space

それがアインシュタインの時間概念の解釈へ発展した

It also has expanded to the interpretation of Einstein’s time conception

それら思考にまつわる枝別れについては

Those branching ways which coiled around on thinking

次回に関連付けていく

I will make a connection next time


その思考の側面に関したコメントの中でPOさんが

In the comments on Lateral Cognition, Mr. PO wrote that

『思考を外側から見る、ということが
私にもよく分かりません』との問いがあった

“Seeing the thought from outside, it is hard for me to understand well”

彼はまた、自らの見解を以下のように述べた

Also, he added that has stated his view as following

『私は知覚した「事」を先ず始めに「物」化するということが
思考として最初にあるのではないでしょうか』

“Would be there a way that make a thing to be as a thought

-at the first when I conscious a thing”


思考を外側から見るというのはどういうことか

What does it mean to see a thinking from the outside?

その解釈には

For the interpretation

脳科学、哲学、心理学、認知分野、辞書的な定義など

Brain science, philosophy, Psychology, Cognitive field and a dictionary definition

多岐に渡る捉え方がある

There are variety ways in the range

私はそれらを全部取り上げる忍耐力を持てないため

Since I don’t have the patience to describe all of them

私個人の思考の外側についてのみを述べる

I will describe only my personal view of Lateral thinking


思う、考える、思考 これら3つは

Think, Conceive, Thought, 3 of these are

脳の中で起きる神経伝達物質である

They are neurotransmitters that occur in brain

信号を送るための電波の送受信による結果でもある

They are also results of wavelength for sending and receiving to send signals

ある電波を発信しても

Even if a wavelength is transmitted

それを受け取る受信機が無いと

If there is no receiver to receive it

電波を交信することはできない

It is impossible to receive the telecommunication


よって、思考をある電波であると仮定すると

Therefore, supposition that the thought is the wavelength

自我が一つの思考をその自我に発したら

If an ego gives off a thought to the ego

その自我が送られた思考を受け取る

The ego receives the thought sent by the ego

受け取った電波は発信される限り

If the received wavelength transmitting as long

受信機と繋がった状態になり

It becomes to be connected to the receiver

これらの送受信は電源が切れるまで続く

These sending and receiving continue until the power turns off


私が思う思考の側面とは

What I think about Lateral thought is

その交信の状態を電波技術者の目から見るということだ

It is to see the state of telecommunication from the view of a radio technician

思考を切るといのは

Cut off the thought is

その電源(エネルギー)を切ることになる

Turning off the power(energy)

電源を切ってもまた電源を入れ直すことはできる

It is possible to turn on the power again when it is turned off

そのスイッチの入れ替えが

The switching of ons and offs

坐禅におけるゼロ時点であるのだ

-they are the zero point on zazen


つまり、思考=電波の送受信=交信状態

That is, Thinking = Transmitting = Telecommunicating

なので、切る=遮断=無思考になる

So, Cut = block = None thinking

POさんの見解である思考を物化するというのは

Mr. PO’s view of the solidify of thought is

物化=電波送受信=思考の側面

Solidify=Transmitting=Lateral of thought

3つが等しいともいえる

Can say 3 of them are equivalent


これらから言えるのは

Also, can say from these

思考には側面がありそれらを見るには

There is a side section on thought and to see

自らが思考の中から外側へ出ないと

-it must get out to outside by itself from inside

全体像を掴めないとのことだ

Otherwise, can’t grasp the whole figure  


その外へ出る道が坐禅であるが。

Though…the way to go out is zazen

Comments (33)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Zの次元Z-Dimensionその紐-Th... | TOP | 苦痛の暗号-Code of Pain »
最新の画像もっと見る

33 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (T)
2017-01-28 14:39:57
2~3度読みましたがまだ理解し切れていません。さらに考えて見ます。

なぜ理解し切れていないかというと「思考の側面」とか「思考を外側からみる」という言葉のニュアンスをレンさん・POさんとは違って受け取っていたからなのかも知れません。

私の解釈は、思考は言語機能のある左脳でなされているから、その左脳のロゴス機能を抑えて行けば、
必然的に右脳サイドで物事を見る様に成る、これ即ち思考の側面で見るとか思考の外側で見るという言い方でもおかしくないと思った訳です。

臨死体験者談でもジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談でも彼らの話の中に出て来ることは、
右脳の世界観では、何やら意識が自分の体から遊離して1.5メートル上から自分の体を見下ろしている感覚を持つ(それが右脳の世界観)だというのですから、右脳が外から自分の体、それに固着した左脳、左脳で思考されてる思考をサイド(側面)から、また外からみているという比喩の妥当性が有る・・・と思って居たという事ですね。
左脳と右脳は異次元の世界観を持っている訳ですから、両者はお互いの事を、側面とか外側から見つめ合っているという表現の妥当性が有ると思うという事ですね。
返信する
難しいです^ね^ (のしてんてん)
2017-01-28 23:58:33
禅、瞑想というのは、思考とは何かを考えることなのでしょうか。

思考とは何かを考える。

すると次には、それを考えている思考とは何かと考えざるを得なくなる。

するとその次には・・・・・きりがありませんね。

この操作がどれほど重要なのか私には理解できません。

というのも、私には、瞑想とはこの思考の無限循環を断ち切ること。

思考を止めて実在に身をまかせることと思えるからです。

どのようにうまく説明しても、言葉は真実ではなく、真実を指し示す道具ですから、道具は少ない方がいいですし、真実にはいれば一言の道具も邪魔になる。

禅とはことばではなく、知識でもなく、ただ実在に坐ることだと思っておりましたが・・・
返信する
Tへ (桂蓮)
2017-01-29 06:41:18
一つの言葉の表現に対して見る視点(位置)が違うと同じ現象でも違って見えるでしょう。
例えば、縁を横から見ると線になり
上から見ると平面図になるので
私やPOさん、Tそれぞれ見る位置が
異なれば、
認識構造も違っていくと思います。

ジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談は感銘を受けましたが、
仮に彼女が科学者でなかったら
彼女の体験は
実話の一例になってしまうかも知れません。

彼女の脳幹は普通の人より太く丈夫にできているとは思いましたけど。
返信する
のしてんてんさんへ (桂蓮)
2017-01-29 06:53:12
私の一方的な意見に対して
真剣に応えて頂きありがとうございます。

私も禅とは『ただ実在に坐ることだ』だと
教わり、その教えに従って実行しました。
実行しています。
ですが、私がどのように思考を切るかを質問した時もただ座れと言われ続けました。
禅僧ならそれを解明していく時間があるでしょうけど、私は当時仕事に追われて、
ストレスに殺されかけていましたので、
ただ坐るのは効き目無かったです。

今回は一般の方で
ただ坐る時間がなく、
聞ける人もいない状況を想定して
書いたのであります。

坐禅の行い方も置かれた環境によって
受け取り方は異なるでしょう。


返信する
Unknown (T)
2017-01-29 10:45:16
ジル・ボルト・テーラーの例は、
The【プロフェッショナル仕事の流儀】!!そのものです。

「ただ坐れ、タダタダ坐れ」は無智な素人体験記!!

レンさんが著したいのは、素人坐禅家をプロフェッショナル坐禅家に押し上げる為の心理学書。
それが無いと「素人ただ坐り坐禅」は「禅病・魔境」にさ迷う。
The【プロフェッショナル坐禅の流儀】指南書は素人の命を救う…科学的に・・・
返信する
Unknown (ところ)
2017-01-29 17:35:43
坐禅にも二種あります。曹洞宗、臨済宗です、考案を見つけてただひたすらに考えてみるのが臨済です。要は自分の幸せは多くの存在の縁により成り立ちその事を自覚するする事だと思います。
返信する
Unknown (T)
2017-01-30 01:48:40
確かに「公案禅」は何かに焦点を合わせ易くなるから、心を集中出来るメリットがありますね。
しかし夏目漱石が「門」で書き記しているように、臨済宗の鎌倉円覚寺で一週間の公安禅をしたが、何一つ得るモノが無かったと文句たらたらを書いていますね。

只管打座でも自分の呼吸の音を聞く事に集中するとかになるから結局同じ心理状態を述べているとも言えます(=息とは何かという公案)。

上座部仏教でのヴィバッサナー瞑想でも、いまの自分の動作、思考の一つずつを実況中継する事により雑念を切り捨てるという形で集中を図るという事は、

第三者からみれば皆同じ(或る特殊な)身体操作の心理の現れ方という事に成るのでしょう。
只管打坐式坐禅に詳しい脳科学者の有田さんが
(上座部仏教S長老との対談集で)、自分(=有田さん)にとっては只管打座もヴィバッサナー瞑想も全く同じに見えるといっていますね。
返信する
Unknown (T)
2017-01-30 01:57:13
今思い付いたけど、
実に様々な坐禅・瞑想形式を
心理学的見地から分析した(科学的・客観的)学術研究書
を著作するというのはやりがいがある研究テーマかもしれませんね。
返信する
Unknown ()
2017-01-30 02:27:47
レンさん記事を真面目に再読。。。

此処で言う「自我」とは五感の事の様にみえる。
それが「送信機」に該当する。

受信機とは左脳のロゴスの世界、入力された情報を論理的に整理する場所みたいだ。

ゼロの時点に立って外から眺める、一瞬の内に全てを把握する・・・、とは第6感に依る作用、全てを総合した直観(直感)作用を意図している感じだ。
なぜなら直感(第6感)は時間ゼロ時点で起きる脳機能だから・・・。

女性は「女の感」が鋭くて有利だ。明らかに右脳の機能だ。そういう直観的自信が、女には「天から降って来る」からだ。

理屈を捏(こ)ねる左脳でしか物事を判断出来ない男は直感では女の足元にも及ばない・・・・・。
がががが!「直感」は時として過度の思い込みを産む。

座禅で一旦全ての思い込みを消し去る事も重要であるという話につながる。
返信する
ところさんへ (桂蓮)
2017-01-30 05:17:21
臨済宗の坐禅の取り方を書いてくださってありがとうございます。
私は曹洞宗系の坐禅経験しかないので、比較できる余地がなく困っていたところ、Tによって解説されたので、今の私にとってはT以上の解釈はできないと思います。
もし、更なる討論がご希望でしたらT宛に書いてくだされば、学術視点から交流ができると思います。
臨済宗と曹洞宗の違いを教えて頂きありがとうございました。
返信する

post a comment

Recent Entries | 坐禅