『思考を切る』という坐禅の枝法がある
There is a zazen technique as “Cut a thought”
この技法を扱うため『思考の側面』を書いたのだが
To deal with the technique I wrote “Lateral of Cognition” though
その過程で思考が止まるゼロ時点を言及する必要があった
I was needed to mention the zero point
where the thinking(=cognition) stopped in the process
そのゼロ時点は空間感覚を伴うため
Due to the zero point accompanies a spatial sensation
私達が生きている3次元以外の4次元以上の空間
The space that more than 4-dimensions
-other than 3-dimensional we’re living at
つまりは時空間を解明していくことになり
So, it has led to explication of the time-space
それがアインシュタインの時間概念の解釈へ発展した
It also has expanded to the interpretation of Einstein’s time conception
それら思考にまつわる枝別れについては
Those branching ways which coiled around on thinking
次回に関連付けていく
I will make a connection next time
その思考の側面に関したコメントの中でPOさんが
In the comments on Lateral Cognition, Mr. PO wrote that
『思考を外側から見る、ということが
私にもよく分かりません』との問いがあった
“Seeing the thought from outside, it is hard for me to understand well”
彼はまた、自らの見解を以下のように述べた
Also, he added that has stated his view as following
『私は知覚した「事」を先ず始めに「物」化するということが
思考として最初にあるのではないでしょうか』
“Would be there a way that make a thing to be as a thought
-at the first when I conscious a thing”
思考を外側から見るというのはどういうことか
What does it mean to see a thinking from the outside?
その解釈には
For the interpretation
脳科学、哲学、心理学、認知分野、辞書的な定義など
Brain science, philosophy, Psychology, Cognitive field and a dictionary definition
多岐に渡る捉え方がある
There are variety ways in the range
私はそれらを全部取り上げる忍耐力を持てないため
Since I don’t have the patience to describe all of them
私個人の思考の外側についてのみを述べる
I will describe only my personal view of Lateral thinking
思う、考える、思考 これら3つは
Think, Conceive, Thought, 3 of these are
脳の中で起きる神経伝達物質である
They are neurotransmitters that occur in brain
信号を送るための電波の送受信による結果でもある
They are also results of wavelength for sending and receiving to send signals
ある電波を発信しても
Even if a wavelength is transmitted
それを受け取る受信機が無いと
If there is no receiver to receive it
電波を交信することはできない
It is impossible to receive the telecommunication
よって、思考をある電波であると仮定すると
Therefore, supposition that the thought is the wavelength
自我が一つの思考をその自我に発したら
If an ego gives off a thought to the ego
その自我が送られた思考を受け取る
The ego receives the thought sent by the ego
受け取った電波は発信される限り
If the received wavelength transmitting as long
受信機と繋がった状態になり
It becomes to be connected to the receiver
これらの送受信は電源が切れるまで続く
These sending and receiving continue until the power turns off
私が思う思考の側面とは
What I think about Lateral thought is
その交信の状態を電波技術者の目から見るということだ
It is to see the state of telecommunication from the view of a radio technician
思考を切るといのは
Cut off the thought is
その電源(エネルギー)を切ることになる
Turning off the power(energy)
電源を切ってもまた電源を入れ直すことはできる
It is possible to turn on the power again when it is turned off
そのスイッチの入れ替えが
The switching of ons and offs
坐禅におけるゼロ時点であるのだ
-they are the zero point on zazen
つまり、思考=電波の送受信=交信状態
That is, Thinking = Transmitting = Telecommunicating
なので、切る=遮断=無思考になる
So, Cut = block = None thinking
POさんの見解である思考を物化するというのは
Mr. PO’s view of the solidify of thought is
物化=電波送受信=思考の側面
Solidify=Transmitting=Lateral of thought
3つが等しいともいえる
Can say 3 of them are equivalent
これらから言えるのは
Also, can say from these
思考には側面がありそれらを見るには
There is a side section on thought and to see
自らが思考の中から外側へ出ないと
-it must get out to outside by itself from inside
全体像を掴めないとのことだ
Otherwise, can’t grasp the whole figure
その外へ出る道が坐禅であるが。
Though…the way to go out is zazen
なぜ理解し切れていないかというと「思考の側面」とか「思考を外側からみる」という言葉のニュアンスをレンさん・POさんとは違って受け取っていたからなのかも知れません。
私の解釈は、思考は言語機能のある左脳でなされているから、その左脳のロゴス機能を抑えて行けば、
必然的に右脳サイドで物事を見る様に成る、これ即ち思考の側面で見るとか思考の外側で見るという言い方でもおかしくないと思った訳です。
臨死体験者談でもジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談でも彼らの話の中に出て来ることは、
右脳の世界観では、何やら意識が自分の体から遊離して1.5メートル上から自分の体を見下ろしている感覚を持つ(それが右脳の世界観)だというのですから、右脳が外から自分の体、それに固着した左脳、左脳で思考されてる思考をサイド(側面)から、また外からみているという比喩の妥当性が有る・・・と思って居たという事ですね。
左脳と右脳は異次元の世界観を持っている訳ですから、両者はお互いの事を、側面とか外側から見つめ合っているという表現の妥当性が有ると思うという事ですね。
思考とは何かを考える。
すると次には、それを考えている思考とは何かと考えざるを得なくなる。
するとその次には・・・・・きりがありませんね。
この操作がどれほど重要なのか私には理解できません。
というのも、私には、瞑想とはこの思考の無限循環を断ち切ること。
思考を止めて実在に身をまかせることと思えるからです。
どのようにうまく説明しても、言葉は真実ではなく、真実を指し示す道具ですから、道具は少ない方がいいですし、真実にはいれば一言の道具も邪魔になる。
禅とはことばではなく、知識でもなく、ただ実在に坐ることだと思っておりましたが・・・
例えば、縁を横から見ると線になり
上から見ると平面図になるので
私やPOさん、Tそれぞれ見る位置が
異なれば、
認識構造も違っていくと思います。
ジル・ボルト・テーラーの左脳損傷体験談は感銘を受けましたが、
仮に彼女が科学者でなかったら
彼女の体験は
実話の一例になってしまうかも知れません。
彼女の脳幹は普通の人より太く丈夫にできているとは思いましたけど。
真剣に応えて頂きありがとうございます。
私も禅とは『ただ実在に坐ることだ』だと
教わり、その教えに従って実行しました。
実行しています。
ですが、私がどのように思考を切るかを質問した時もただ座れと言われ続けました。
禅僧ならそれを解明していく時間があるでしょうけど、私は当時仕事に追われて、
ストレスに殺されかけていましたので、
ただ坐るのは効き目無かったです。
今回は一般の方で
ただ坐る時間がなく、
聞ける人もいない状況を想定して
書いたのであります。
坐禅の行い方も置かれた環境によって
受け取り方は異なるでしょう。
The【プロフェッショナル仕事の流儀】!!そのものです。
「ただ坐れ、タダタダ坐れ」は無智な素人体験記!!
レンさんが著したいのは、素人坐禅家をプロフェッショナル坐禅家に押し上げる為の心理学書。
それが無いと「素人ただ坐り坐禅」は「禅病・魔境」にさ迷う。
The【プロフェッショナル坐禅の流儀】指南書は素人の命を救う…科学的に・・・
しかし夏目漱石が「門」で書き記しているように、臨済宗の鎌倉円覚寺で一週間の公安禅をしたが、何一つ得るモノが無かったと文句たらたらを書いていますね。
只管打座でも自分の呼吸の音を聞く事に集中するとかになるから結局同じ心理状態を述べているとも言えます(=息とは何かという公案)。
上座部仏教でのヴィバッサナー瞑想でも、いまの自分の動作、思考の一つずつを実況中継する事により雑念を切り捨てるという形で集中を図るという事は、
第三者からみれば皆同じ(或る特殊な)身体操作の心理の現れ方という事に成るのでしょう。
只管打坐式坐禅に詳しい脳科学者の有田さんが
(上座部仏教S長老との対談集で)、自分(=有田さん)にとっては只管打座もヴィバッサナー瞑想も全く同じに見えるといっていますね。
実に様々な坐禅・瞑想形式を
心理学的見地から分析した(科学的・客観的)学術研究書
を著作するというのはやりがいがある研究テーマかもしれませんね。
此処で言う「自我」とは五感の事の様にみえる。
それが「送信機」に該当する。
受信機とは左脳のロゴスの世界、入力された情報を論理的に整理する場所みたいだ。
ゼロの時点に立って外から眺める、一瞬の内に全てを把握する・・・、とは第6感に依る作用、全てを総合した直観(直感)作用を意図している感じだ。
なぜなら直感(第6感)は時間ゼロ時点で起きる脳機能だから・・・。
女性は「女の感」が鋭くて有利だ。明らかに右脳の機能だ。そういう直観的自信が、女には「天から降って来る」からだ。
理屈を捏(こ)ねる左脳でしか物事を判断出来ない男は直感では女の足元にも及ばない・・・・・。
がががが!「直感」は時として過度の思い込みを産む。
座禅で一旦全ての思い込みを消し去る事も重要であるという話につながる。
私は曹洞宗系の坐禅経験しかないので、比較できる余地がなく困っていたところ、Tによって解説されたので、今の私にとってはT以上の解釈はできないと思います。
もし、更なる討論がご希望でしたらT宛に書いてくだされば、学術視点から交流ができると思います。
臨済宗と曹洞宗の違いを教えて頂きありがとうございました。