自我は意識の度合によって
捉え方が変わってくる
Ego relies on its way to feeling that
-how much conscious of it
心の中で In a mind
『私は』 『私が』 『私に』 『私を』 『私の』
『I am』『I』 『Me』『My』 『Mine』
のような言葉が多くなれば
If someone has such I-kinds words increased
『私』に関する言葉が頻繁に聞こえていれば
If sounded often 『I’s』inner voice much in one's mind
その個人の自我への意思度は高いと言える
It can be said that the person’s ego conscious is high
自我の意識度が高くなれば
If the self-consciousness gets high
全てのことに自分の意識を結び付けて
Everything gets bounding with ego
全ての知識に自分を溶解して
Making an ego melting down all the knowledge
全ての経験を自分だけの世界に限定することになり
It makes a limit all the experiences into only one ego
自分以外の全て人間は他人になる
All human beings who are not the oneself becomes Others
自我の意識が心を支配すると
When a self-consciousness dominates a mind
自分以外のものは入れなくなり
Others cannot be in it other than itself
満杯になった自我は
The ego has gotten full
割れることにより存在場所を獲得しようとする
-it tries to get a room to be exist by breaking
割れた自我は
他人のような形式を取る
The broken ego takes a form which alike someone else
他人が入れなかったことの転移である
It is a transition for someone else’s sustainable unacceptance
私は『私を』思うことに疲れた
I am sick of thinking egoic myself
英語の 『I 』を使うことにうんざりだが
Sick of using I in English
『I』無しでは言葉が通じない
Without using 『I』English can’t be converted
その分、日本語は『I』を使わなくても
For the reason, Japanese without 『I』
言葉が通じるから使うのに疲れない
It is not tired for me to making conversations
『I』無しで英語を話せる方法があるかと
I have been wondering if there is a way
-without using『I』 for communicating
もう長年考えているのだが
I have been thinking of it for many years so far
これといった解決策は見付けていない
I have not found a solution for a certain as it is
せめて、『あなた』を使う頻度を増やすことに尽きる
At least, it is the maximum increasing frequency of using 『YOU』
ブログを始めてから半年以上過ぎた
More than half a year has passed since I started my blog
アクセス中毒も克服した
I also have overcome the access addiction
自分のブログの人気度に支配されなくなった
My blog popularity no longer dominated me
どうしてだろうHow and why?
どうやって私はあのアクセス中毒を克服できたのだろうか?
How could I have overcome the access addiction?
気が付かない内にできた訳だから
It has become within none consciously
その原因や過程さえも分からないまま
Without knowing its causes and processing
いつの間にか気にならなくなっていることに気づく
I aware that I become not to mind of it while I even realized
今週はずっと、In this week
どうやって克服できたのかについて考えた
I have been considering how I was able to overcome of it
もしかしたら、師匠Tに出会い
Perhaps, I have encountered with T
彼と毎日、心の奥から意思を疎通しているからかも知れない
It might because I have been communicating with him every day
-from deep inside in my mind
或いは、私の夫と毎日
Or, with my husband at every day
気持ちの赴くまま何でも話しているからかも知れない
It might because we are talking about the way we feel whatever
心に自分という自我の叫び声が静まり
The ego screaming has calm down in my mind
静かな風勢になった
It became a quiet scenery
そういえば耳鳴りも静まったようだ
To add, it seemed the tinnitus also has quieted
もしかして Perhaps
坐禅の形式に囚われず
思考を切っていけるようになったのでは?
I might have become able to cut thoughts
-by the unfirming form of zazen?
提案についての考察
①滑稽で面白い、(笑えました)傑作
②換算するのに時間が掛かりそうですね。
③これはかなりいけるし、宇宙人ぽくて面白いですね。
この3つかなり受けました。
ありがとうございます。
>『I』無しで英語を話せる方法
1.「この身体が~をいった、思った」とかどう?
まあ「この身体が思ったこと」を私が観たになるんだけども。
2.または「ある思いが私によぎった、浮かんだ」とか。
「私は」「私が」ではなく「私に」「私へ」とあえて変換して表現してみるとか
3.あるいは我々
ただこの論法は私の思いと他人と同じ前提。
帰属意識が問題になる。
我々とそうでない境界はどこかを意識する必要がある。
点の個々の事実や事例を数値化し、標準偏差を求めれば分散的な側面から、客観化できると思います。
ですが、数値を割り出す母集団の設定が限られると、科学的な処理に妥当性が見いだせなくなるため、検証の過程において散布図を示すことは困難かも知れません。
心理学的な論拠を示すには、標準偏差からの偏り数値も重要になってくることから、先ずはデーターの信憑性を固めることが急務でしょう。
生きる根拠について分散分布図を示すには、確かな資料の基に計測できるDataも必修になってくるので、その辺のデータセンター分析も合わせて必要になってきますよね。
しかし知識と知性は違う。
知性は集中力ではなくて『分散力』が問われる。分散力によって「正解のない質問」にそれなりの結論・行動を引き寄せる絵を描けるという事だ。
『集中力』は一点の周りをグルグルと深く回る。
『分散力』は水平飛行する能力・全貌を鳥瞰図として俯瞰できる能力だ。
生きる(存在する)を、やれ実体が無い・現象に過ぎない、幻想だ虚構だと思考を【集中】してみても【無根拠性】が出て来るのみだ。生きる意味など見いだせない。
では「生きる」を外から眺めたらどうなるかと思考を【分散】して見る。そうすると「生きる意味」が見えて来る筈だ…そんな趣旨の事をZIPさんが言及している様だ。「生きる」を外の「生きない」世界から見たら「生きる根拠」が見えて来るのだろうか??
何もかも捨て去った、思考も切り捨てた、「不生不滅」の世界で、
人が生きる事が出来るとしたら、
そういう人の経歴(きょうれき)をどう描くのか??
その人を主人公にした小説(伝記)は如何様なモノとなりうるか??
要するにTとして言いたいことは、逞しく生き抜く為には(=問題解決法とは)、
冷静な客観力・判断力・応用力・包容力・想像力と創造力、柔軟性・即応性とかの、
それ相応の総合力とそれを下支えする情報力が求められるという事であろうか。
それによって勇気・胆力が醸し出される。
知性とは答えの無い問題を解く力であり、時として豊富な百戦錬磨の現場経験が必要にもなって来る。
深窓に於いてただ教科書を丸暗記し、要領よく類型の問題集に素早く回答が出来る偏差値の高い人ではなかなか出来ない技である。
注1(余談):
ちなみに実業世界に於いては、35歳~40歳前までは学歴が力を発揮するが、それ以降は学歴は役に立たないと言われている。
それまでに成した実績(実行力)がその人の後世(実力)を決めると言われている様だ。
う~む、これ(A)と、「自我の強度や仏教論」(B)との関係性はどう定義するのか??
前者Aは「生きている実感を得る」の書であり、
後者Bは「生きるは無根拠と捨てる」の書であるか??
注2;但し同じ仏教僧侶(現代人)でも「煩悩大いに結構、我は闘う僧侶だ」という佐々井秀嶺師みたいな人もいる様だ。
生きる意味を見失う、人生を前向きに捉える事が出来ないとかやる気の喪失という事から発生していると思えます。
人間関係・家庭関係の崩壊、社会環境の悪化なども関連している。
又、現代人の平均年齢が(昔と較べ)異常に長くなった事が大きく関係していると思います。
昔だったら普通の人では考える余裕さえなかったような、自分探し(自我は?実存は?死とは?)とかの、
考えても無益な事に人は悩む様な時間的余裕が出来てしまった。
ではそうならば、その延長された時間をどうやって生きて行けば良いのか?を改めて現代人は考えなければいけない。
とすれば、その方法論としては、
生活の余裕のない中高老年は生き抜くスベを考えるに忙しい、苦しくても何とかやって行くよりしょうがない・・・
他方、生活の余裕が有る人は余生を楽しく生きれる方法を考えるよりしょうがない。・・・・そこでA論が出来上がって来る。探そうと思えば幾らでもやり方はあるようだ。
基本的にはルソーの「自然に帰れ!!」論で、
花鳥風月に、ささやかな、日々の小さな感動を見出す道を再認識するという事だ・・・となってくる。
自分に趣味があれば体が追いつく間はそれを追求するのもこれまた良し、という事に成る。
燃え尽き症候群にならない様に少欲知足を坐禅で図るというのもまた大切なたしなみだ・・・となる。
座禅の目的は頭(=思考)の水平飛行だから・・・。
(注、坐禅で思考を一旦切る目的は、坐禅の形態には関係なく、その後の頭の水平飛行が出来る為の予備体操なのだと理解すれば分かり易い)。
私の好みは 無い です。
生も死も勇気を持って行きぬくのも
私にはあまり関心がないです。
『その他』が私の項目になりますかね。
そもそも生きていて
生きることを思考するのは
今の年になったら意味が無くなりました。
若かった時は
未来が長いので
それは大いに関心がありましたが
今は、心焦がれる話題も特に無いのであります。
自我についても割と関心があるから
面白さはありますが、
追求するところまでは至らないです。
環境が変わったからかと思ったりしますが、
このことから言えるのは
Tはその年齢にも関わらず
知識や物事を究明するのに
情熱的ですね。
老いることのない精神をお持ちのようで、尊敬します。
A,B,Kと箇条書きして、
C.では皆さんあなたの好みはどれ??
という文章に合成し直すといいかもね。
…と言う観点でK=?はどういう箇条書きにしましょうか??三行半(みくだりはん)位にまとめてみると・・・???
出来たらTの原文の中にK項を追加してみてください。
何故なら、両方は切られないからです。
私は死について
分かりたいと思ったことがありません。
分かったとして
何も変わらないなら
分かったことが何も成せないと思っているからです。
宇宙の起源、BIgBang以前の始まりについては、これから200年以後分かってくるかも知れません。
私が生きている間は、科学が宇宙の起源を証明できないと思います。
この科学の遅れから考えると
もう少し生きていたいと思ったりしますが、
基本的に生に関して
欲も無ければ
未練も無いので
明日や今日交通事故で死ぬとしても
お化けにならないで
そのまま地獄なり天国なり
直行したいと思っています。
地獄も死んでしまったら
そんなに悪くないかもです。
ちなみに、私はエンマ大王のファンです。
実践的に影の部分も充分味わったTとしては、
もはや影の部分をスキップして、
ただひたすら光の部分を丁寧に発掘して光を楽しみたい、そして人生を肯定的に定見したい。そういう金言を集めるのが好きになる。
B.他方、闇の部分に理論的に惹かれてしまう人は「死」の内側をみたい。
それは丁度、ビッグバンから出来上がった宇宙の風船の隔壁の外側(=向こう側)には何があるのだろうかと科学少年が気になって気がそぞろになる…に似ている。Bの人は一生懸命「影」を暴きだてようとする。影をとことん知らねば解脱無しと思う(=勝とうとするなら敵を知れ・・・・)。
C.では仏教の目指すところは「この難しい世の中にあって、如何に勇気を持って生き抜くか」を教える教えだとするなら、AとBとどちらがよいか??
That is a Good Question!!
Tのいう彼は、作家としての南直哉のことを指していると思いますので、仏教での僧侶としての自我の強度ではないでしょうね。
彼の自我意識は興味深く、他の作家にはない、ある種の『澄み切った』感じがあります。
今回の記事にそれについても触れたかったのでしたが、
一回では書ききれないと思い、自分の例に繋げて簡単にしました。
いつか、私の頭が澄んできたら、
彼の自我概念を扱いたいと思っています。
私が書いてなかったことを察せるTは、とにかく恐ろしいです。
Tは彼の影響をどのように受けたのでしょうか?
仏教では「自己の実存の無根拠性」を主張しているようだ。
存在(=生きる)に根拠が無いのに、
如何にして【生きると決める】根拠が存在しているのか、自己逢着に陥るのではないだろうか??
希死念慮が強い人が、【課せられた自己】(=自分が頼んで産んでもらった訳で無いから、無理矢理課せられてしまったという生に対する解釈法)を・・・、
而(しこ)して、【課せられた自己を生きると決心する】事が人生の一大事、人生の継続の全てである・・・・
という思想の持ち主の場合、
彼の『自我の強度』はいかばかりなモノなのか心理学的に興味ある処です。なんか強烈な自我の強度がなければそう思えない気もする訳です。
ところでこの発想法での弱点は、【生きると決める】という思考作業は日々継続・更新して【今日も又、生きると決めました】という思いをし続けなければ論理的に成り立たなくなるとT的には思われます・・・課せられた生は死ぬ迄課せられたまま存続するし、自死しない為には【生きると決め】続けねばいけない訳ですから・・・
これが希死念慮を抱き続ける人の心理状態なのだと思われます。
参考文献『善の根拠』
アメリカでもヨーロッパでも日本でも中国でも、たぶん韓国でも広がっていて、まさに世界的にそういう時代に突入して来たという事なのでしょうか。
そういう時には当然「自我の強度」が突出して来るのだと思います。
五木寛之氏などは日本社会は、既に「嫌老社会」に突入したと言っている様です。すなわち若い人が不幸で苦しいのは、年寄りだけが国の福利厚生を独り占めしている、年寄りだけが安穏と暮らしているとかと、若者は年寄を逆恨みし始めている。
・・・・だから年寄りの説教など聞きたくない、ついつい反発したくなるとかとなって行くのでしょう。
で、こういう時代だからこそ、精神面での安定を図る為には坐禅等で「思考を切る」(=怨念妄想のクールダウン)という修練が大切になってくるのではないでしょうか?
近頃私個人の書類やドキュメント作成に追われて客観的に考えられなかった理由もありますが、にも拘わらず、Tからはデータベースとして多様な資料を提供してくださったことに感謝しています。
書きたいポイントがズレていることは、これからコメントをとおして修正していきます。
次回は的を得た記事が書けるように、視点を定め直したいです。
GIVE AND TAKE 法則の関連性も少しずつ明かしていきたいです。
そこから生命エネルギーをTakeする。
Takeさせて貰える人はごくごく、ごくの少数でよい。
他の人に対してはGiverであるだけで良い。
精神的なTakeは書物・書籍・映画・劇画・音楽等からでも幾らでもTake出来るから、自分に必要なTake量の入手先は3次元の人間である必要は無い。
自分を自分の心の拠り所とするのは中々難しい。
(注:T的には「論理の整合性」を自分の心の拠り所とするが・・・)。
しかし、レンさんとしてはエリックを心の拠り所と出来る予感がある(・・・お大事に!!)。
相田みつお名言集
「あなたに巡り遭えて本当に良かった・・・、
一人でもいい、心からそう言ってくれる人が在れば・・・」。
岡敦、「やむを得ない人生」に吹けよ風!!
日本の古典「今昔物語」集、第14節「法を聞いて出家せる話」:
自分でさえ認められない生き方だから、慰めも励ましも、人に求める資格なんて無い。
ただ、誰か一人だけでも、と心の底から願う、すべてを知っていて呉れたら・・・と。
やむを得ない事も、そうでない事も、いいことも悪い事も、幸運も、みんな引っくるめて、誰か、このみっともない人生のすべてを見ていてくれないか・・・。
もしそんな誰かがいて、その眼差しを感じることさえ出来れば、それでもう十分だ。
ぼくは自分の過去も現在も未来も「うん、そうだ、これがぼくの人生だ」と引き受けていけるんだ・・・・。
しかしエリックと出逢って心の寄り処を得て、T氏からその論理的な裏付けが提示されて、(日本での競争脳からの)脱却が成されて来ている。大自然の恵みが身近に在る今の生活環境が自分を癒して呉れている・・・・。
(しかしこれは「過って自分が勝った」と言う自負心が支えになっている。)
これが昨年以来のレンさんに訪れた変化という事では無いのでしょうか。
逆説的には真の「自我の目覚め」とも言えると思います。真我の現れ・・・という意味ですが。
(他人が目の前にあるから自我を意識する。しかし真我は他人を必要としない。)