肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立し(1968年)、以来52年に亘る間、障害者が希望をもって生きることが出来るように、「今ある自分のすべてを子供たちのために使いたい」と、自身のすべてを燃焼し尽くした宮城まりこさんが、今月21日に亡くなりました。 93年の文字通り愛に貫かれた生涯でした。
子供たちは絵を描くことで、心の奥深く秘めていた自分の感情を表す術を獲得し、日本だけでなく世界の人々の心を打つ、個性豊かでのびのびとした作品を生み出していったのでした~~
学園の子供たちは、まり子さんを「お母さん」と呼んでいます。 そしてこのとしみつ君もお母さんの温かい指導の下、立派な画家として活躍しています。
まり子さんは、子供たちが自立して生きて行かれれるように、絵をはじめ、様々な芸術教育を取り入れ、洗練した作品として販売できるまで手を差し伸べ、育てました。 そして、広く一般の人々が集える場を設け、喫茶店をはじめガラス屋さん、雑貨屋さん、毛糸屋さんなどのお店を開き、学園で学ぶ子供たちの作品を、子供たち(成人もいる)が販売し、経済的自立も目指す、という画期的な総合福祉施設を創り出しました。
一方で、映画「虹をかける子どもたち」の製作、監督をし、手描き友禅の指導、コーラスグループの結成などなど・・・女優と歌手でもありました。 そんな活動が評価され、1973年には、「吉川英治文化賞」受賞を始め、1980年女性の地位向上に対して「アデライデ・リストリ賞」受賞、1992年、広島大学「ペスタロッチ教育賞」受賞、1993年「東京都文化賞」受賞等々・・・ まり子さんを称える言葉ををいくら並べても、称えきれません・・・
日本で初めて、成人に達しても必要があればとどまれる「肢体不自由児療護施設」という制度を生み出す原動力となったのもまり子さんでした。 そんな偉大な彼女を支えていたものは何だったのでしょう・・・ 「私の履歴書」の中で、彼女は言っています。
私は淳ちゃんを一番愛している。
そして、もう一つの一番愛しているのは
ねむの木の子供
淳ちゃん・・・吉行淳之介さんの存在があったのだと思います。 吉行淳之介さんと30代に雑誌の鼎談で初めて会い、恋に落ち、既に家庭を持っていた彼との恋は結婚という形ではなく、良きパートナーとして生涯支えあうというものでした。 吉行さんとの離婚を拒否し続けた奥さんの辛さと、まり子さんと吉行さんの苦しみ・・・哀しいです・・・
ねむの木学園を設立する時、まり子さんは吉行さんと次の「3つの約束」をしたそうです。 「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」
まり子さんはその約束をきっちり守り、学園を豊かに大きく育て上げました。 今頃は満面にあの大きなえくぼを浮かべて、吉行さんの腕の中で憩っていることでしょう。
1994年に吉行淳之介にさんが亡くなる1カ月前にまり子さんはねむの木学園に休暇を申し出て、吉行さんの入院先の聖路加病院に泊まり、日野原重明医師をはじめ何人かの医師と共に吉行さんを看取ったということです。 吉行淳之介さんの遺言は「全作品の著作権はまり子に」というものだったとか。 1999年、ねむの木学園の一角に「吉行淳之介文学館」、「ねむの木美術館」が作られました。
最後に・・・まり子さんの言葉:「福祉は文化。 文化国家の日本であることを願っています。」
ありがとう、まり子さん!!
まり子さんのご冥福を心からお祈りいたします。 合掌
★ ★ ★ ★ ★
画像は3月28日NHKBS1で放映された「宮城まり子さんをしのんで ねむの木学園」より