多賀城碑(壺の碑) つぼのいしぶみ
この記事は何度も上書きされました。そして令和6年(2024年)8月27日に国宝として正式に指定されました。奈良時代の多賀城創建や大規模改修などを記す唯一の資料です。
みちのおく 壺の石文ありと聞くいづれか 恋のさかひなるらん (寂蓮)
陸奥の磐手しのぶ はえぞ知らぬ 書きつくしてよ 壺の石文 (源頼朝)新古今集
陸奥の奥ゆかしくぞおもほ(お)ゆる壺の碑そとの浜風 (西行法師)山家集
この中に高さ約2メートル、幅約1メートル程の石の碑がある。ここに刻まれているのは・・・
京去 一千五百里(奈良の平城京)795km
蝦夷国界去 一百二十里(東北地方北部)64.2km
常陸国界里 四百十二里(茨城県)218.36km
下野国界里 二百七十四里(栃木県)145.22km
靺鞨国界去 三千里(中国東北部:朝鮮半島北部)1590km
奈良時代の一里は約535メートル
西
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也。
天平寶字六年十二月一日
《用語解説》
〔按察使〕陸奥・出羽両国の監査官
〔鎮守将軍〕各地の城柵と兵士を統轄する役人
〔参 議〕大臣、大納言に次ぐ重職で国政を司った
〔節度使〕奈良時代に臨時に設けられた地方軍政官
〔仁部省〕戸籍や税に関することを扱う役所で民部省を中国風の名に改めたもの
碑面には、丈夫に大きく「西」の字があり。その下の長方形の枠線の中に十一行140文字が刻まれています。
碑文の内容は大きく分けて二つの部分からなります。
前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。
後半は、多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)によって設置されたこと、天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみあそんあさかり)によって修造されたことを記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれています。
碑文の内容から藤原恵美朝臣朝獦の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑と見ることができます。
また、碑は歌枕として有名な「壺の碑」とも呼ばれ、元禄二年(1689年)には松尾芭蕉も訪れ、深く感動し涙を流した様子が「奥の細道」に書き残されています。
多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑・栃木県湯津上村の那須国造碑とともに日本三古碑の一つに数えられえいます。
また、この多賀城碑は江戸時代になって、当時「大日本史」を編纂していた徳川家光(水戸黄門)が仙台四代藩主伊達綱村に対し、平安時代の古い記録「残篇風土記」によれば多賀城碑が多賀城内に埋まっているから、これを保存してはいかがかとの示唆を与えました。
仙台藩は家臣を多賀城に派遣し、万治~寛文年間(1658~1673)に土中から発見された。
2017/05/04追記。
重複する箇所がありますがご了承ください。
ここに多賀城ができたその役割は、大和朝廷の出張機関であり、軍事拠点だったのです。
大野朝臣東人が当時、蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部、塩竈丘陵上に設置しました。
この「多賀城」の南門跡の近くにある小さな堂内に建つのが「多賀城碑」です。
碑文の内容は、上記に書いてあるように、各地から多賀城までの距離、多賀城の建造・改修者の名前です。
それに続き、上記の内容です。
「靺鞨国」とは、中国の隋唐時代に中国東北部(現在のロシア沿岸地方)に存在した民族および国家のことを指します。
南北朝における「勿吉(もっきつ)」表記が変化したもので、粛慎(みしはせ)・挹婁(ゆうろう)の末裔である。
その中からのちに高句麗の遺民とともに渤海(ぼっかい)を建国した部族や、のちに女真族(じょしん)となって金朝・清朝を建国した部族が出ている。
当時の東日本のことを、都では、太平洋側の陸奥の蝦夷を「夷(えびす)」と呼んだ。
他に日本海側の出羽の蝦夷を「狄(てき)」、越後の蝦夷を「蝦狄(かてき)」とそれぞれ呼んだ。
中国王朝の華夷思想になぞらえて位置づけたのだ。
つまり碑には東北から見た世界の範囲が描かれているのです。今とは違う全く異なった当時の東北人の世界観が読み取れますね。
多賀城を築いた大野朝臣東人は、元明・元正・聖武の三朝に使えた人物で天平九年(737)陸奥出羽按察使鎮守府将軍に在任中に陸奥国から秋田城(あきたのき)へ通ずる道を新たに160里開き、蝦夷を治めた。
この功によって天平十一年(739)、参議陸奥国按察使および、それを兼ねて鎮守府将軍大養徳守在任従四位上勲四等となった。
按察使=奈良時代諸国の行政を観察した官のこと。
鎮守府=蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関。鎮守府将軍はその長官。
多賀城市が住所の編成をしたとき消えてしまったが、「八幡字鎮守(やわたあざちんじゅ)」という住所があった。
子供の頃そこに住んでいました。
多賀城碑「壷碑(つぼのいしぶみ」の信憑性
江戸時代の初めの発見当初から歌枕の「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。
上記記載の通り『おくの細道』に記載されている。
江戸時代から保護のため覆堂の中に入れられたが、この碑は偽作であり、もっと年代が新しいものではないかと疑う声があがった。
その理由は、碑に刻まれた書体が集字体であり、彫り方も近世以降に見られる「箱彫」であるとするほか、靺鞨国はすでに国号を改め渤海と号し、二代前にあたる聖武天皇の時代から日本との交流が頻繁でありながら「靺鞨国」とするのは不自然というのである。
しかし、近年の発掘調査により八世紀半ばに大規模な改修が行われていたことが判明し、碑文後半の多賀城改修を示した内容に一致することが明らかになった。
碑文の書体についても、当時貴人、高僧などの高い教養人による筆跡であることがわかり、多賀城碑が本物である可能性は極めて高い。
多賀城碑の側にゴロっと横になってる石を見るとなにやら文字が・・・・
でもハッキリ見えませんでした。
「坪碑考証」(1783年)のさし絵
追記2014年11月26日
以前撮影済みの写真を掲載します。
撮影日2010年05月01日
多賀城碑から多賀城政庁を望む。
撮影日2013年11月28日
ホームページ 多賀城
この記事は何度も上書きされました。そして令和6年(2024年)8月27日に国宝として正式に指定されました。奈良時代の多賀城創建や大規模改修などを記す唯一の資料です。
みちのおく 壺の石文ありと聞くいづれか 恋のさかひなるらん (寂蓮)
陸奥の磐手しのぶ はえぞ知らぬ 書きつくしてよ 壺の石文 (源頼朝)新古今集
陸奥の奥ゆかしくぞおもほ(お)ゆる壺の碑そとの浜風 (西行法師)山家集
この中に高さ約2メートル、幅約1メートル程の石の碑がある。ここに刻まれているのは・・・
京去 一千五百里(奈良の平城京)795km
蝦夷国界去 一百二十里(東北地方北部)64.2km
常陸国界里 四百十二里(茨城県)218.36km
下野国界里 二百七十四里(栃木県)145.22km
靺鞨国界去 三千里(中国東北部:朝鮮半島北部)1590km
奈良時代の一里は約535メートル
西
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也。
天平寶字六年十二月一日
《用語解説》
〔按察使〕陸奥・出羽両国の監査官
〔鎮守将軍〕各地の城柵と兵士を統轄する役人
〔参 議〕大臣、大納言に次ぐ重職で国政を司った
〔節度使〕奈良時代に臨時に設けられた地方軍政官
〔仁部省〕戸籍や税に関することを扱う役所で民部省を中国風の名に改めたもの
碑面には、丈夫に大きく「西」の字があり。その下の長方形の枠線の中に十一行140文字が刻まれています。
碑文の内容は大きく分けて二つの部分からなります。
前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。
後半は、多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)によって設置されたこと、天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらえみあそんあさかり)によって修造されたことを記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれています。
碑文の内容から藤原恵美朝臣朝獦の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑と見ることができます。
また、碑は歌枕として有名な「壺の碑」とも呼ばれ、元禄二年(1689年)には松尾芭蕉も訪れ、深く感動し涙を流した様子が「奥の細道」に書き残されています。
多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑・栃木県湯津上村の那須国造碑とともに日本三古碑の一つに数えられえいます。
また、この多賀城碑は江戸時代になって、当時「大日本史」を編纂していた徳川家光(水戸黄門)が仙台四代藩主伊達綱村に対し、平安時代の古い記録「残篇風土記」によれば多賀城碑が多賀城内に埋まっているから、これを保存してはいかがかとの示唆を与えました。
仙台藩は家臣を多賀城に派遣し、万治~寛文年間(1658~1673)に土中から発見された。
2017/05/04追記。
重複する箇所がありますがご了承ください。
ここに多賀城ができたその役割は、大和朝廷の出張機関であり、軍事拠点だったのです。
大野朝臣東人が当時、蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部、塩竈丘陵上に設置しました。
この「多賀城」の南門跡の近くにある小さな堂内に建つのが「多賀城碑」です。
碑文の内容は、上記に書いてあるように、各地から多賀城までの距離、多賀城の建造・改修者の名前です。
それに続き、上記の内容です。
「靺鞨国」とは、中国の隋唐時代に中国東北部(現在のロシア沿岸地方)に存在した民族および国家のことを指します。
南北朝における「勿吉(もっきつ)」表記が変化したもので、粛慎(みしはせ)・挹婁(ゆうろう)の末裔である。
その中からのちに高句麗の遺民とともに渤海(ぼっかい)を建国した部族や、のちに女真族(じょしん)となって金朝・清朝を建国した部族が出ている。
当時の東日本のことを、都では、太平洋側の陸奥の蝦夷を「夷(えびす)」と呼んだ。
他に日本海側の出羽の蝦夷を「狄(てき)」、越後の蝦夷を「蝦狄(かてき)」とそれぞれ呼んだ。
中国王朝の華夷思想になぞらえて位置づけたのだ。
つまり碑には東北から見た世界の範囲が描かれているのです。今とは違う全く異なった当時の東北人の世界観が読み取れますね。
多賀城を築いた大野朝臣東人は、元明・元正・聖武の三朝に使えた人物で天平九年(737)陸奥出羽按察使鎮守府将軍に在任中に陸奥国から秋田城(あきたのき)へ通ずる道を新たに160里開き、蝦夷を治めた。
この功によって天平十一年(739)、参議陸奥国按察使および、それを兼ねて鎮守府将軍大養徳守在任従四位上勲四等となった。
按察使=奈良時代諸国の行政を観察した官のこと。
鎮守府=蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関。鎮守府将軍はその長官。
多賀城市が住所の編成をしたとき消えてしまったが、「八幡字鎮守(やわたあざちんじゅ)」という住所があった。
子供の頃そこに住んでいました。
多賀城碑「壷碑(つぼのいしぶみ」の信憑性
江戸時代の初めの発見当初から歌枕の「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。
上記記載の通り『おくの細道』に記載されている。
江戸時代から保護のため覆堂の中に入れられたが、この碑は偽作であり、もっと年代が新しいものではないかと疑う声があがった。
その理由は、碑に刻まれた書体が集字体であり、彫り方も近世以降に見られる「箱彫」であるとするほか、靺鞨国はすでに国号を改め渤海と号し、二代前にあたる聖武天皇の時代から日本との交流が頻繁でありながら「靺鞨国」とするのは不自然というのである。
しかし、近年の発掘調査により八世紀半ばに大規模な改修が行われていたことが判明し、碑文後半の多賀城改修を示した内容に一致することが明らかになった。
碑文の書体についても、当時貴人、高僧などの高い教養人による筆跡であることがわかり、多賀城碑が本物である可能性は極めて高い。
多賀城碑の側にゴロっと横になってる石を見るとなにやら文字が・・・・
でもハッキリ見えませんでした。
「坪碑考証」(1783年)のさし絵
追記2014年11月26日
以前撮影済みの写真を掲載します。
撮影日2010年05月01日
多賀城碑から多賀城政庁を望む。
撮影日2013年11月28日
ホームページ 多賀城
この辺りはすっかり綺麗になりました。
壺の碑(多賀城碑)についてはまた記事を書きたいのですが時間が無くて・・
奥の細道の石碑巡りもいいですね 。
政庁跡の階段は、一度掘り起こされ発掘調査が終わってから また埋め立て今の階段を作っていますが、あの下に当時の本物の階段が眠っています。
近くに友人が住んでいますが、トイレを水洗に出来ず今も汲み取り式です。
遺跡の中や周囲に住んでる人は改築や増築も出来ずに我慢しているそうです。
この周辺の発掘はまだ続いていますよ。
ありのままの保存も大事ですが、古代を知るためにも多少の犠牲は仕方がないのかも知れませんね。
また大野東人はかなり気になっている方です。大と野が付くんで追っている神と関係ありそうでおまけに東人あずまひとですから気になります。
今日中島みゆきさんの歌詞見ていて
男には男のふるさとがあるという、女には女のふるさとがあるというという歌詞があり東北って男のふるさとっぽく思ってます。
彼女の歌詞ってなんか歴史を代弁しているようにも感じ涙が出てきました。
多賀城はドンピシャの大事な所ですよね、日本中の中でも。発掘がまだ続いているので安心ですけど新しい方々や違う地域の研究家と交流しながら何か発見してほしいですね。
記事の理解はまだまだなのですが今後必ず理解出来るように知識を持ってこちらの記事を拝見したいと思っております。6672
否定することが、すごい考えを持っている・・・と勘違いする人も多く。たった一つの論説に取りつかれている人が多いですからね。
例えば、飛行機型のオーパーツと呼ばれるものがあります。この時代に飛行機が飛んでいた・・・もしくは宇宙人? と考える人がいます。確かに面白いし話題になりますが、実際には「プレコ」という魚です。私も熱帯魚を飼っていた時に飼育していました。コケや水槽の内側を掃除してくれるのでわざと入れておきます。
この魚が飛行機に似ているのです。それを現代の人はオーパーツだと思っているのですね。
それと私も大学の文学部の教授に言われた事は書かない事にフィクションがあるという事。つまりありのままだと困るから消して見えなくしたいとの意思の現れをみると明確ですね。もちろん相手の事情も忖度しますけど、ありのままでいいですよね。
また個人的に歴史をそんな視点で見ているとちょっと面白いのは欠史八代さん達です。書いてあるんだからそれをない物としての先入観って付ける必要ないですよね?個人的にこの方いないとかこれは違う事情だとか?きちんと分析すれば出てくる話です。なのにそこからそこまでまとめてなし?って不思議な誘導の先入観みたいに思います。
という事で今車もあり電車もありの状況から徒歩移動を考えるととても距離のある東北と歴史の舞台の関西とは移動できないって発想したら終わりですね。関東なんてお水の下なら障害物もなく風まかせで移動出来たのかも?って思えます。
なんせ今の技術では出来ないような陶器や木造建築もあるって事は単純に知恵の退化ですよ。
当時は出来ない事を切実に出来るようにしないと生きられない状況だったのかも?
つまりないと断言出来るって人間の意志を感じますね。出てきたら考えるでいいんじゃないかと。
出ないって断言するから出さないっとのも忖度じゃあるまいし、ありのままでなんにも困る事はないはず。それを邪魔するなら〜?と日本人なら裏の意味を感じられるでしょうね。
なので悪い方の陰謀かな?って思う法則には、
・先に前提を作ろうとする事
(先に言われると日本人弱いんで)
・無理だとかいう事
・出来ない理由を先にいう事
(出来るように考えるのをストップさせる事)
・今ならとか時間制限して焦らせて判断させる事
(正しい事は時間かかってもゆっくりやっても結果は変わらない、焦ってやった事こそ変な情報に惑わされる)
今に通じるのはこんな感じです。
で歴史上で言ったら
・個人的に突然悪いエピソードを入れる事
(誰も聞いてないのに)
・美談で終わらせる事
(争いが嫌で自殺したとか逃げたとか譲ったとか)
・その人の出身地を説明する場所でもないのに織り込んでいる所
・その人の修飾語として父とかお爺ちゃん(女性系も)とかで説明する事
(その方が妥当な方なら日本人はじめから疑わないし、その人自身の人格の方が身近で説明する理由がわからない)
歴史書見ていると嘘が嘘を生んでつじつま合わせも大変なようにも感じる事も。
以前行った考古学の講演会でも歴史で出てこないとこ古墳がないから人がいなかったという理由はないんではないか?との疑問が出てきているようです。単純に調べてない可能性のが高いですよね、素人発想でも。
忖度もあり今まで調べられなかった地も、日本の考古学上の歴史のそれぞれのパーツとして空白期間とか地帯とかを埋めるべく研究されて行くといいですね。これでストップかけられたら?怪しいですしね。たくさんの高齢者の熱いウォッチャーが黙っていないでしょうね、お時間もいっぱいあるでしょうし。
700年代にすでにつくられていたならばかなり気になりますね。
栗原の火事の火元近くに縄文晩期から弥生の遺跡があってそこにすでに布と漆が共存していた可能性もありそうでけどニュースにもなっていない。知らないだけ。各地の専門家からの情報発信こそ大事になりそうですね。その地ならでは知識がありますので。また環境も背負っている先祖も違う人間それぞれの知識も違いそうですね。2300、6822
ここでは、説明を省きますが、弥生時代にこれほどまでの高度な生活をしていることにカルチャーショックを受けました。 当時私は旅行会社勤務だったこともあり、海外にはよく言ってました。特に300~500年前の建物がそのまま残っているヨーロッパには感動ばかりでした。 あまりにも日本の歴史とはかけ離れた風景に驚くばかりです。 研究者の中には西洋と東洋の歴史にあまりにもギャップがありすぎるため、本当の縄文や弥生の歴史はもっと違ったものではないかと考える人もいます。 まぁ、石の文化と土や木材の文化では、後者は、朽ち果ててしまいますからね。ポンペイは火山の灰で一瞬に消えた街です。 日本だったら燃えてなくなっていたでしょう。
カテゴリー「海外の散歩道」に一部記事があります。
後から書いたものでリアルタイムではありませんがね。当時ネットは普及していませんでしたから。
旅行関係だったのですね。父もそっちに行った時はとても輝いていましたね。私も就職そっち行こうかと思いましたが当時自分が客だったのでその逆体験は結構きついなあとやりたい事は嫌にならないように趣味にしました。行ったあとの感謝ってしなかったとお客様の自分も反省でした。意志ある方が身体を守りながら出来るような旅行業界作られていくといいですね。オーバーブッキングなんてあたり前で毎日が波乱万丈ですけど日本人それ知らないから針のむしろですもん。徐々に日本のが特殊なのが分かってきて、いい流れだとは思います。
海外の散歩道、楽しみです。2418
風景を台無しにしちゃうでしょうけど、万が一の為に何らかの対策が必要かも。何かやられそうな気がします。心配です。
そう言えばその場所も桜が綺麗ですね。塩竃神社は別格ですが、多賀城と利府も桜が美しい町だと思います。
利府の菅谷穴薬師と小角の貴船神社の桜も本数は少ないですが、ある意味、恐ろしいほど美しい。吸い込まれるほど魅入られます。
仕事がぶっ続けで、貧乏暇なし!
そうそうオーバーブッキングは、日常茶飯事。キャンセルがあるので多めにOK出します。問題は団体客の人数の変動がネックになることも。
お陰で国際線はたまにビジネスクラスに無料で変更もありました。
小グループがよく割り当てられます。サービスはエコノミーですがね。
向こうの方は話も聞いてくれないのでいかに聞いてもらうかとか誰になら変化が起こるかとかも戦略大切ですよね。
宇多田ヒカルの歌詞でも
受け入れられない物を受け入れる力。
そして受け入れられない物を変える力を頂戴いよ
は人間の大いなる可能性を含んだ知恵の重要を感じますね。一人では出来ない事ですし、行動しないと出来ない事。今日本の若者には大事な事でしょう。
なのでそう思えたのも経験からで、人間ウォッチのいい経験になりました。そもそも利害が反対の中ですからね。いかにスムーズにうまくやるかを楽しむようになりましたし、相手を責めないでお互い大変だと考えると怒りも違う行動へ繋がります。
という事でその土地の歴史も一番密着している方々がどう思うか?とそれが反映されているのか?という視点でそれが違うと気になって仕方ありません。解釈の違いだけでは済まされない事については穏やかな日本人だけのスタンスではどこかの問題のようにあっという間に知らない所で手が出せなくなってしまう前に何か変わってくるといいなあとも。
その場所に物がある。物は自然には動かない。ならそこに人間の意思がある。良い悪いでも敵味方でもなくありのままに解釈されていかないと。
その関わった人間の動機は行動でも分かるはず、地形からも分かるし、人が変わると見る所も違う。今全て線をひいて線の外は関係ないと思ったら線を引いた意図の思う壺ですし、飛び地なんていうのも意思が働いているはずです。
多賀も線を引いた意味は線をこえないと分からないかもしれませんね。
人間は出来る事は少ないけど、土地の守り神はどこにも存在するはずうまく人間を誘導してくれるといいですね。7798
バブルブッキングでそうビジネスも毎回ありかな?って期待していましたよ。闘った後のご褒美みたいに。ただ乗っている方に幻滅は結構あります。ゴミとか散らかし方が半端じゃなくって。日本は、そこは品格も兼ね備えていたのでそれなりのいい親からの伝統があったせいかエコノミーでもありませんよね。ただ日本もズレてきてます。悪い事注意されなければいいやってしめしめ感って。雇った方もカルチャーショックでしょうね。
会社トップは、身内だからこそうるさかったし、何もなくても知り合いとはビジネスでは付き合わないで癒着あるって思われないように注意していたはずです。銀行の定期的な移動と同じように。
何か変わってきているのですけど、それが多くなると平気でそういう事しちゃうんで見えやすくなってきます。そういう意味でもその土地にどう携さわっているのか?その方の立場とは切り離しても見やすい時代になってきたのでとてもいい機会に日本の未来のためになるといいですね。
東北大事ですよ。7798、1446