2011年(平成23年)3月11日(金)14時48分18秒
その時、大地は大きく揺れた。 ドンと下から突き上げられたかと思うとぐらぐらと大きく揺れた。
それは、1978年の宮城県沖地震(M7.4)を遥かに越えるものだった。
その揺れは長かったせいか恐怖で固まった。
「俺はここで死ぬ運命だったのか!」と心の中で死を覚悟していた。
それは高いビルに居たことで倒壊するだろうと . . . 本文を読む
近年から最近にかけて、熊本の地震から始まり、豪雨・強風・がけ崩れ・地震・・・・・
TVを見ていると、あの時と同じことを被災者は言っている。 水・電気・食料・・・・
あれだけうんざりするほど東日本大震災の時に放送を見ていたはずである。
しかし、結局同じことを繰り返している。
つまり、あの時は「大変だね」と人ごとのように見ていたのでしょう。
自分が被災してどれだけ大変かわかったかも知れませんね。 . . . 本文を読む
久しぶりに、蒲生に行きました。
震災後何度か来ていますが、今までお袋は連れて来ませんでした。 それは・・・
お袋からすれば、母の実家があり親戚も多く、この震災でその親戚や友人を亡くしてしまっていたからです。
母の目には涙が溢れていました。
手を合わせる母でした。
消えた蒲生干潟/憎き3.11 . . . 本文を読む
先日、職場で新年会がありました。
仙台市内の某ホテルで開催され、市議などの議員さんやら銀行さんやら諸々・・・
二次会で小グループに分散・・・・
あんなに飲んでも食べても、ラーメンを食べるんですね~。
若い頃は、食べれなかったのですが、今は平気で食べてしまいます。
トップの写真は2011年12月の写真ですが、やはり美味しい店には行列ができるものです。
数名は入れ、溢れた連中は、外で並んでい . . . 本文を読む
先日、田老町の帰り海岸線の国道45号線を帰ってきた。
気仙沼から殆どの車が本吉方面に抜ける道を通っている。昔は私もわりとその道を抜け道として走っていたが、今は抜け道では無く主要道路になっているようだった。
私は敢えて45号線を南下した、大型が迂回する理由がわかった、一部海沿いの道路は破壊されその迂回路は大型がスライドできない道幅だった。
高田の町は平地が広い為、高台に避難するのに時間を要する。そ . . . 本文を読む
2010年7月12日にこの記事を書いている。
津波防災の町/田老町
つまり、2011年3月11日の大震災(津波)以前の記事です。
こちらには過去の津波被害の一部を記載しています。
この時の写真を再度利用し、現在の様子と比べてみたいと思います。
なかなか足を運ぶことができず。時間が経ってしまいました。
2010年7月
10メートルの防潮堤
2012年8月
過去の津波の水位を山肌に . . . 本文を読む
震災関係を先にUPさせていただきます。
一年経って、再び野蒜駅に向かいました。
途中、陸前大塚駅そして間も無くディーゼルで矢本から延長される小野駅の様子を見て来ました。
海が目の前にありながら大きな被害が無かった陸前大塚駅の様子です。
マップや写真で見てもらうとわかるのですが、海沿いであることがわかります。
何故ここを避け、東名駅や野蒜を襲ったのか?・・・・・
駅舎は、形を残している津 . . . 本文を読む
NHKでチラッと報道があったようですが、全く報道されず、医療機関にも市からは電話一本と言うありさま。
保険医協会からはFAXが一部医療機関に送られ、嘘なのか本当なのかドクターも事務方もハッキリしない状態。
当然、患者さんや家族も知らない方が多いと思います。
そこで、緊急情報としてUPさせていただきます。
医療機関等の窓口負担が免除されていた方は平成24年2月29日で終了という書類をお持ちだと . . . 本文を読む
浜街道とは、多賀城に隣接する仙台港から県道10号線を蒲生・岡田・荒浜・閖上を通り仙台空港へ行く
産業道路みたいな役割の道路です。
ここは、今回の津波で大きな被害を受けたところです。
あれから10ヶ月経ちますが船舶は田んぼや住宅付近に置かれたままです。
海岸沿いの防風林はスカスカになってしまいました。
ご覧の通り津波が来たから逃げろ!!といわれても高台がありません。
走っても無理なことがわかりま . . . 本文を読む
今月21日、東日本大震災や福島第1原発事故で不通になったJR常磐線の一部区間のうち、原ノ町(南相馬市)―相馬(相馬市)駅間で約9カ月ぶりに運転を再開した。・・・・
と云うことで足を運びました。
不通になった山下駅には雑草が・・・・
町民の声・・・「自衛隊さんありがとう」
踏切からですが、線路は撤去されていました。
あちらこちらに瓦礫の山が点在していました。
新地駅は残骸 . . . 本文を読む
3.11で取壊しを余儀なくされた。
ここに来たのは15才の頃・・・
それから、増築を3回リフォームを2回・・・部屋の数は8部屋になっていました。
子供達はここで生まれ育ったのですから、私より悲しいようです。
壁は剥がされました。・・・・
五日で家は消えました。
そして今日・・・
悲しみと、不安で心が折れそうになりますが、新たな生活に期待も . . . 本文を読む
震災前にここを訪れたのは、2010年11月20日のことでした。
あの3.11から4ヶ月前のことです。 それも因縁なのか津波避難の看板について取材をしていたのでした。
震災があってから何度も南三陸町の被害の状況や津波の様子をTVや動画で見てきましたが、その凄まじさに恐怖でもありました。
約8ヶ月経ち自分も少し落ち着いてきたので、本日向ってみました。
ところが、まだ海には遠いはずなのに、川の横を . . . 本文を読む
先日、野蒜の様子を見に行く時に45号線を通ったのですが、残念な光景を目にしました。
自らの船で生産していた人達が直接販売していた「生産直売所」です。
鉄の骨組みと看板だけが残っていました。
海水が国道に流出しないように、土嚢が積み重なっています。
実は2008年1月27日にスナップに収めていました。
酷いですね。
船もダメージを受けているようです。
今年の冬は、こ . . . 本文を読む
花とパイプ椅子・・・ここで最愛なる家族が亡くなったのでしょう。
手向けられた花を囲むようにパイプ椅子が並んでいます。
きっと何時までもこの場所から離れられず椅子に腰を掛けこの景色を呆然と眺めていたことでしょう。
時間があれば、ここに来て楽しかった在りし日を思い出しているのに違いありません。
野蒜駅正面から橋を渡ったところです。
この松林の中を抜ける道を行くと海にでます。 と云っても松林は無くなり . . . 本文を読む
瓦礫の撤去も進み、道路も通行可能になっただろうと思い以前記事にしていた多賀城市の八幡神社に行ってきました。
2008年に記事を書いています。その時の写真と比べて見ましょう。多賀城市/八幡神社
まずは、第一の鳥居ですがかなりの長い大きな揺れの影響でしょう。柱だけになってしまいましたね。
木が枯れてしまってます。
以前の状態
道を挟んで横には瓦礫(金属)が山済みでした。よく見るとローリーのタン . . . 本文を読む