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母子石
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説明板がありますが
もっと詳しく・・・・
塩竈市母子沢町(多賀城と塩竈市の堺にある)に夜泣き石と云ってあわれな母と娘の足型を印したといわれる石がある。
今から1200年の昔、多賀城が築城される時のことであった。
普請方(ふしんかた=簡単に言えば国府に従事していた人)の役人になかに妻を求める者があった。
種々物色してみた結果、この石堂(現在・母子沢の東側)の田人の一人娘に白羽の矢が立った。
田人の娘は名を白萩と云って田舎にはまれにみる美しい女で、女一通りの心得もあって近所での評判娘であった。
役人は人を頼んでいろいろと懇望したが、一人娘でもあり異郷の人には嫁にやれないと田人はなかなか聞き入れなかった。
ところが、築城も早落成という時に誰云うともなく「これ程の城が出来上がったので人柱を立て、永久に守りとしなければなるまい。」という議がもち上がった。
白萩をもらいかねた役人がこれを聞いて、娘をもらいかねた腹いせに田人を人柱にすることを主張して、とうとうそれに決まった。
それを聞いて驚いた白萩は、「わたしさえお嫁に行けば、おとうさんの命は助かる。わたしはどんな難儀でも我慢しますからやってください。」と、父田人に願ったが、田人は、「自分が助かれば誰か代わりに迷惑する人ができる。自分にはそんな人に迷惑をかけるようなことは出来ない。」といって、とうとう人柱に立つことになった。
いよいよその日が来た。 母子の悲嘆はたとえようもなく、その時刻にはお城の方に向って両手を合わせて、一心に泣きながら父の後生を祈った。
あわれにも母子はいつのまにか石のようにかたくなって死んでいた。
母子の立っていた石には深く二人の足跡が印されて、ながく母子の泣く悲 しくあわれな声が聞こえたということである。
それからこの地を母子沢と呼ぶようになった・・・・
足跡が残る石がこれです。
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説明板がありますが
もっと詳しく・・・・
塩竈市母子沢町(多賀城と塩竈市の堺にある)に夜泣き石と云ってあわれな母と娘の足型を印したといわれる石がある。
今から1200年の昔、多賀城が築城される時のことであった。
普請方(ふしんかた=簡単に言えば国府に従事していた人)の役人になかに妻を求める者があった。
種々物色してみた結果、この石堂(現在・母子沢の東側)の田人の一人娘に白羽の矢が立った。
田人の娘は名を白萩と云って田舎にはまれにみる美しい女で、女一通りの心得もあって近所での評判娘であった。
役人は人を頼んでいろいろと懇望したが、一人娘でもあり異郷の人には嫁にやれないと田人はなかなか聞き入れなかった。
ところが、築城も早落成という時に誰云うともなく「これ程の城が出来上がったので人柱を立て、永久に守りとしなければなるまい。」という議がもち上がった。
白萩をもらいかねた役人がこれを聞いて、娘をもらいかねた腹いせに田人を人柱にすることを主張して、とうとうそれに決まった。
それを聞いて驚いた白萩は、「わたしさえお嫁に行けば、おとうさんの命は助かる。わたしはどんな難儀でも我慢しますからやってください。」と、父田人に願ったが、田人は、「自分が助かれば誰か代わりに迷惑する人ができる。自分にはそんな人に迷惑をかけるようなことは出来ない。」といって、とうとう人柱に立つことになった。
いよいよその日が来た。 母子の悲嘆はたとえようもなく、その時刻にはお城の方に向って両手を合わせて、一心に泣きながら父の後生を祈った。
あわれにも母子はいつのまにか石のようにかたくなって死んでいた。
母子の立っていた石には深く二人の足跡が印されて、ながく母子の泣く悲 しくあわれな声が聞こえたということである。
それからこの地を母子沢と呼ぶようになった・・・・
足跡が残る石がこれです。
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橋に纏わる人柱は他にもあると思いますし、これからも意識して 見聞したいと思います。
権力を笠に良くないですね。
伝説とは言え、真実か又は元になった話があったことでしょう。
ここを訪れていましたか?
意外と驚きでした。
鉄骨の形を見ると、屋根が造ってあった感じですね。
きっと壊れてしまったのでしょう。
風化しないようにしていただきたいものです。
人柱と言えば、私が「ひーさん」のブログにたどり着いた切欠は、「瀬織津姫」を調べていて知った、広瀬川の「橋姫明神」の記事です。
橋姫とは瀬織津姫でもあり、全国の橋姫神社に瀬織津姫が祭られています。
瀬織津姫と言うと、塩釜神社が関連すると考えている人も多いようですが、瀬織津姫はひーさんも興味をを持たれた吉田大洋氏の本に出てくる神がルーツと考えています。
そう考えると伊勢神宮の秘密も日本神道の本当の意味も言い訳が出来ると思います。
ではでは。
雨上がりということもあって、丁度「足跡」とされる窪んだところに水が溜まっていて、友人と二人で水を払ったことを覚えてます。
「へったれよめご」という、塩竈の民話を集めて「宝文堂」の本を読んだのがきっかけでした。(「鼻いでぇ」も掲載されてます)
作文と学級新聞にしました。その結びですが、「きちんと保護しないと、石が無くなってしまう」と言うものでした。
屋根をかけていないようですが、パイプはありますね。
ちゃんと、伝えていくためにも、保護していってもらいたいと思いました。
悲しい話は意外と多いのが伝説なのかも知れませんね。
今日行けるかと思いましたが出かけられませんでした。
明日からまた仕事が続きます。
線路には雑草が生えています。
自然の力は大きいですね。
今はその代わりになって人形になったり、祈り方が変わったのでしょう。
可哀想に・・・
現代なら考えられないことですけど
放置されたままの仙石線は
鳴瀬川より野蒜駅側にあります
どっちに進んでも線路ないしね
しばらくあのままかと思います
少なくとも今は、かういう理不尽なことは考えられません
ほかの理不尽は、いっぱいあるけれど
拙記事 Spring wish 是非、ご高覧を 3.11関連ですから
こんなことが江戸時代まで続きますね。
発想になるのか
むかしのこととはいえ 理解できませんが
支配層の考えることは
むかしと同じですかねぇ?