司馬遼太郎氏は、「歴史の中の日本」の中で「生きている出雲王朝」と題して出雲民族について触れているようです。
天孫族と出雲王朝との間に協定が結ばれました。それは国譲りの後のことです。
その協定とは出雲王朝は永久に天孫族の政治に関わらないということでした。
哀れにも出雲王族は、身柄を大和に移され、三輪山の側に住んだそうです。
それが三輪氏の祖であるとされています。
また、奈良県は元々出雲王朝の植民地的な存在だったのだろうと想像されます。
神武天皇が侵入するまでは、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ないと・・・・
奈良県人は県内にある神武天皇の橿原神宮よりも三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りという物があり、彼らは「オオミヤはんは、ジンムさんより先や」という、かつての先住民族の信仰の記憶を現在の奈良県人も心の底であたため続けているのかも知れません。
三輪山は、山全体を神体としていますので、神道において最古の形式を遺しているといえますね。
つまり、自然崇拝が祈りの初めと私の史観でもあります。
このような形を甘南備山(かんなびやま)というそうです。
出雲にも甘南備山が多く、「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ているそうです。
出雲民族の信仰の特徴といえるでしょう。
神武は出雲神族と婚姻関係を結び、大和に分散させられた出雲人に三輪山の祭祀許したのです。
この三輪山の祭祀は、付近から発掘された縄文遺跡の陶片から、2000年以上も遡ることが立証されています。
伝 承
※この世界が一夜にして氷の山になった。大祖先のクナトの大神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。
そうして何代もかかってようやくたどりついたのが出雲の地であった。
(今から四000年も前のことである)
※クナトノ大神は、いろいろな知識を持ち、前からこの地に住んでいた人々に、鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。
糸は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。
出雲人に戦いの歴史はなかった。人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。
クナトノ大神は、王に推された。
※習俗と祭祀<神在月につながる慣わし>
首長は「カミ」と呼ばれた。
毎年十月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。
多い国は少ない国に分け与えた。
この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。
【これが現在の神在月につながる。各国のカミがいなくなるので出雲以外では神無月と言うのである】
我々は、祖国を高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えている。
※神武の侵攻
ホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、今度は神武が九州から攻めて来た。
勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。
神武は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。
我々は「カラの子」と呼んでいた。
朝鮮からのヤタガラスが神武の味方にについた。
彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。
まことに陰険であり、残酷であった。
王のトミノナガスネ彦は傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。
王は出雲で亡くなった。
神武は橿原(かしはら)で即位し大和の王となった。
出雲人は、大和。出雲、北陸、関東、東北などに分散された。
神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。
我々の反乱を防ぐためでもあった。
縄文時代も終りのことである。
上記の話を神話と比較すると非常に近いそして確かに皇后は出雲から嫁いでいる。
初代神武天皇(神話時代の天皇)
伝説上の天皇とも言われていますが、実在説も少数ながら存在する。
神話によると、神武は天孫族の裔(すえ)である彦波瀲武鸕か草葺不合命(ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)と、竜宮竜族の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間に生まれた。
当初は九州の日向国(ひむかのくに)を治めていたが、葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治を目指して東上し、難速国(なにわのくに)からの上陸を試みた。
しかし土豪ナガスネヒコの抵抗により断念し、紀伊半島を迂回して新宮から上陸。
熊野経由で大和をめざし、天照大神から降された神剣や高木神から遣わされた八咫烏の助けを得て大和に盤踞(ばんきょ)する荒ぶる神たちを平らげ、畝火の白檮原宮(しらかしはらのみや)
(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。
皇后の父は、「日本書紀」では事代主命、「古事記」では大物主神。
なぜ、一つしかない歴史の話が違うのか腹立たしいのでありますが、いずれも出雲の神でありともに大和盆地に祀られている。
2代綏靖天皇の皇后も事代主神の娘(五十鈴依媛命)いすずよりひめのみこと
3代安寧天皇は記紀には具体的なエピソードは何もない。皇后はやはり事代主神の孫の鴨王(かものおおきみ)の娘(淳名底仲媛命)ぬなそこなかつひめのみことを后としている。
4代懿徳天皇はなんと兄弟の息石耳命(おそきみみのみこと)の娘(天豊津媛命)を后に迎えている。
富氏によると、出雲神族は神代文字を用いていました。
神代文字は「あらはばき」の記事の中で写真をUPしています。
サンスクリットでも、象形文字でもなく、パピルス状のものに、縦書にされていた。
永く富家で保管していたが、大正15年に帝室博物館が借り出し、いまだ返済しないといいます。
解読され発表されればまだ我慢できるが、行方不明らしい。
公開できない理由があるのか? 元教授の家にでも眠っているのか?
クナトの大神
「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」
出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。
「我々の大先祖は「クナト(岐神」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれがこれが抹殺されようとした時、クナトは「地蔵」に「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した。
アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は女陰の意味で本来、一対のものだと言われる。
これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の話。
クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれている。
久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在する。
近い内に行きたいと思っています。
やはり、道に関係するようです。
「アラハバキ」についてホームページにまとめていますが、私の史観ではどうも出雲神とアラハバキが非常に一致する部分があるように感じる。
上記に記載した通り、一対のものである。とするのも要因の一つですが、時代的にも律令国家が出来る以前の話であることや、アラハバキは鉄の神様と言われることもある。
出雲大社の御神体は釜であり、鉄に関わる。
または出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで、塩釜で塩作りを教えていること、多賀城の荒脛巾神社は塩釜神社の末社とされています。
しかし、鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古いと思いますので、後にそうなったのでしょう。
アラハバキは旅をして回る神という性格があります。
もっとも直接的には、出雲国島根郡爾佐神社境外社「荒神社」はマロトさんと呼ばれていた、という証言があります。
マロトとは門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているようです。
「あらはばき」の記事ではアイヌ語に照らし合わせたら、arpa-pake がある、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)などの意味になるらしい。と書いていますが、上記の女陰との関係はまだ不明です。
言葉を区切った場合と続けた場合ではまた違うと思いますが発音などを聞いてみたいものです。
「アラハバキ」の記事はここをクリックしてください
アラハバキの記事では、伊勢神宮の元々の神はあらはばきではないのかと言う話を検証しています。
長くなりましたが、ここでひと区切りです。
アラハバキについては今後も追及してまいります。
ホームページにまとめました。
1ページにまとめましたので長文になります。
http://sanpomichi114.web.fc2.com/izumo.html
天孫族と出雲王朝との間に協定が結ばれました。それは国譲りの後のことです。
その協定とは出雲王朝は永久に天孫族の政治に関わらないということでした。
哀れにも出雲王族は、身柄を大和に移され、三輪山の側に住んだそうです。
それが三輪氏の祖であるとされています。
また、奈良県は元々出雲王朝の植民地的な存在だったのだろうと想像されます。
神武天皇が侵入するまでは、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ないと・・・・
奈良県人は県内にある神武天皇の橿原神宮よりも三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りという物があり、彼らは「オオミヤはんは、ジンムさんより先や」という、かつての先住民族の信仰の記憶を現在の奈良県人も心の底であたため続けているのかも知れません。
三輪山は、山全体を神体としていますので、神道において最古の形式を遺しているといえますね。
つまり、自然崇拝が祈りの初めと私の史観でもあります。
このような形を甘南備山(かんなびやま)というそうです。
出雲にも甘南備山が多く、「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ているそうです。
出雲民族の信仰の特徴といえるでしょう。
神武は出雲神族と婚姻関係を結び、大和に分散させられた出雲人に三輪山の祭祀許したのです。
この三輪山の祭祀は、付近から発掘された縄文遺跡の陶片から、2000年以上も遡ることが立証されています。
伝 承
※この世界が一夜にして氷の山になった。大祖先のクナトの大神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。
そうして何代もかかってようやくたどりついたのが出雲の地であった。
(今から四000年も前のことである)
※クナトノ大神は、いろいろな知識を持ち、前からこの地に住んでいた人々に、鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。
糸は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。
出雲人に戦いの歴史はなかった。人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。
クナトノ大神は、王に推された。
※習俗と祭祀<神在月につながる慣わし>
首長は「カミ」と呼ばれた。
毎年十月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。
多い国は少ない国に分け与えた。
この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。
【これが現在の神在月につながる。各国のカミがいなくなるので出雲以外では神無月と言うのである】
我々は、祖国を高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えている。
※神武の侵攻
ホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、今度は神武が九州から攻めて来た。
勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。
神武は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。
我々は「カラの子」と呼んでいた。
朝鮮からのヤタガラスが神武の味方にについた。
彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。
まことに陰険であり、残酷であった。
王のトミノナガスネ彦は傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。
王は出雲で亡くなった。
神武は橿原(かしはら)で即位し大和の王となった。
出雲人は、大和。出雲、北陸、関東、東北などに分散された。
神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。
我々の反乱を防ぐためでもあった。
縄文時代も終りのことである。
上記の話を神話と比較すると非常に近いそして確かに皇后は出雲から嫁いでいる。
初代神武天皇(神話時代の天皇)
伝説上の天皇とも言われていますが、実在説も少数ながら存在する。
神話によると、神武は天孫族の裔(すえ)である彦波瀲武鸕か草葺不合命(ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)と、竜宮竜族の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間に生まれた。
当初は九州の日向国(ひむかのくに)を治めていたが、葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治を目指して東上し、難速国(なにわのくに)からの上陸を試みた。
しかし土豪ナガスネヒコの抵抗により断念し、紀伊半島を迂回して新宮から上陸。
熊野経由で大和をめざし、天照大神から降された神剣や高木神から遣わされた八咫烏の助けを得て大和に盤踞(ばんきょ)する荒ぶる神たちを平らげ、畝火の白檮原宮(しらかしはらのみや)
(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。
皇后の父は、「日本書紀」では事代主命、「古事記」では大物主神。
なぜ、一つしかない歴史の話が違うのか腹立たしいのでありますが、いずれも出雲の神でありともに大和盆地に祀られている。
2代綏靖天皇の皇后も事代主神の娘(五十鈴依媛命)いすずよりひめのみこと
3代安寧天皇は記紀には具体的なエピソードは何もない。皇后はやはり事代主神の孫の鴨王(かものおおきみ)の娘(淳名底仲媛命)ぬなそこなかつひめのみことを后としている。
4代懿徳天皇はなんと兄弟の息石耳命(おそきみみのみこと)の娘(天豊津媛命)を后に迎えている。
富氏によると、出雲神族は神代文字を用いていました。
神代文字は「あらはばき」の記事の中で写真をUPしています。
サンスクリットでも、象形文字でもなく、パピルス状のものに、縦書にされていた。
永く富家で保管していたが、大正15年に帝室博物館が借り出し、いまだ返済しないといいます。
解読され発表されればまだ我慢できるが、行方不明らしい。
公開できない理由があるのか? 元教授の家にでも眠っているのか?
クナトの大神
「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」
出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。
「我々の大先祖は「クナト(岐神」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれがこれが抹殺されようとした時、クナトは「地蔵」に「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した。
アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は女陰の意味で本来、一対のものだと言われる。
これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の話。
クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれている。
久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在する。
近い内に行きたいと思っています。
やはり、道に関係するようです。
「アラハバキ」についてホームページにまとめていますが、私の史観ではどうも出雲神とアラハバキが非常に一致する部分があるように感じる。
上記に記載した通り、一対のものである。とするのも要因の一つですが、時代的にも律令国家が出来る以前の話であることや、アラハバキは鉄の神様と言われることもある。
出雲大社の御神体は釜であり、鉄に関わる。
または出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで、塩釜で塩作りを教えていること、多賀城の荒脛巾神社は塩釜神社の末社とされています。
しかし、鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古いと思いますので、後にそうなったのでしょう。
アラハバキは旅をして回る神という性格があります。
もっとも直接的には、出雲国島根郡爾佐神社境外社「荒神社」はマロトさんと呼ばれていた、という証言があります。
マロトとは門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられているようです。
「あらはばき」の記事ではアイヌ語に照らし合わせたら、arpa-pake がある、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)などの意味になるらしい。と書いていますが、上記の女陰との関係はまだ不明です。
言葉を区切った場合と続けた場合ではまた違うと思いますが発音などを聞いてみたいものです。
「アラハバキ」の記事はここをクリックしてください
アラハバキの記事では、伊勢神宮の元々の神はあらはばきではないのかと言う話を検証しています。
長くなりましたが、ここでひと区切りです。
アラハバキについては今後も追及してまいります。
ホームページにまとめました。
1ページにまとめましたので長文になります。
http://sanpomichi114.web.fc2.com/izumo.html
真実が見えたような気がします
この本のコピ~は
ありませんか?
気になります (^_-)~☆
昨日も、ふと気付いたのですが、 陸奥守・越前守・・・ ムツノカミ・エチゼンノカミ…
その土地の権力者は「カミ 」 と呼ばれていますね。
時代と供に解釈が変わっても不思議ではありません。
それも神話の国にカミが集まるとすれば誰でも、カミ=神であると考えます。
当主は亡くなると神社に神として祀られます。
徳川家康も伊達政宗も神になっています。
そう考えると辻褄が合います。
面白いですね。
当時は出雲に関心がなかったので、読み飛ばしたのか記憶無しぃ (>_<)
三輪明神 初詣は、ここへ行くのが多かった子供の頃でした。
一度、帰省して大和國を回ってみたくなりました♪
今度は多賀城についてもう少し勉強しないと…
炎立を見ていましたら、アラハバキの神が出ていました。
それもまた、興味が深まっております。
早く引退して日本中歩き回りたいです。
大変ご無沙汰しておりました。
職場の仕事が一段落したと思ったら、
まだ年賀状書きが手つかずでのこっていたのです。
木枯らしや教師も走る十二月
大変失礼しました。
高天原を追われたスサノオが落着く先が出雲。
オオクニヌシも出雲に行ってスサノオの娘と結婚。
この辺りに問題を解く鍵があるのではないかと思っています。
全国では神「無」月なのに出雲だけは神「有」月。
日本神話の世界でも、出雲の国は独特な存在ですね。
出雲といえば、
オオクニヌシとスクナビコナの我慢較べは
何度思い出しても笑ってしまいます。
ここで富氏が話した神在月の理由は、うなずくものがあります。
YouTubeに日本人はるかなる旅と言うNHKの番組がUPされています。
日本人のDNAはある地域に住んでる民族と一致します。
それは、モンゴルのもう少し上のところにいる民俗です。
当然朝鮮や南方系のDNAを持った方もいるのですが 、その割合はかなり片寄っています。
気になる番組でした。
・吉田大洋さんの本は、残念ながら正確な出雲王家の史実を伝えていません。大元出版 出雲と蘇我王国の最初の方をまずお読みください。誤記の経緯に触れてあります。
謎の出雲帝国 内、本文中の富氏から聞き出したとされる内容、巻頭の歴史年表、巻末の出雲神族の伝承まとめ・・・。
割合で言うと吉田さんが誤った内容として理解し、文字にされた部分の方が多いです。
例えば、
伝承まとめの中では風葬水葬が併記されています。
過去私などは、どういう使い分けの仕方をするのだろう?王のみ風葬で、それ以外は水葬なのか???などと結論の出ない悩みを抱えたものです。
大元出版の本を読んでいけば、ああ風葬とは出雲王国前期のやり方の事で、水葬とは後期・・・ではなく…実は出雲国造ホヒ家のやって来た事だな、と分かって来ると思います。
(秦国からの渡来系 元家臣団の出雲国造家のやりたいままにさせて置いたら、顕示欲の強い彼らの事、自分達の為に巨大な古墳でも造営していたでしょう。それに伴い庶民に重い税を課す事は目に見えていたので、その事もあり旧出雲王家がホヒ出雲国造家に水葬にするよう促した。おおよそこんな感じです。謎の出雲帝国では、そんな事は想像もつきませんでした。)
・大元出版の本は、富マサオさんの次の世代(つまり後継ぎ、現当主) が執筆されています。
(大元出版の著書)
幸の神と竜 、サルタヒコ大神と竜(幸の神と竜 の簡略版) 、出雲と大和のあけぼの 、出雲と蘇我王国 、親魏和王の都 、古事記の編集室 、お伽話とモデル 、山陰の名所旧跡 、事代主の伊豆建国 、万葉歌の天才 、飛鳥文化と宗教争乱 など。
現状、毎年1冊ずつのペースで新刊も出版されています。
既に発売中の本は、世に広まってきた故 欠品も多くなっていますが、増刷予定はあるでしょうし改訂版・増補版も期待出来ると思います。
大元出版の本が売り切れになるのには、2種類のパターンがあります。
単純に好評だから売り切れ。
もう一つは、世の人にホントの事を知られてはまずい、ウソつきがばれてしまう・・・といった理由からの焚書目的の買い占め。一括大量購入もあり得ますし、巧妙に個人を装いコツコツ回収していくといったやり方もあるでしょう。
私は、通販アマゾンも出版社直販も両方利用しています。
私も趣味が広いために手つかずのまま放置状態になっています。
今度伊勢に行って気になるところを見てこようと思っています。 もちろん出雲も今まで出てきた神社を見てこようと考えていますが、まだ働いているのでなかなか実現できていません。 私も記事にするときここは違うかもと思っている場所があります。偽書説の部分もありますし・・
勉強したいと思います。
コメントありがとうございました。
とても興味深くブログを拝見しました。
先月でしたか、ある書をネットショップで購入したのですが、気になりつつもそのまま放置していて、昨夜1ヶ月ぶりにその掛軸を開いてみました。
太い蛇がうねった様なその文字に鳥肌が立ち、なぜか見てはいけないものを見てしまったような気がして寝付けず、ネットで作者を検索し、こちらに辿り着いた次第です。
その作者(?)は「為船富氏」とあり、下に落款が2つ、文字の右上にも落款が1つあります。
「為船富氏」の上に「大正甲子」と書かれていて、蛇のような文字の下には「登天門」と書かれています。
表装がきれいなので、印刷ものかとも思ったのですが、書の部分は触ると質感があり、混ざりもののある黄ばんだ紙の裂け目や折れ目(わずかですが)を裏張りの紙で補正してあったりで、それなりに大切にされていたものと思われます。
ブログを読み進めるにつれ、とても気になっています。
初心者で厚かましいかと思いましたが、「為船」とはどういった意味なのかも含め、いろいろ考察していただけたら幸いです。
古代出雲の秘密
https://sanpomichi114.jp/izumo.html
こちらが上記の現在の継承者の書籍から抜粋したものです。
明かされた古代出雲の秘密
https://sanpomichi114.jp/kodaiizumo.html
他にも出雲関係の記事は多くあるのですが、富氏が名前を変えながら生き残って来たわけですが、今まで詠んだ本の中には、伝承者の名前や家系図などは、拝見していません。
一族の誰か?であることは確かでしょう。
出雲の国譲りの真相、出雲から追われた人々・アラハバキとは 一話
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/351f7d1624b8ffc806284e3778015537
ここに「大社龍舵神札」の掛け軸がありますがこれとはまた違うものなのでしょう。
龍や蛇は、日本全体でも神仏系では、大いに関係深いものですね。
大正甲子は年号ですね。
大正の甲(きのえ)、子(ね)の年ですから、大正13年ですね。
お役に立てなくて申し訳ございません。
これからも関係記事を書いて行きたいと思いますので、発見できればと思います。