竜鱗枠銅剣交差紋
明かされた古代出雲大国の秘密1
明かされた古代出雲大国の秘密2
明かされた古代出雲大国の秘密3
その後、出雲に里帰りした人がいた。
彼らは」出雲大社の裏山に三歳社(みとししゃ)を建てた。
そこの祭神は、事代主命と高照姫命となっている。
高照姫命は大国主の姫で、徐福に嫁ぎ五十猛命を生んだことが知られている。
大社町の人々は、正月三日にこの社を詣でて福枝という二股の裏白を授かって帰り家の神棚に飾る。
徐福の和名「火明命」と「饒速日尊」これは同人異名
(先代旧事本紀の「天神本紀」にある火明命櫛玉饒速日尊のこと)
徐福は二度目の渡来のあとチクゴ(筑後)国の吉野ケ里に住んだ。
かれの子孫(スサノオの子孫)は物部氏となりチクゴ方面の豪族の頭となった。
ヤマトの人々が銅鐸の祭をすると、物部勢力が集団で銅鐸を壊して回った。
その結果人々は銅鐸を埋めて隠し、以後は銅鐸祭祀を中止した。
その話は出雲に伝わり、出雲の両王家が銅鐸を集めて地下に埋納した。
1996年加茂岩倉(雲南市加茂町)の丘の崖から埋納された39個の銅鐸が出土した。
磯城王朝(しき)の時代に、チクゴの物部氏(徐福の次男の家系)勢力が紀伊国熊野に上陸。
この勢力がヤマトに侵入すると宗教戦争が起きた。
☆
磯城王朝のフトニ(考霊)大王は、物部勢力を恐れてキビ(吉備)国に逃れた。
息子のキビツ彦は吉備から出雲王国を攻めた。
吉備王になったフトニ王は後に日野川を北上して出雲軍を攻めた。
東出雲の富王家は、同じ事代主の血を分けた親戚のキビツ彦に攻められた。
それで富王家では「強くなった親族に警戒せよ。 目立たぬように生きよ!という家訓を子孫に残した。
この時まで「出雲臣家」と「富家」を使っていたが目立たぬように向家の名も使うように変えた。
そのころ向王家の紋章は、竜鱗枠銅剣交差紋であった。向家では今も銅剣交差紋が瓦屋根や座敷の襖の取っ手に付いている。
外枠はいわゆる亀甲紋では無く、イズモ族の崇拝するオロチ神のウロコの形であった。
銅剣は王者の象徴とも言われている。 中の×印の意味は剣による交戦では無かった。
古代には新しい生命が発生する尊いマークと考えられていた。
紋の「銅剣」部分は目立つので、後には「大根の交差紋」に変えられた。
大根の交差紋は、富家が建てた「富神社」(出雲市斐川町富村富上)の屋根についている。
さらに宮殿が目立たないように祭の場を宮殿から離れた田和山(松江市乃白町)に移した。そこは宍道湖の東南岸の丘で見晴らしの良いところであった。
そこには9本柱の神殿が建てられた。
神殿建築では日本で最も古いものであった。
その後山陰各地に9本柱の神殿が建てられることになる。
出雲王国では毎年、田和山の大祭に各地の代表が集まって各地の出来事を報告し、それを向家が記録するのが役目であった。
豊後国の由布岳の甘皮を温泉につけるとドロドロになる。 それにシブを入れて乾かすと紙が出来る。
湯布院で最初に作られたから「ユウ」(木綿)の名がついた。
その記録は倉の箱の中に保存し、樟脳も入れるがそれでも虫が食った。
虫食いを捨てていくうちに1箱だけ残った。 その文は横書きで※インダス文字らしい字で書かれていた。
※インダス文字=つまりインダス文明(紀元前2600年-紀元前1900年)にハラッパーやモヘンジョダロなどの文明の中心都市で使われた象形文字
文法的特徴から、Iravatham Mahadevanはハラッパ語についてドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱している。
つまり明かされた古代出雲大国の秘密1に記載している。 イズモに住み着いた先祖である、クナトという人は古代インドのドラビダ族の王であったが大勢の部下を引き連れて日本へ民族移動を始めた。
とあることからインダス文字らしい文書が残っていたということなのでしょう。
昭和期に東京大学教授と名のる人が出雲大社に参拝に来たついでに富家に立ち寄り記録を解読するから貸してくれ、と言った。
それで父が貸したが数年経っても返事が無く3回返すように手紙を出したが返事がないまま大事にしていた記録は失われた。
そのうちヤマトでは、物部勢が勢いを増し磯城王朝のクニクル(孝元)大王の御子、大彦が敗れて摂国之島から琵琶湖の東岸に逃れた。
日本書紀には大彦を富ノ長脛彦と書いて、ヤマトでニギハヤヒが殺したと書いているが、誤りである。
磯城王朝はイズモの富王家の血を濃く受けているので彼が「富」を名のったと思われる。
彼の息子、狭狭城山君(ささきやまのきみ)はこの地に住み着いて佐々木氏となった。
なおも攻撃された大君は、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた。と伝承されている。
3世紀に日向にいる物部政権がイズモを攻めるという噂があったので向家は大彦を助ける余力はないと断った。
その時まで富家を名乗っていた大彦に以後は富家を名乗らないように通告した。
大彦は始めに伊賀の敢国(あへこく)を地盤にしていたから、アヘ家を名乗り後に安倍家となった。
大彦は摂津国の三島に居た時に先祖の事代主を祭る三島神社を建てたことがあった。
大彦の子、タケヌナカワケが伊豆に退去した時には、伊豆北端に「三島」の地名をつけ三島神社を建て先祖の事代主命を祭った。
富家は大彦にはイズモお王国内の北陸の豪族を紹介し、北陸に行くことをすすめた。
彼は北陸に退去したと伝わる。
大彦の北陸移住の子孫には、後で若狭(福井県)国造になった膳臣(かしでのおみ:高橋氏)や高志(越後の北部)国造になった道公(みちのきみ)家がある。
西出雲王、神門臣家の大屋姫は、五十猛命の妻となり高倉下(たかくらじ)を生んだが、その子孫の家は紀伊国造家となった。
その子孫の山下陰姫は磯城王朝のクニクル(孝元)大王の御子・彦ウツオシノマコト(布都押之信)と結婚した。
その息子が武内大田根であった。
景行紀には間違って、屋主忍男雄心(やぬしおしおたけおこころ)の息子だと書かれている。
武内大田根は3世紀に紀伊国で生まれた。
和歌山市松原の彼のの誕生地には「武内宿祢産湯の井戸」があり武内神社が建っている。
タケノウチの「ウチ」は、紀伊国の宇知郡のウチにちなむらしい。
武内宿祢
次回はヤマタイ国に触れる。
明かされた古代出雲大国の秘密1
明かされた古代出雲大国の秘密2
明かされた古代出雲大国の秘密3
その後、出雲に里帰りした人がいた。
彼らは」出雲大社の裏山に三歳社(みとししゃ)を建てた。
そこの祭神は、事代主命と高照姫命となっている。
高照姫命は大国主の姫で、徐福に嫁ぎ五十猛命を生んだことが知られている。
大社町の人々は、正月三日にこの社を詣でて福枝という二股の裏白を授かって帰り家の神棚に飾る。
徐福の和名「火明命」と「饒速日尊」これは同人異名
(先代旧事本紀の「天神本紀」にある火明命櫛玉饒速日尊のこと)
徐福は二度目の渡来のあとチクゴ(筑後)国の吉野ケ里に住んだ。
かれの子孫(スサノオの子孫)は物部氏となりチクゴ方面の豪族の頭となった。
ヤマトの人々が銅鐸の祭をすると、物部勢力が集団で銅鐸を壊して回った。
その結果人々は銅鐸を埋めて隠し、以後は銅鐸祭祀を中止した。
その話は出雲に伝わり、出雲の両王家が銅鐸を集めて地下に埋納した。
1996年加茂岩倉(雲南市加茂町)の丘の崖から埋納された39個の銅鐸が出土した。
磯城王朝(しき)の時代に、チクゴの物部氏(徐福の次男の家系)勢力が紀伊国熊野に上陸。
この勢力がヤマトに侵入すると宗教戦争が起きた。
☆
磯城王朝のフトニ(考霊)大王は、物部勢力を恐れてキビ(吉備)国に逃れた。
息子のキビツ彦は吉備から出雲王国を攻めた。
吉備王になったフトニ王は後に日野川を北上して出雲軍を攻めた。
東出雲の富王家は、同じ事代主の血を分けた親戚のキビツ彦に攻められた。
それで富王家では「強くなった親族に警戒せよ。 目立たぬように生きよ!という家訓を子孫に残した。
この時まで「出雲臣家」と「富家」を使っていたが目立たぬように向家の名も使うように変えた。
そのころ向王家の紋章は、竜鱗枠銅剣交差紋であった。向家では今も銅剣交差紋が瓦屋根や座敷の襖の取っ手に付いている。
外枠はいわゆる亀甲紋では無く、イズモ族の崇拝するオロチ神のウロコの形であった。
銅剣は王者の象徴とも言われている。 中の×印の意味は剣による交戦では無かった。
古代には新しい生命が発生する尊いマークと考えられていた。
紋の「銅剣」部分は目立つので、後には「大根の交差紋」に変えられた。
大根の交差紋は、富家が建てた「富神社」(出雲市斐川町富村富上)の屋根についている。
さらに宮殿が目立たないように祭の場を宮殿から離れた田和山(松江市乃白町)に移した。そこは宍道湖の東南岸の丘で見晴らしの良いところであった。
そこには9本柱の神殿が建てられた。
神殿建築では日本で最も古いものであった。
その後山陰各地に9本柱の神殿が建てられることになる。
出雲王国では毎年、田和山の大祭に各地の代表が集まって各地の出来事を報告し、それを向家が記録するのが役目であった。
豊後国の由布岳の甘皮を温泉につけるとドロドロになる。 それにシブを入れて乾かすと紙が出来る。
湯布院で最初に作られたから「ユウ」(木綿)の名がついた。
その記録は倉の箱の中に保存し、樟脳も入れるがそれでも虫が食った。
虫食いを捨てていくうちに1箱だけ残った。 その文は横書きで※インダス文字らしい字で書かれていた。
※インダス文字=つまりインダス文明(紀元前2600年-紀元前1900年)にハラッパーやモヘンジョダロなどの文明の中心都市で使われた象形文字
文法的特徴から、Iravatham Mahadevanはハラッパ語についてドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱している。
つまり明かされた古代出雲大国の秘密1に記載している。 イズモに住み着いた先祖である、クナトという人は古代インドのドラビダ族の王であったが大勢の部下を引き連れて日本へ民族移動を始めた。
とあることからインダス文字らしい文書が残っていたということなのでしょう。
昭和期に東京大学教授と名のる人が出雲大社に参拝に来たついでに富家に立ち寄り記録を解読するから貸してくれ、と言った。
それで父が貸したが数年経っても返事が無く3回返すように手紙を出したが返事がないまま大事にしていた記録は失われた。
そのうちヤマトでは、物部勢が勢いを増し磯城王朝のクニクル(孝元)大王の御子、大彦が敗れて摂国之島から琵琶湖の東岸に逃れた。
日本書紀には大彦を富ノ長脛彦と書いて、ヤマトでニギハヤヒが殺したと書いているが、誤りである。
磯城王朝はイズモの富王家の血を濃く受けているので彼が「富」を名のったと思われる。
彼の息子、狭狭城山君(ささきやまのきみ)はこの地に住み着いて佐々木氏となった。
なおも攻撃された大君は、出雲の向王家に来訪して加勢を求めた。と伝承されている。
3世紀に日向にいる物部政権がイズモを攻めるという噂があったので向家は大彦を助ける余力はないと断った。
その時まで富家を名乗っていた大彦に以後は富家を名乗らないように通告した。
大彦は始めに伊賀の敢国(あへこく)を地盤にしていたから、アヘ家を名乗り後に安倍家となった。
大彦は摂津国の三島に居た時に先祖の事代主を祭る三島神社を建てたことがあった。
大彦の子、タケヌナカワケが伊豆に退去した時には、伊豆北端に「三島」の地名をつけ三島神社を建て先祖の事代主命を祭った。
富家は大彦にはイズモお王国内の北陸の豪族を紹介し、北陸に行くことをすすめた。
彼は北陸に退去したと伝わる。
大彦の北陸移住の子孫には、後で若狭(福井県)国造になった膳臣(かしでのおみ:高橋氏)や高志(越後の北部)国造になった道公(みちのきみ)家がある。
西出雲王、神門臣家の大屋姫は、五十猛命の妻となり高倉下(たかくらじ)を生んだが、その子孫の家は紀伊国造家となった。
その子孫の山下陰姫は磯城王朝のクニクル(孝元)大王の御子・彦ウツオシノマコト(布都押之信)と結婚した。
その息子が武内大田根であった。
景行紀には間違って、屋主忍男雄心(やぬしおしおたけおこころ)の息子だと書かれている。
武内大田根は3世紀に紀伊国で生まれた。
和歌山市松原の彼のの誕生地には「武内宿祢産湯の井戸」があり武内神社が建っている。
タケノウチの「ウチ」は、紀伊国の宇知郡のウチにちなむらしい。
武内宿祢
次回はヤマタイ国に触れる。
富と佐々木ですね!実に面白くなりますし、大彦も出てくるんですから超タイムリーです。
歴史の中で三角関係の流れは、金山姫と金山彦と大彦命です。で私個人としてはどうも金山彦にも大彦命にも家族の関係で関わりが出てくるんですよね。
出雲大社にも一度行きましたが、そこの山の後ろに事代主神と高照姫がいらっしゃる神社は全く知りませんでした。日御碕には行って法螺貝買ってきました。あの辺りも少し調べてみようと思います。
ひもろぎの記事も改めてみると以前と違う縁も頂いたあとなので色々と妄想する事もあります。
で私徐福が嫌いなので五十猛命の件ですけど、徐福の血筋じゃない事を証明出来る日を夢みてます。というのも五十猛命は関東の謎の杉山神社祭神であるのもありおそらく私の産土神になりそうなので。ただいらっしゃるエリアは徐福の関係のある場所多いんでそこは困ったもんです。かなり難しいとは思います。すでにお腹にいて嫁入りしたか?すでに生まれていて一緒に連れていたか?
大阪でも奈良でも胞衣塚とか産湯井戸跡とかばかり回っています。五十猛命じゃないかと。
この前は予期せぬ出会いで鎌足の産湯井戸みたいな物もたまたま見てきました。大伴夫人の墓とかも。この点では女性の女神的お役目の方に寄り添う方が妥当だろうと念も強いだろうと思ってます。大阪では下照姫や三保津姫辺りも候補です。
音で行くとイソとなれば磯部も気になりますね。イガと読む五十もありますけどイガという安曇にもなるのでどっちにも転びますね。はあ。
お水も木もどうも生命自体を守るべき方ですのでその観点があるかどうか?大事に出来ているか?所作振る舞い行動でみようと思ってます。史実の言葉や文字は他人の人の思いがでますけど、本人の思いは反映されないはずですしね。
どこから攻めるかですけど、高照姫がいる事と出雲の下の方の山には津の付く姫のいる百合の神紋の神社があるはずなので高照姫ともう一人の姫との関係地形立地を少し考えてみます。でどちらも西が海なので夕陽の当たる場所のはず。
太陽の信仰の中でも夕陽の方が相性が良い事もあるのでその観点で調べておきますね。
実際にこの記事の内容もまだ明確に頭に入ってきていないので少し関連を掘ってみます。
出雲では神魂神社は超行きたかった所で、熊野神社は意地でも行った神社です。山岳信仰に近い古代の信仰が出雲にはあったのは感じております。
あと松平さんの出雲での動きも参考になるとは思います。知識あって動いている方の軌跡はどの時代でも大事になってくるはずです。
7113 難しいですけどあがいてみますね。
8877 結構いい番号じゃないかな?
本の中から最初はほぼ全文に近い引用でしたが、今は割愛しながら記事にしています。
ただこの文だけで理解できるのか心配でもあるのですが?
この著者のお父さんの話では口伝だけで4000年の歴史を10年に渡って反復しながら記憶してきた話しが最初のきっかけですが、後継者の本がこの本になります。
かなり具体的に書いています。
スサノオは私も嫌いです。まず日本人では無いからでしょう。 そして、ヒーローみたいな取り扱いが嫌ですね。
一度記事にまとめたら再度読み直し、出雲に行った時は、できる限り関連する神社を巡りたいと思います。
で日向とかいう字については昔から各地でも探していましてこの度見つけたのが出雲のお山です。
この前奈良の久米寺にいってまたお薬師さまに出会い、また薬師ばかりものすごいペースで出会いつつあります。
薬師信仰はいつからあるのか?という事で温泉由緒等では風土記にも出ているとの事で出雲の記事探しながら玉造温泉行ったなあと色々地図みてました。
もちろん出雲行った際に風土記の中の熊野の扱いで出雲の熊野にも行きました。ただ田んぼの真ん中だったようなイメージです。平野部かなぁ?と。そこで奥宮だかという説があるのが比婆という所で久米という文字も出てきましたよ。
久米と熊?ここも気になりますね。来目皇子も昔からハマっておりまして思わぬ展開です。
とい事で今出雲と奈良今後気になりますね。
今回昔から鎌足と天智の蹴鞠の出会いの場に行きたかったんですけど飛鳥寺の近くで槻の木広場の候補の可能性ある所に行き、天神さんで野見宿禰さん参りしたのが同じ槻の文字が多い高槻でした。結局大きな木の信仰がどうも関わっているようでそれが薬師になり、井戸になり温泉になりなのかなあ?と。面白くなってきましたよ。鎌足の産湯井戸もあるんですよ。
出雲にはタネという音の場所があったはずですし、タネコという音の方も記事で出ましたね。
大神神社では大田タネコさん関係者ですね。
伊勢とも関係しそうですね。内(ウチ)の一族は大事な一族なので嬉しいのですけど竹じゃなく武なのでそこは私はゆっくりと体験と合わせて見極めて行こうと思っています。素材としての竹が大事ですのでこちらの字を尊重したいですね。
木とタネとお水とお湯が、熊野直結しそうですし、婆の字もあるんで鉄とかももちろん関係ありますし、速玉さんの関係だと風も関係ありそうですね。
そうそう鳥羽で行き忘れた神社は目薬の木がある神社です。
熊野へは少し近づいてきましたので、出雲と熊野と木の信仰も関わってきそうに思いますのでお伝えしておきます。9708
で個人的に明日香を色々調べる事に、なった上に色々と情報もたまたま入ってきちゃっているんですけど出雲とも関係する地の候補ではないか?と。高市って謎が多いですのでだからこそ魅力のある地みたいですね。東北との繋がりはもっと先で出てくると思ってます。4356
行ってみたいところです。
木は重要です。大きな建物を造るには必要不可欠です。
宮廷も出雲の社殿も熊野にも木が欠かせません。
御神木も諏訪の御柱も大事なものです。出雲には竹の付く苗字が多いかも? 出雲のブロ友さんも竹がつく苗字です。
薬師様ですが、仙台には陸奥国分寺の講堂跡に建立されています。
いずれ国分寺も記事にしなければと思っています。
奈良の飛鳥はどうも19代天皇の本拠地のように感じてましてまたこの天皇の時代がもっと古いみたいなんですよ、個人的イメージですけど。確かに順序の違いは歴史上そんなに事実を曲げないでスムーズに文書書き換えしやすい方法だと思うんで全体の流れもかき混ぜず済むとも思います。だとしたら、なぜ履中反正の後にしたか?ってので書き換えの意向が分かるようにも思ってます。でそこに蘇我と物部と中臣と大伴が共存してそうです。
一番びっくりしたのが丹生なんですけど、父の慰霊に吉野には行きたかったのですが自分が男じゃないんで蔵王権現には遠慮して丹生川上神社には行った事があります。で飛鳥います神社のお社がダムだかの工事だかのせいで飛鳥にきていてそこでまた凄い偶然もありました。こちらの神社には陰陽石ですから東北とも通じそうに思いますよね〜。
そうそうもう一つたまたま岐阜の一宮の境外社の一つに槻本神社っていうのがありましてね、その地名は丹生なのでぶっ飛んでます。飛騨高山も父と縁がある地のようでして、岐阜まで絡んでしまいます。で共通項がやはりお水の神っぽいですね。
岐阜から奈良の丹生まで経路検索したら諏訪も通りそうなんですよね。あと最近気付いた吉野の近くの薬水って地名も気になってます。蓮花紋の瓦だったかな?そこも太陽と関係ありそうでして。
多分私が気になる一族が複数今混在してステージ上に浮上中。これを多分色分けする中にトミとか向や竹の方もいるんだろうなあと妄想してます。
個人的な事をとりあえず羅列しましたけどその中で使えそうな所あればと思います。
で今向拝にもハマってます。以前ひーさんに教えて頂いた造りなんですけど、結構探す神社にありそうなんですよね。お薬師と合わせてちょっと探ってみます、っていうかそんな時間もないですけど情報溜まったらお知らせしますね。向という文字付きますね!
因みに岐阜の国分寺にもお薬師さんいそうですよ。お薬師信仰を全国探ってみたら意外と時代も遡ったりして。あっそうか、そこかも?仏教よりも後に薬師をしたいのかな?
まあ私には関係ない問題なので、自分のルーツの生きやすい方法を探す旅薬師は関わって来ちゃってます。
そう飛鳥の遺跡は、川側が意外と広範囲で広がりつつあるようでした。水運も関係してこないと出雲まで辿れませんからね。3868、7688、88は2回出てますね!
自分にはついていけませんよ。
考古学はやはり専門の知識が必要ですね。
東北で五重塔と言えば鶴岡の羽黒山や人面魚で一時騒がれた善宝寺や弘前の最勝院(さいしょういん)新しいのは宮城の定義如来 西方寺ですね。ここは最後の五重塔ともいわれています。 たぶんお金や職人の問題でしょうね。 五重塔はインドの仏教とかかわりがありますね。
根本はやはりインドにあると思います。
タイなどの仏教は小乗仏教で日本は大乗仏教ですね。 よくタイに行くと修行僧には絶対触れないでくださいと言われます。特に女性です。触られると今まで積んできた修行がすべてダメになるといわれています。
日本は、他の国と比べて絶対的な宗教感が無く、なんでも取り入れる国民性は昔から変わらなかったのかも知れませんね。
以前「チャングム」を見ていたとき「般若心経」を拝むシーンがありました。その時の発音はほぼ同じでこうして伝わってきたのかなぁと感心したものです。
発音と漢字の持つ意味を考えながら当てられた文字が現代の経典というか念仏なのでしょうね。
向拝もですが梵鐘も気になるところです。
あの鐘の内側にいろいろな逸話などの文字が刻まれていることがあります。
神仏習合の面影を残す神社の梵鐘は特に気になるところです。
妄想では、重塔と栄螺堂作った技術者は時代を経て何らかの関係ないか?と。この前群馬にもあるって聞いてやった〜と。福島群馬、こっちでは浅草にあったとか?西新井のは中どうなのかな?と。どうも父の関係者にはさざえ堂も強い味方になりそうですよ。女人にも。
で僧が女人に触れられたら大変とは?女性の方が忖度しないといけませんね。蔵王権現にも私は近付かないでおこうかな?そう思っちゃいました。迷惑かけるんでしょうね。いつの日かで十分です。
でもう一個、卯槌が気になり出しましたよ。餅をつくのはT字の道具だと思い込んでましたけど、棒状の物のが古いようですよ。御嶽の小さな神社で一時期卯槌にはまった時があったんですけど、そこも父に繋がりそうなんですよね。
また余計な事まで。今後の記事楽しみにしております。
会津のさざえ堂も国指定の重文です。二度ぐらい入りました。
「すごいですね視察団」の番組でも、よくお城やお寺の建造物について職人技を外国人に紹介していました。
最近はネタが切れたのか内容が変わってきたようです。五重塔などは数が少ないですし建て替えることもないので宮大工も知識のある人が減ってきますよね。 伝統の継承にはやはり遷宮が必要なのかもしれませんね。
木材の再利用と継承も。作る需要も必要なんですね!なるほど。4706
さざえ堂2回も、バッチリですね。
管理が大変で、いつか朽ちていくことになりますね。
だから遷宮まで行かなくても修復は必要になりますね。
宮大工の継承は必要ですね。