鹽竈神社の裏坂(女坂)を下から数段あがり左に行けば神社境内、右に行けば勝画楼がある。現在は廃墟と言える勝画楼だが、歴史をさかのぼればそこには鹽竈神社との関係やこの町の誇れる建造物だったのです。
女坂(鹽竈神社の東側の緩い階段の参道)の鳥居をくぐり、突き当たりを右に上がります。
この辺の写真は、この記事にもUPしています。 奥州一宮:しおがまさまへ
かなり痛みが激しく、こうなる前に保存出来なかったかと残念に思います。
まず、勝画楼を語るには法蓮寺から説明をしなくてはなりません。それは法蓮寺の書院だったからです。
通称「法蓮寺」ですが、正式には、真言宗金光明山蓮華院法蓮密寺。一宮別当。です。
仙台藩の御一門格十七ケ寺の一つです。 他の十六ケ寺はここでは省略します。
法蓮密寺は江戸時代には鹽竈神社を管理する別当寺として勢力を誇ったが、明治維新の廃仏毀釈によって廃絶し、今は書院であった勝画楼を残すのみである。
法蓮寺に関する最古の記録は、永仁二年(1294)十月十三日の法眼良弁(ほうげんりょうべん)の譲状とされる。
そこには、「奥州宮城郡鹽竈神宮寺」(留守文書)とみえる。
良弁のは留守家元(留守氏二代目の子息)三代家広の弟であったという
留守氏についてはこのページに簡単に記載しています。御釜神社(御釜社)……そして、しおがまさま その1
つまり法蓮寺の前身は神宮寺と称し天台宗の寺院で、留守家と密接な関係にあった。
後にこの寺院は六供の筆頭にあたる地蔵院に継承されたという。『塩竈市史より』
その後、ここには一森山最勝 護国鹽竈寺が創建され、後に金光明山蓮華院となった。京都の仁和寺の末院であったという。
天正年間(1572~)富鏡僧正によって法蓮寺は再興される。 天正九年(1581)ならびに同十七年(1589)の留守政影の社殿造営の棟札には、「法印冨鏡」の署名が見える。 「鹽竈社史」によれば、冨鏡(富饒ともいう)は真言宗の僧侶で、留守氏の命を受け、日々鹽竈神社の神殿に籠り仏教を誦(じゅ)していたが、社人はこれを厭(いと)い、留守氏に訴えた。
しかし留守氏は崇仏心厚く、かえって社人の訴えを斥けて、冨鏡を敬い、遂に命じて本社の別当とし、盛んに堂塔を建て法蓮寺を中興したという。
江戸時代になると伊達政宗は慶長十二年(1607)、鹽竈神社の社殿の造営をおこなった。
その棟札の末尾に「法印権大増都照楡」(ほういんごんのだいそうずしょうゆ)とあり、法蓮寺が伊達家の承認を得て鹽竈神社神社を管理していたことがわかる。
法蓮寺全景
勝画楼と法蓮寺
「塩竈村風土記御用書出」(宮城県史24)によれば、真言宗、一宮御別当、仏殿護摩堂は南向き竪四間・横三間半、本堂は大日如来の木仏座像で長二尺、脇仏は六社仏木仏座像で長一尺五寸づつであった。
客殿は南向き、竪十一間・横六間。 書院は東向き、竪五間・横三間半、鐘楼は竪二間・横一間半、門は西向きであった。
明治期の勝画楼
勝画楼・・・つまりここからの眺望は画にも勝るものとされ歴代藩主をはじめ多くの人々に愛された。
ここからは塩竈浦の景色を一望に見渡すことができる。
歴代藩主も鹽竈神社に参詣した際もここで遊覧したという。
勝画楼は法蓮寺が廃絶した後は民間に払い下げられ昭和四十年代まで料亭勝画楼として使われていた。
明治九年(1876) 明治天皇の東北行幸の際には行在所として使用された。
明治天皇が東北巡行の際にここから松島を眺め「またとない景色だ」と申され、この丘を「萬多奈能岡」と刻まれた石碑があります。
この石碑は鹽竈神社の境内にありますが、ほとんどの人がここを訪れることは有りません。
この記事は、「しおがまの不思議4」に記載しています。
勝画楼の書院の床の間に掲げられていた。
この文字は、獅山公(五代藩主伊達吉村)の筆です。
勝画楼からの現在の風景
宮町の通りからスマホで撮影。
佐浦酒造さんの蔵が目立ちますね。
実は、この撮影をしていた場所は、洋式灯台が立つ予定の場所だったのです。
勝画楼の横にあります。
幻の洋式灯台
この六角形の石組は幕末の慶応元年(1865)仙台藩商人 大竹徳治らを中心に建設が進められた。
洋式灯台の台座である。 倒幕のあおりを受けて灯台本体は未完となったが完成していれば日本で最初の洋式灯台で灯火には菜油、外郭部にはギヤマンの板ガラスが用いられる予定だった。
台座には石工十名と人足世話人四名の名が刻まれている。
法蓮寺の向拝が現在も残っている。
その記事は、塩竈市本町:佐浦酒造/浦霞に記載しています。
多賀城の慈雲寺にあった頃の様子。
今回の記事は新釈 奥鹽地名集(編集・刊行:NPOみなとしほがま)から引用させていただきました。
女坂(鹽竈神社の東側の緩い階段の参道)の鳥居をくぐり、突き当たりを右に上がります。
この辺の写真は、この記事にもUPしています。 奥州一宮:しおがまさまへ
かなり痛みが激しく、こうなる前に保存出来なかったかと残念に思います。
まず、勝画楼を語るには法蓮寺から説明をしなくてはなりません。それは法蓮寺の書院だったからです。
通称「法蓮寺」ですが、正式には、真言宗金光明山蓮華院法蓮密寺。一宮別当。です。
仙台藩の御一門格十七ケ寺の一つです。 他の十六ケ寺はここでは省略します。
法蓮密寺は江戸時代には鹽竈神社を管理する別当寺として勢力を誇ったが、明治維新の廃仏毀釈によって廃絶し、今は書院であった勝画楼を残すのみである。
法蓮寺に関する最古の記録は、永仁二年(1294)十月十三日の法眼良弁(ほうげんりょうべん)の譲状とされる。
そこには、「奥州宮城郡鹽竈神宮寺」(留守文書)とみえる。
良弁のは留守家元(留守氏二代目の子息)三代家広の弟であったという
留守氏についてはこのページに簡単に記載しています。御釜神社(御釜社)……そして、しおがまさま その1
つまり法蓮寺の前身は神宮寺と称し天台宗の寺院で、留守家と密接な関係にあった。
後にこの寺院は六供の筆頭にあたる地蔵院に継承されたという。『塩竈市史より』
その後、ここには一森山最勝 護国鹽竈寺が創建され、後に金光明山蓮華院となった。京都の仁和寺の末院であったという。
天正年間(1572~)富鏡僧正によって法蓮寺は再興される。 天正九年(1581)ならびに同十七年(1589)の留守政影の社殿造営の棟札には、「法印冨鏡」の署名が見える。 「鹽竈社史」によれば、冨鏡(富饒ともいう)は真言宗の僧侶で、留守氏の命を受け、日々鹽竈神社の神殿に籠り仏教を誦(じゅ)していたが、社人はこれを厭(いと)い、留守氏に訴えた。
しかし留守氏は崇仏心厚く、かえって社人の訴えを斥けて、冨鏡を敬い、遂に命じて本社の別当とし、盛んに堂塔を建て法蓮寺を中興したという。
江戸時代になると伊達政宗は慶長十二年(1607)、鹽竈神社の社殿の造営をおこなった。
その棟札の末尾に「法印権大増都照楡」(ほういんごんのだいそうずしょうゆ)とあり、法蓮寺が伊達家の承認を得て鹽竈神社神社を管理していたことがわかる。
法蓮寺全景
勝画楼と法蓮寺
「塩竈村風土記御用書出」(宮城県史24)によれば、真言宗、一宮御別当、仏殿護摩堂は南向き竪四間・横三間半、本堂は大日如来の木仏座像で長二尺、脇仏は六社仏木仏座像で長一尺五寸づつであった。
客殿は南向き、竪十一間・横六間。 書院は東向き、竪五間・横三間半、鐘楼は竪二間・横一間半、門は西向きであった。
明治期の勝画楼
勝画楼・・・つまりここからの眺望は画にも勝るものとされ歴代藩主をはじめ多くの人々に愛された。
ここからは塩竈浦の景色を一望に見渡すことができる。
歴代藩主も鹽竈神社に参詣した際もここで遊覧したという。
勝画楼は法蓮寺が廃絶した後は民間に払い下げられ昭和四十年代まで料亭勝画楼として使われていた。
明治九年(1876) 明治天皇の東北行幸の際には行在所として使用された。
明治天皇が東北巡行の際にここから松島を眺め「またとない景色だ」と申され、この丘を「萬多奈能岡」と刻まれた石碑があります。
この石碑は鹽竈神社の境内にありますが、ほとんどの人がここを訪れることは有りません。
この記事は、「しおがまの不思議4」に記載しています。
勝画楼の書院の床の間に掲げられていた。
この文字は、獅山公(五代藩主伊達吉村)の筆です。
勝画楼からの現在の風景
宮町の通りからスマホで撮影。
佐浦酒造さんの蔵が目立ちますね。
実は、この撮影をしていた場所は、洋式灯台が立つ予定の場所だったのです。
勝画楼の横にあります。
幻の洋式灯台
この六角形の石組は幕末の慶応元年(1865)仙台藩商人 大竹徳治らを中心に建設が進められた。
洋式灯台の台座である。 倒幕のあおりを受けて灯台本体は未完となったが完成していれば日本で最初の洋式灯台で灯火には菜油、外郭部にはギヤマンの板ガラスが用いられる予定だった。
台座には石工十名と人足世話人四名の名が刻まれている。
法蓮寺の向拝が現在も残っている。
その記事は、塩竈市本町:佐浦酒造/浦霞に記載しています。
多賀城の慈雲寺にあった頃の様子。
今回の記事は新釈 奥鹽地名集(編集・刊行:NPOみなとしほがま)から引用させていただきました。
移ってきた一森寿司のすぐ近くです。
今度行ってみますよ。
気付きませんでした。
廃仏毀釈で衰退してしまいましたが、現存する勝画楼は何とか保存して欲しいですね。
甦ったら足を運びたいと思います。
すみませんでした。
NPOしおがまの方とひーさんの記事に目を通し塩釜に住んでいながら知らなかった事が解りました。ありがとうございます。
私もいろいろな本から引用しているだけですから。
より多くの地元の方に知っていただきたいと鹽竈・多賀城・仙台などの記事を多く書かせていただいております。
また、訪問していただければと思います。
現在塩釜に住んでおり、勝画楼の存在は何十年も昔の中学の頃から知ってましたが勝画楼についてきちんと調べたのも初めてです。
今、友達のところにある「勝画楼の歴史」というNPOみなとしおがまからいただいたというものを手にしがらコメントさせていただいております。
よく見ると塩釜についてたくさん書かれているので時間があるときに読ませていただきたいと思ってます。
勝画楼は塩竈の歴史の中で重要な場所だと思っています。
難しいとは思いますが、再び甦る計画も無くはないようです。復活できるといいですね。
鹽竈神社も謎の部分が多い神社です。
それは、HPの「鹽竈」のなかに、しおがまさまの不思議として記事にしています。
女郎番付表なるものがあり、鹽竈の記事の中に掲載しています。
無くならないうちに早く記録に残さなければと考えています。昔は女郎屋さんを餅屋といったそうですよ。
これからも鹽竈の記事は書いて行きたいとおもいます。
これからもよろしくお願いします。