鶺鴒(セキレイ)の眼
大崎葛西一揆鎮圧のため、天正十八年(1590)11月14日
黒川郡下草城(宮城県大和町)にいた政宗公のところに、会津少将蒲生氏郷が訪ねてきた。
その夜公は伊達成実、片倉小十郎景綱、茂庭綱元をよぶ。
公は会津・岩瀬・安積の三郡を秀吉に没収されたのを恨み、一揆勢と通じて蒲生を狭撃すると打明けた。
片倉は「日本国中秀吉の威勢に敵する者なし、時勢を持つべし」と練めた。
「綱元君記録」には公「御怒甚ク(おいかりはなはだしく)既ニ御手撃ニシ玉フ御様了」であったので、成実は公を留め、茂庭は片倉を「引立」た。
この話を立ち聞きしたのは、父輝宗の殉死者須田道空の子伯耆(ほうき)であった。
伯耆は脱走して蒲生にこの話を伝えた。
計画は露見、失敗に終る。
秀吉祐筆和久宗是に促された公は、金箔張り傑柱(はつりばしら)を先頭に上洛、秀吉から、一揆煽動の証拠文書を提示され糾明を受けた。
公は「僞書なり」と笑い、「セキレイの花押の眼には必ず針で穴を開けているが、これには穴がない」と釈明する。
和久の持ってきた秀吉宛の公の書状には穴が開いていた。
秀吉は沈黙した。
大河ドラマでもこのシーンがありましたね。
これは蒲生氏郷の方の記録にあったもので、小説やテレビドラマでも広まった話ですね。
ところが、仙台市博物館にある改宗の手紙の中には、せきれいの花押に針の穴が開いたものはなかったようです。
偽物の証拠だったのかは、実物が残っていないのでなんとも言えないところです。
これがセキレイの花押ですが、政宗が生涯において、残した文書は全部で3500通と言われています。
徳川家康の側近的な地位にあった者や、秀忠・家光に仕えた幕府の重要人物に宛てた書状も数多い。
一位:土井利勝・・・79通 譜代大名:幕府の老中・大老。下総小見川藩主、佐倉藩主、古河藩主
二位:内藤正重・・・72通 徳川秀忠の側近をつとめる。
三位:柳生宗矩・・・60通 徳川将軍家の剣術師範。大和国柳生藩初代藩主。
四位:酒井忠世・・・37通 幕府の老中、大老。上野国内の那波藩主、伊勢崎藩主など。
五位:今井宗薫・・・32通 秀吉没後は徳川家康と接近し、松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫の婚約成立に尽力している
藤堂高虎・・・32通 伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。
実はこの花押は、使い分けしています。大名や公家宛ての書状に用いる公用の花押と親族・家臣・私用などの花押を厳密に使い分けています。
下の写真の花押は私用の花押です。
柳生宗矩宛ての書状で国元へ帰る前に是非会いたいという内容です。
柳生宗矩はご存知の通り将軍家・剣術指南役の剣豪ですが、宗矩の領地があった大和国(奈良県)は、酒造で名高い地域でした。
政宗は、宗矩を介し大和出身の榧森又右衛門(かやのもり)を仙台に招き、城内に酒蔵と屋敷を与えて酒を造らせたのです。(市史通信22号から)
大崎葛西一揆鎮圧のため、天正十八年(1590)11月14日
黒川郡下草城(宮城県大和町)にいた政宗公のところに、会津少将蒲生氏郷が訪ねてきた。
その夜公は伊達成実、片倉小十郎景綱、茂庭綱元をよぶ。
公は会津・岩瀬・安積の三郡を秀吉に没収されたのを恨み、一揆勢と通じて蒲生を狭撃すると打明けた。
片倉は「日本国中秀吉の威勢に敵する者なし、時勢を持つべし」と練めた。
「綱元君記録」には公「御怒甚ク(おいかりはなはだしく)既ニ御手撃ニシ玉フ御様了」であったので、成実は公を留め、茂庭は片倉を「引立」た。
この話を立ち聞きしたのは、父輝宗の殉死者須田道空の子伯耆(ほうき)であった。
伯耆は脱走して蒲生にこの話を伝えた。
計画は露見、失敗に終る。
秀吉祐筆和久宗是に促された公は、金箔張り傑柱(はつりばしら)を先頭に上洛、秀吉から、一揆煽動の証拠文書を提示され糾明を受けた。
公は「僞書なり」と笑い、「セキレイの花押の眼には必ず針で穴を開けているが、これには穴がない」と釈明する。
和久の持ってきた秀吉宛の公の書状には穴が開いていた。
秀吉は沈黙した。
大河ドラマでもこのシーンがありましたね。
これは蒲生氏郷の方の記録にあったもので、小説やテレビドラマでも広まった話ですね。
ところが、仙台市博物館にある改宗の手紙の中には、せきれいの花押に針の穴が開いたものはなかったようです。
偽物の証拠だったのかは、実物が残っていないのでなんとも言えないところです。
これがセキレイの花押ですが、政宗が生涯において、残した文書は全部で3500通と言われています。
徳川家康の側近的な地位にあった者や、秀忠・家光に仕えた幕府の重要人物に宛てた書状も数多い。
一位:土井利勝・・・79通 譜代大名:幕府の老中・大老。下総小見川藩主、佐倉藩主、古河藩主
二位:内藤正重・・・72通 徳川秀忠の側近をつとめる。
三位:柳生宗矩・・・60通 徳川将軍家の剣術師範。大和国柳生藩初代藩主。
四位:酒井忠世・・・37通 幕府の老中、大老。上野国内の那波藩主、伊勢崎藩主など。
五位:今井宗薫・・・32通 秀吉没後は徳川家康と接近し、松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫の婚約成立に尽力している
藤堂高虎・・・32通 伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。
実はこの花押は、使い分けしています。大名や公家宛ての書状に用いる公用の花押と親族・家臣・私用などの花押を厳密に使い分けています。
下の写真の花押は私用の花押です。
柳生宗矩宛ての書状で国元へ帰る前に是非会いたいという内容です。
柳生宗矩はご存知の通り将軍家・剣術指南役の剣豪ですが、宗矩の領地があった大和国(奈良県)は、酒造で名高い地域でした。
政宗は、宗矩を介し大和出身の榧森又右衛門(かやのもり)を仙台に招き、城内に酒蔵と屋敷を与えて酒を造らせたのです。(市史通信22号から)
でも、世の中が固まりつつあった時期であっても、近隣へ攻め込む姿勢を崩さなかった史実は誇らしいです。
やっぱり戦国大名は天下を狙い続けなくっちゃね・・・
私は「万年窓際族」を狙い続けてます・・・
天下を取った秀吉でも、うかつに政宗を追い詰められなかったともいいます。
まぁ、こんな逸話が残るくらいの大物には、なれませんがね。
花押は面白いですね。
室町時代に征夷大将軍家と関東公方家では花押の様式が違いますが(京都の花押の底辺はカーブしてますが、鎌倉公方のものは直線です)。
角館の武家屋敷に展示されている古文書の花押に鎌倉公方型の花押があってびっくりしたことがあります(文書の年代を確認しなかったのが悔まれます)。
伊達政宗の花押は、年を取るに従って丸みを帯びてくるようですね。
セキレイの目の話は、紫桃正隆さんが『政宗に睨まれた二人の老将』だったか『危うし独眼龍』だったかでも書いています。
葛西大崎の旧臣に宛てた書状も豊臣政権の諸将に宛てた文書も、実は政宗が書いていたのではないか。
公の書状と密書とで花押を人知れず使い分けていた所が、政宗の用心深さ。
秀吉はその用心深さとおめず臆せず堂々と申し開きをした豪胆さを買った。
これが紫桃さんの見解です。
秀吉の前での申し開きも、筋はきちんと通っていますね。
筋が通り過ぎてクサイぐらいですが・・・
実は秀吉も「黒幕は政宗」と見抜いていたのではないでしょうか。
そして「油断のならぬヤツ」と思ったに違いありません。
秀吉の前ではお咎めなしでしたが、
政宗は国替えを命じられます。
しかも米沢という祖先墳墓の地を召し上げられ、
与えられたのが葛西氏と大崎氏の旧領ですから。
この国替えに「全てはお見通しだぞ」という秀吉の考えがはっきりと見て取れます。
「後始末はお前がやれ」ってことですから。
歴史にタラレバは禁物ですが、
もし政宗が一揆の平定に失敗していたら・・・
肥後での検地強行が国人の一揆を招いた佐々成政の例を見るまでもないと思います。
政宗は関ヶ原合戦の時にも似たようなことをやりますね。
家康も「政宗には油断できぬ」と思っていたはずです。
セキレイといえば、こんなことがありました。
まだ非常勤のかけもちで、石巻専修大に御邪魔していた頃のことです。
二階の職員食堂入口のそばの公衆電話の陰に、
セキレイが巣をかけたんです。
鳥に詳しい知合いによれば、
カラスなど天敵から身を守るために小型の野鳥が人間の近くに営巣することが、
ままあるのだそうです。
親がいない時にそっと覗いてみると、
かわいい卵が二つ。
次の週に行ってみると、電話の周りにはれクラフトテープが張られ、
「この公衆電話は故障して使えません」
の貼り紙。
夏休みを過ぎて、二羽の雛は無事に巣立ちました。
じぶんも~
創ろうかしらん (^_-)~☆
燕も同じ理屈ではないでしょうか?
間違いなく秀吉は、知っていた事でしょう。
政宗の機転の良さには、感服致します。
其れよりも、流石に丹治さんですね.
筆を使った時にカッコ良く描いてみたいですね。
政宗もすわっと言う時には、すぐ知恵が回る人だったのでしょうね。
もう少し時代的に早く生まれていたらとか~
遅く生まれていたら~などありますが、
それほど政宗には力があったのでしょうね。
もっと中央に近い所に生まれていたら、また何かが違っていたのでしょうね。
遅れて生まれていれば、名は今ほど、売れていなかったかもしれませんね?
聞くところによると、家康の最期に、「家忠を頼む」と言われた時に、天下取りを諦めたと聞きます。
ストーリーを見ると、賢いですね。小十郎のアドバイスもなかなかですね。
あの時の仙台を見たいものです。
「二人の芭蕉」読了しましたが、酒井が失脚し、綱吉親政が始まり、水戸光圀や綱村さんが出てきます。
二人の芭蕉・・・・光圀・綱村・芭蕉の関係は多賀城碑と同じです。