芭蕉船出の地から宮町あたりをふらふら・・・・
塩竃神社の表参道がある西を望めば川だったところは、道路になり交互通行になりました。わずかに工事が残っているようです。
チョット視線を左にやれば佐浦酒造(浦霞)の蔵が背中を見せている。
向かいの右側には銘菓・志ほがまの老舗のお店(丹六園さん)が見えます。
国道45号線側から塩釜神社に車で行く場合はこの道を通る。もちろん大型バスもです。
この通りはまだ古い建物が見える。
道沿い行くと小さな川に出るその先は、塩釜神社です。
塩釜神社に車で行く場合は、この坂を上って行きます。
看板を見てください。鹽竃神社と書きます。
丹六園からこの入り口に向かうとこんな店が・・・
それでは、川を海の方へ戻ります。
正面の信号が国道45号線です。
信号まで来ました。
国道を横断すると・・・・
川が分かれてます。左側は昔の本塩釜駅前を流れていたあたりですね。
川と言ってもこのへんは海の入り江と言った方が正解かも知れませんね。
北浜新橋から元ジャスコ、塩釜湾の方を見ると・・・月が・・・
塩釜の月 心にかかりて
千賀の浦 望めば
妖艶な月 川面に映りて
踊りにけりな
我が心なり
ひー
この写真塩釜なのですが、どこだろ? 金魚売りのようです。昭和33年
塩竃神社の表参道がある西を望めば川だったところは、道路になり交互通行になりました。わずかに工事が残っているようです。
チョット視線を左にやれば佐浦酒造(浦霞)の蔵が背中を見せている。
向かいの右側には銘菓・志ほがまの老舗のお店(丹六園さん)が見えます。
国道45号線側から塩釜神社に車で行く場合はこの道を通る。もちろん大型バスもです。
この通りはまだ古い建物が見える。
道沿い行くと小さな川に出るその先は、塩釜神社です。
塩釜神社に車で行く場合は、この坂を上って行きます。
看板を見てください。鹽竃神社と書きます。
丹六園からこの入り口に向かうとこんな店が・・・
それでは、川を海の方へ戻ります。
正面の信号が国道45号線です。
信号まで来ました。
国道を横断すると・・・・
川が分かれてます。左側は昔の本塩釜駅前を流れていたあたりですね。
川と言ってもこのへんは海の入り江と言った方が正解かも知れませんね。
北浜新橋から元ジャスコ、塩釜湾の方を見ると・・・月が・・・
塩釜の月 心にかかりて
千賀の浦 望めば
妖艶な月 川面に映りて
踊りにけりな
我が心なり
ひー
この写真塩釜なのですが、どこだろ? 金魚売りのようです。昭和33年
これにも T.B返しぃ ww
志ほがま ちぇっくぅ ♪
奥州一ノ宮があれば茶屋&旅籠は増えて当然でしょうね。
貴重な情報ありがとうございます。
皆さんの意見を総合して検証したいと思います。と言ってもあても無いのですが、まぁしばらくお時間下さい。
当時の塩竃の人口は安永3年(1774年)時点で男1,032人、女954人、合計1,986人とありますから、人口比から見て、「遊興施設」は非常に多かったようです。
200海里規制前の尾島町界隈は、ずらーっと飲み屋街が続いておりまして、丹治さんの三小での宿題の成果は、至極当然ではあります。
担任の先生にいちゃもん付けられた時に、私に言ってくれれば良かったのにねー。
助かります。
なんとか、まとめられればと思います。しばらくかかるとは思いますがお待ち下さい。
後は自分なりに調べて見ます。
遊郭が移設されたか自然に出来たかはわかりませんが、気になっておりました。寒風沢のおしろい地蔵についても記事にしたいのですが、写真を撮りに行くのに手間取ってました。ありがとうございます。
塩竈高校下のあたりから七曲までの間、二階建てのもくぞうの建物が最近まで残っておりまして、それが遊郭の跡と聞きました。
女郎山は小松崎から岬の途端のようになっているところ。今灯台のようになっている信号灯があるところです。塩竈港へ入っていく船が丁度北浜にある背の低い信号灯と二本の赤い光が立てで重なっていると正しい航路となります。
ひー様のブログ塩竈神社の写真左上にそれが見えます。白い塔があります。そこが通称「女郎山」と呼ばれています。
何故そう呼ばれているかは、分からないのですが、一説には、女郎が船で港に着いたとき、船から真っ先に塩竈を見られる岬だったとも・・
あそこに女郎が住んでいたかどうかは定かではありません。「相撲甚句」には塩竈遊郭の詩があったとも聞きますが、歌詞の内容はどうでしょう、残ってはいると思うのですが。
あの辺りは神社の関係する方も多かったですね(神職というよりは氏子でしょうか)。ことに神社と関係が深いと鶏以外の肉は御法度。「うちのカレーライスは、豚肉じゃなくて鶏肉だった」なんて話も聞いたことがあります(豚肉の代用品・・・ってことじゃなくてチキンカレーもうまいですけどね)。
小生の記憶に残る尾島町は、色町というよりは飲食店街です。それらしい建物は、残念ながら覚えておりません。小学校三年生の時だったでしょうか。「近所にどんなお店があるかしらべてきましょう」なんといふ社会科の宿題がありました。「ニッカバー・・・○軒、サントリーバー・・・△軒、トリスバー・・・×軒、」
「丹治君、一体何を調べて来たのっ!!」担任のオバチャン先生に、とんでもない雷を落されましたよ。「ちゃんと宿題をやってきたのに・・・」幼な心にも納得のゆかぬ丹治君でした。
遊郭・・・仙台で言えば七番丁と八番丁でしょうか。北目街のガードをくぐって東側に出ると、間口の広い二階建てで、一階には長ーい孔子窓。一目でそれと分る建物が残ってましたね(今は再開発で跡形もなくなってしまいましたが)。他には小田原と細横丁(今は晩翠通ですが、ホントに細かったそうですね)でしょうか。もちろん「あった」と話に聞くのみで、建物は見たことありません。
実は、伊達4代綱村のの時、遊郭を塩竃へ移したと聞きます。
それらしい建物が、尾島町界隈で見かけるのですが、はっきりとはわかりません。一度仕事で食事をしたとき、ここは昔、何をしてましたか?と聞いたら、船宿をやってましたと答えがありました。もしや遊郭と想像してます。
酔漢さんの言う、地図のあの上にもそれらしい家があるとも聞きます。
確か丹治さんと元遊郭の話出てませんでしたっけ? たぶんぐずらも一部わかるかもしれませんが、実際に塩竃に移ったのか、移ったのならばどの辺なのか知りたいところです。
完全テリトリー界隈でございます。
「悪さしたなぁ」の通り。
一森寿司の後ろ、から信号灯の山「女郎山」には秘密基地がありました(笑)
ジャスコ建設時の事故などこの通り(宮町)を通って現場へ急行いたしました。
最初の地図ですがあと数センチ上に上がりますと実家が見えました。ほんの二小のそばなんですよ。
これからも、裏道徘徊しようかと…
一度、歩いてみたいです。
あの写真は特定するの難しいね。
川幅もそれ程広くないけど、自分達が物心ついた時は広くなってる可能性もあるからね。
いずれ、この辺も開発されるでしょうからね。
昔はと言ってました。
八幡下一・下二とか運動会には部落対抗リレーなどと言うものも、足が速かったので良く出ていましたよ。
知らない古い仙台の街もこの塩釜の街も懐かしい思いがこみ上げてきます。
不思議ですね。
金魚屋さんは冬でも金魚を売るしか仕事が無かったのかも知れませんね。
最近仙台の業者が復刻版を出版しています。
見比べると、いろんなことが発見出来て楽しくなります。
そろそろ、年末を迎え値段がつり上がるかも。
お待ち下さいね。
地面に積もっていないから、降り始めでしょうねぇ。
体調はなんじょだべ?
おら等はあれから尾島町「かぼちゃ」さ行きました。帰りは・・・何時だったべが???
最後の写真は何処ら辺だべが?
金魚屋のいるあたりが表通りで玉石積みの堀が斜めに突き当ってて、堀脇の家は長屋っぽくて向かい側にも家があるようだし、奥の方には本瓦葺きの二階建ての商家らしい家が薄ら見えてるし・・・
街場だの山手じゃなくて、海っ端のそれも新開地じゃない地域、北浜か吉津か、はたまた牛生か一本松か花立あたりか???
塩釜神社にお参りに行く時には、
必ず丹六園の(志ほがま)を買っています。
余り甘くなくて美味しいですね。
浦霞の蔵の建物は歴史を感じます。
橋に川に月の景色や雲などが映っている
のが素晴らしいですね。
詩にも句にも聞こえてきて良いですね。
伝上山の田舎モンにとっては、ほんと「町の方」です。
「志ほがま」は小さい頃から苦手でした。
以前、カミさんは丹六園で喜んで購入していましたが。
浦霞は、魚市場は、・・・
おーっと今日は早く出勤する日だーっ!
あとは酔漢さん。よしゅーに。
こういう場所は自分が生まれてもない頃からあるのに、懐かしく感じてしまうのが不思議です。
最後の写真は、雪の降る中金魚を売っているのですね。金魚って夏のイメージがつよくて。
いつまでも残っていてほしいですね
塩釜魚市場に行かれたことは?
塩釜港で獲れるお魚知りたくなります
雰囲気のあるところです~ね goo~
金魚売~真冬にですか?
なんちゃって・・・最近、工事で変わりつつあるものですから、いや変わってしまったのですが、少しでも記録に残したいと思いましてね。
懐かしく思い出しましたよ~。
ひーさんの詩、素敵!
月がとても綺麗ですね!その月と川を詩に・・。素晴らしい!
前世は詩人かも~。
この辺はまだ昔の雰囲気が残ってます。ドンドン街は変化していきますからね。記録して置かないと。
ですから我が家のあたりの古い人は、私が子どもの頃など海岸通だの本町、宮町、何かに行くことを「町に行く」と言ってたものです(両親がそうでした)。塩竈神社はもちろんのこと「お山」です。もっともこれは塩竈共通かと思います。
あそこの道、すっかり広くなってしまいましたね。これで多少の雨が降っても水浸しにならず、あの地域の皆さんは安心されたことでしょう。表坂の登り口のちかくが整備されたのも、嬉しいことです。
私が知っている川はコンクリートで護岸工事をされてしまったドブ川です。母校の大先輩に「丹治君、あの川を何というか知っているか?」と聞かれて「新河岸川ですか?」と答えた所・・・「何を言うか!!」と、とんでもなく大きな雷が落ちました。
あの川、本来は祓川(はらいがわ)と言って、塩竈神社に参拝する人があの川の水で穢れを清めたのだそうですね。お山の門前の清流を一度でいいから見てみたかったものです。
とはいえあの新河岸川でも、枝垂柳が植えてあったりガス灯がともっていたり(丹六園の近く、仙台よりも早かったときいています)、なかなか風情がありましたよ。
「国道を横断すると・・・」の写真の辺りが「海の入江」というのは同感です。ジャスコ跡は小学校に入った頃はもう埋立地でしたが、昔はあの辺りまで港だったそうですね。小生誕生の前年、チリ地震津波の折に今のS-Portの所に遊覧船が逆立ちしたというのもうなづけます。
確か来来軒など、半分は海の上だったのではないでしょうか。大潮の満潮に高潮がぶつかると、元の本塩釜駅のとこで線路が冠水して(しかも海水!)仙石線が止ったのも懐かしい思い出です。
古い町並みがあるのですねぇ~
風情があります