初めての海外渡航は、30年前のことでした。
パキスタンのパーボイルプラントに入れた機械の運転指導でした。米を籾のうちにアルファー化して、長粒種の弱点である歩留まりと精米の品質とその後の貯蔵性を向上させるプロセスがパーボイルプラントです。
まず、空港の税関でつまずきました。
インボイス(持ち込み荷物の価値を申告する書類)に書かれている評価と空港職員が査定した評価に大きな開きがあったのです。4倍の関税を私が拒否したため、荷物は空港預かりとなりました。電子部品が多く入っていたのです。日本では数百円の物が、10倍の評価になったものと思います。翌朝、再交渉に行きました。結局、空港職員のいうままに払いました。14万円でした。
どう巻きに大切に保管していた予備金から出しました。
問題はそこからでした。荷物は保税倉庫に保管されていました。
長い列に並び、許可の印を受け取るまで2時間かかりました。
案内してくれた空港職員はいつしかいなくなり、また空港へ戻りました。
空港と倉庫の距離がおよそ1Km。炎天下の中、大きな自分の荷物を引きずりながら怒って歩く私でした。ポーターの親方が、配下に「お客だ」と指示していました。
大汗をかいている私は、拒否しました。
空港でマネージャーに文句を言い、再度案内人を付けてもらいました。倉庫までの道にまたポーターが現れました。手を振って拒否しました。ポーターの値段を知らなかったからでした。
結局、7人の異なる部署の許可印をすべてもらい、荷物にたどり着いたのが夕方でした。案内人がいなくなること2度。たんびに空港まで荷物をがらがら引きながら歩く日本人に、いつしかポーターの親方も、「あれには近づくな。」と指示していました。
お金が無くなったと空港のマネージャーに文句を言い、安いホテルを紹介してもらいました。前日、トランジットで宿泊したホテルの1/4の価格でした。払った100ルピーのおつり83ルピーをホテルのカウンターでたたくようにカウントする日本人を笑いながらレセプションの男はみていました。合っていました。OKとにやりと照れ隠しに笑う私でした。日本人が滞在する現地のサイトに電話がつながったのが、交換手に頼んで6時間後でした。電話に出た日本人の責任者は、アフガニスタンに行ったんじゃないかと心配したと冗談をいっていました。
翌日、消えた私をカラチの代理店のMr.Goriがホテルに迎えに来ました。
通常、1週間はかかる通関をお前は1日でやってのけたと感心していました。
豪勢な大いに辛くて食べられない昼食をご馳走になりました。翌日、ラホールに向かう飛行機でもこぼれる紙コップにクレームをつけたら、ジュースを1本プレゼントしてもらいました。無事に着陸したら、後部座席にいた外国人の団体が揶揄するように、拍手をして喜んでいました。
やっと4日目にしてサイトに行き、荷物を届け仕事を始めました。翌日は、現地の生水を飲みさっそく下痢になりました。2ケ月間辛い食べ物は、ずっと胃に留まらなかったのでした。
パキスタンで市場に行き、ぶどうを買いました。何を買うにしても値段交渉でした。
来いよと目でサインを送る売り手の誘いに乗り、交渉をずいぶん楽しませてもらいました。電池を買いに、ドライバーと一緒に電気店に行った時のこと。どんな電池が欲しいのかという店主に切れた電池を見せました。受け取った店主は、同じタイプの電池をかごから取り出してこれだなと私に渡しました。私が渡した切れた電池は、かごに悠然と投げ入れられました。だめだめと他の電池を要求しました。今度は、箱に入った台湾製の電池を持ってきました。裸売りなのでまた断りました。次にやっとラップした韓国製の電池が出てきました。その次は日本製だなと思いながら、韓国製で手を打ちました。これまた、かの地の面白い現実でした。笑わせてくれると感心したものでした。
私は、サイトのマネージャーであった日本人から10,000円で短波を受信できるラジオを買いました。帰国した2ケ月後に故障し、使えませんでした。パキスタン人のほうがよっぽど正直だと思ったものでした。
各プロセスに一人ずつパキスタン人の責任者をつけ、試運転を開始しました。うまく運転できているときは、俺がやっているからねと自慢げに二の腕の筋肉を盛り上がらせるのでした。うまくいかない時は、どこかに行っていませんでした。お前、駄目じゃないかと怒る日本人のマネージャーが滑稽に見えたものでした。俺は日本語を知っているという、以前からいるパキスタン人がいました。知っている日本語は何だと聞くと、「チョットマテ。」でした。ははあ、この日本人は、やらせては違うと何度も繰り返したのだなと想像できました。6mmの鉄板を、金のみで切っていました。ガスのトーチは、補充されないガスのボンベと共に倉庫に眠っていました。驚くような毎日でした。パキスタンを去る日には、また来たいと思ったものでした。いまだに行っておりません。
現場で働いていたパキスタン人のほうが、よっぽど英語が上手でした。ドライバーに頼んで、近くの小学校を訪ねたことがありました。窓越しに、英語を大きな声で発音する子供達を見ました。小学校低学年の子供達でした。パキスタンは自国に産業が少ないため、金持ち国である中東に出稼ぎに早くから出ているのでした。国際感覚とは、何かと考え始めた最初ではないかと思います。
2014年6月20日