
「後ろ姿もいかしてる」というタイトルの絵です。
課長の肩書ゆえに、このタイトルを選びました。
前の姿もよいのです。
日中は暖かくても、朝晩はまだまだ寒い。
これが平年並みの気温ではないだろうか。
この地域に来たのは三年前、早朝鍬を握る手はかじかんだ。
やっと、普通の暮らしに戻れた。
ゴールデンウィークは、異常であった。
来客が二組あり、家を片づけた。
カフェの駐車場と付随の畑の草を刈った。
一反歩の畑と三軒の空き家の草も刈った。
野菜を植えた。山菜を採りに行った。
食べきれぬ山菜を都会の友人に送った。
そして、遊びにも行った。
今日のテーマは、「ボタンの掛け違い」です。
致命的な失敗の夢をみた。
次から次に失敗の連鎖の思い出がよみがえる。
こんなにやらかしても、生きている。
都度言い訳をし、打開してきた。
成功を思い出すことはない。
成功だったとは、他人が言って初めて知るのである。
失敗は己が気づき、また重ねたなと実感する。
書類のやりとり、コミュニケーション不足などが原因の失敗である。
失敗を取り戻すために、多くの時間を割いてきた。
多くの失敗を振り返っても、やらなければよかったとは思わない。
やらなければ、未熟さに気づかなかった。
恋は、いつでも初舞台なのである。
「ボタンの掛け違い」だけは、避けられたのではないか。
人の話を聞き、己を知っていれば、「掛け違い」まではならなかった。
成功と失敗を分ける基準(ものさし)は、どこにあるのだろう。
原因と結果は、誰かが教えてくれる。
医者は、証拠(科学的データ)を示しながら病気の解説をしてくれる。
予防や対策も親切に教えてくれる。
何故そうなったかは、医者にも不明なことが多い。
同じことをしても、病気にならない人がいる。
そもそも成功なんてないのではないだろうか。
失敗を重ねても生きていることが、成功なのではないだろうか。
危機一髪とはいかないまでも、
寝坊を走って取り戻すようなことの連続なのではないだろうか。
取り戻せないにしても、「ボタンの掛け違い」こそ、人生そのものなのじゃないだろうか。
ちぐはぐこそ、味わい。
もう少しこうだったらと、万人が思う。
墓場まで持っていきたい恥じらいこそ、わが身である。
ごまかす笑顔こそ、その人そのものである。
失敗を繰り返す他人も自分も許してあげよう。
失敗は、心地よくない。
そもそも、失敗かどうかの基準が、教えであったりモラルであったりする。
その基準までも疑ってよいのである。
なにが大事なのか、私には考えつかない。
どこまでも、模索中である。
どうか、失敗と上手に付き合って欲しい。
取り戻せない人生などないのだから。
葉をどけて 様子をみるか ありの道
2019年5月8日