イチャリバチョーデー(沖縄のことば)というタイトルの絵です。
袖振り合うも多生の縁。
(振り合うは、互いに触れる、または互いに振るの意。
「多生」は「他生」とも書く)
道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁(前世からの因縁)による。
すなわち、ちょっとした出来事もすべて宿生の因縁によるという意。
(広辞苑より)
冒頭の絵は、別府で見た足湯の風景です。
「袖振り合うも多生の縁」と言う言葉を思い出し、
偶然隣り合わせた他人が、友達にもなりうるとイメージして絵を描きました。
ところが、この言葉は前世からの因縁の意味が込められていました。
今日のタイトルは、「人生すれ違い」です。
今回、学生の頃の友人と何十年ぶりに会いました。
かつては、同じ方角を向いて歩いていました。
何十年という時により、まったく違う人生を互いに見ることになりました。
私達夫婦は、同窓会で50年ぶりに再会し再婚しました。
互いの長い時間との折り合いをつけることになりました。
むしろ、その時間を捨てざるを得なくなった。
つまり、それぞれ住んでいた家を出ることになった。
助走の意味で、私の経験を生かした仕事をし所帯を持った。
働きづめの妻は、憧れの主婦になった。
飽き足らず、故郷に恩返しがしたいと地域おこしという仕事を選んだ。
地域おこしという仕事に多くの人が就いた。
総務省の狙いは、移住者を増やすこと。
地域おこし協力隊員は、3年間のうちに除隊後の生業を見つけること。
地縁血縁のない新たな土地で、生業となるような仕事を見つけることは至難の業である。
大した仕事をしたわけでもないのに、安いけれど給料と経費は出る。
評価がないまま、時だけが過ぎていく。
多くの協力隊員が挫折を味わい、都会に再度紛れ込む。
そんな協力隊員にかける言葉を思いつかない。
私は、心の奥底に潜む叫びを黙って聞くだけである。
故郷に恩返しをする気持ちは、生き抜くことだけに費やされていった。
作物が獲れぬ畑に日光を当てようと森の木を伐った。
徐々に片づけながらも、未だ畑の傍に伐採した木々が放置されている。
まさに開拓の風景である。
多くの人生がすれ違ってきた。
そして混ざり合ってきた。
まかり間違えば、目の前にいる人の生きざまになっていたのです。
だから、長い時を経ても共感できるのでしょう。
俺だったらそうはしないのにな。
しかし、他人の耳には決して届かない。
SNSに自分の生きざまを肯定する写真を載せ続けるしかない。
私は、仲良しクラブから遠ざかる。
ただただ、汗だけの生きざまとなる。
陰笑い 私と違うと 暗闇に
2019年5月24日