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安土城跡

2019-03-09 | 日記
予定していた名古屋行きが中止となり、安土城跡へ行くことにした。
安土城は室町後期の戦国大名・織田信長(1534年~)が武田勝頼との戦い「長篠の合戦」(1575年)で勝利を収め、築いた城だ。1576年に着手して僅か3年で完成、そしてその3年後、家来の明智光秀の謀反(むほん)によって京都の本能寺で自刃(じじん)した史実が残っている。学生の頃一生懸命覚えた「本能寺の変」(1582年)である。信長は48歳だったんだ。

下剋上の激しい時代の難しくややこしい事は苦手でそれほど興味はなく、ただお城の石垣が見たかっただけ。(笑)
我が国で初めて天守閣(五層七重)のあるお城だったというではないか!199mの安土山の城跡とは。。。。。


    3月8日(金)
東海道線安土駅に降りた。案内所で徒歩25分と聞いて、タクシーを利用した。
大手道の入り口、横に広がる大手石塁跡の広さに驚いた。
受付で入山料700円也を払う。入山料が要るんだとちょっとビックリしたが、コースを一周して解った。これだけ大きな山城、崩れかけた箇所の修復保存にはかなりの費用が要るんだ、永久に残して欲しい城跡、入山したい人皆で少しずつ協力するべきだと。

受付を過ぎると緩やかな登りが急にキツイ幅広の石段になり、見上げると延々と続いていた。
工事中の梯子を横目に伝前田利家邸跡、伝羽柴秀吉邸跡、伝徳川家康邸跡に足を踏み入れ、天下統一の野心に燃えた武将が皆一緒にココに居たんだと改めて時代を感じた。
鐘楼の鐘を突かせてもらって、「さぁ登るぞ!」、ねじり鉢巻き気合を入れた。

          (画像はクリックすると拡大する))

石段の所々に石仏が埋め込まれて石の代用に使われていた。
ゆっくりゆっくり登っていくと、信長の嫡男・信忠邸跡もあった。そしていよいよ中枢域の入り口、黒金門に来た。
大きな石が1つ、何かと思えば、仏足跡だった。この辺りの石垣に積まれている石は下層の物と比べて随分大きい、ひょとすると石垣に使われていたのかも知れないと考えてしまう。
大和郡山城の石垣には大きなお地蔵様が逆さまに使われていて「さかさ地蔵」として有名なのが思い浮かんだ。

                

「右 天主 本丸跡」の石標に?、安土城では天守ではなく天主と書くらしい。パンフレットの表示もそうなっていた
更に登って行くと、「護国駄都墖」(「ごこくだととう」?)と刻んだ大きな石碑があって、一段高い所に信長公本廟があった。二の丸跡である。
       
 
その上層部、更に石段を上ると広い広い本丸跡、そして最後の石段を上がると終に天主跡に辿り着いた。はるか遠く雪の被った比良山系が見渡せ、私達はそこでお弁当を食べようと決めていた。勿論受付でOKを貰っていたので大丈夫。達成感に浸りながら食べた。(笑)
        

コースは山を下り始めて間もなく右に折れて、また石段を上がって百々橋口道の途中にある摠見寺跡になっていた。信長公が築城の際に他所から移築し、お城の中に自らの菩提寺を建てたという摠見寺は1854年本堂からの出火で焼失、三重塔と仁王門が残ったそうだ。仮本堂と言われている現在の摠見寺は大手道脇の伝徳川家康邸跡に在って、鐘楼から見えていたのがソレらしい。本堂跡からは西湖が見下ろせた。
石段を下りて三重塔を見上げ、仁王門を通り抜け、百々橋口は閉鎖されているのでぐるっと左に折れてスタート地点に戻るようになっていた。
        
                     
    
恐ろしいばかりの石垣続きの巨大な城跡、予備知識なく案内書片手に廻っただけだったが、先に資料館に行っておいた方がもっと楽しめたかも知れない。タクシーで駅に戻った時にはもう余力は無く、残念ながら資料館に行く元気は無かった。(笑)

腰を固定し薬を飲んで杖を持って何故これほど迄して・・・バカな自分に呆れながらやれやれ。。。。。、同伴してくれた彼にありがとう。



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