『涅槃交響曲』で有名な作曲家・黛敏郎(1929-1997)は出光提供の「題名のない音楽会」の司会を長い間やっていたんですね。
↑「題名のない音楽会」リハーサル。写真はすべて平凡パンチDELUXE1967年1月号より。
↑タバコが似合いますね!
「音楽芸術」1997年6月号の、富樫康氏による黛敏郎追悼文には「題名のない音楽会」の司会を引き受けた経緯が書いてあります。
「1961年8月は吉田秀和氏を所長として、柴田南雄以下数人の前衛作曲家が結成した二〇世紀音楽研究所が、大阪で音楽祭を催した年である。その年はまた一柳慧(1933年生まれ、オノ・ヨーコさんの元旦那さん)がアメリカ十年の留学を了えて帰国した年で、同音楽祭は一柳が留学中に体得したジョン・ケージの唱えるチャンス・オペレーション、つまり偶然性の音楽を紹介したのである。そしてその司会と解説を行ったのが同じメンバーの黛敏郎であった。話上手な黛の説明はまことに明晰をきわめ、そのとき初めて聴く一柳が作曲した偶然性の音楽を、誰もが納得できるように解説した。
その力量が買われたのであろう、64年から黛はテレビ朝日が毎週日曜日朝に放映する『題名のない音楽会』の構成、司会役を引き受け、それが人気番組となり、死去に至るまで三十年余り、1500回を越える長寿番組に育てたのは驚異的である。」
。。。よく1500回分の番組のネタがありましたね!ちなみに亡くなる前に、その先3回分の収録を済ませていたそうです。
↑日テレの報道番組のキャスターもつとめた!めちゃマルチ。
↑ダンディすなあ
黛敏郎はまた、芥川也寸志亡きあと日本作曲家協議会会長、日本音楽著作権協会会長も引き受けたということです。
さらには「日本を守る国民会議」の議長をつとめたり、建国記念の日について積極的に発言したりしたそうです。このへんの黛さんはあまり評判が良いとは言えませんが、そのような政治活動の裏にはどんな動機付けがあったんでしょうか。
富樫氏はこの点について書かれたドイツの新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung紙)を親しいドイツ人から送られたそうです。【Uwe Schmidt氏による"Kaisertreu der Komponist Mayuzumi"という論文の一部。植村耕三訳】
「三島神話は生きつづけた。あるときは死後硬直的に、ある時は生きいきと。文学者、ネオナショナリスト、或いはこの傾向の文学者は、それぞれに合った部分を取りあげた。・・・・黛敏郎は微温的なデモクラシー、祖国喪失、反日本的策動に不快の念を現しながら語る。『もし三島が現在を体験したとしたら、彼はもう一度自ら死ぬだろう』。このような推測をする相続権を、ひょっとしたら黛は他の誰よりも持っているかもしれない。彼が正しいと認められてよいのはこの一点であろう。」
。。。黛さん、死ぬのがちょっと早すぎた?