『帝劇の五十年』(昭和41年東宝発行、非売品ですが古本屋で1000円ちょっとで買えます)の「主要興行年譜」をながめていると、クラシック音楽関係では帝国劇場が開場した年である明治44年(1911年)の12月6日に開催された「東京フィルハーモニー会」というのが目に留まりました。
この後「東京フィルハーモニー会」が帝国劇場で開かれた日付は下記のとおりです。
大正2年(1913年)11月27日
大正3年(1914年)12月6日「山田耕筰初の管弦楽作品発表会」
大正4年(1915年)には5月23日、6月27日、9月26日、10月24日、11月21日、12月12日、12月19日と怒涛の勢いで活動しています。
しかし年譜では翌年大正5年(1916年)には早くも「東京フィルハーモニー会解散」とあります。どんな団体?
『NHK交響楽団五十年史』に答えがありました。一部を引用します。
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「東京フィルハーモニー会」は1910年に実業家・岩崎小弥太(1879-1945)が主宰し、帝国ホテルや帝国劇場でピアノ独奏や独唱を通して音楽の普及を図っていたが、岩崎の支援でドイツに渡っていた山田耕筰が1914年に帰国したのを機に、同年12月6日「恤兵(しゅっぺい)音楽会」のサブタイトルを付けた演奏会を帝国劇場で行わしめた。
山田はこの演奏会で自作の音詩「曼陀羅の華」、交響曲「かちどきと平和」を紹介し、その他に「ローエングリン」前奏曲、「カルメン」からの詠唱なども指揮して、一躍楽壇の寵児となった。
この日のオーケストラ編成は、海軍軍楽隊東京派遣所所員全員、1913年2月から管弦楽演奏を開始した三越少年音楽隊、東京音楽学校職員、宮内省楽部の連中から成る3管80余名の大編成で、当時の情勢としてはけたちがいに飛び離れたものであった。(中略)
この演奏会を開くまでの苦心について山田自身はこう語っている。
「三越の楽員諸氏は実際に於て、未だ可愛な少年達であった。現に協会のバスィストである寺尾誠一君、オーボイストの阿部万次郎君、第2ヴァイオリンの田辺千次君、フリュートの宮田清蔵君、なども実に可愛らしいボンチであった。全員が燕尾服を揃へて着たのもこの音楽会がはじめてであった。服は薗部といふ衣装屋から借りて間に合わせたが、この可憐な少年達の足に合ふ靴ばかりはどうしても得られなかった。当時その楽団の指揮者であった久松鉱太郎氏の奇智はしかし、この難関を容易く切り開いてくれた。演奏会の当日、可憐な三越の少年達は、その短小な体躯を巧妙に応用して、各演奏者の間にかくされ配列された。足にはエナメルの礼靴の代りに、黒足袋がはめられたあったからである。
私の作「曼陀羅の華」の奏せられたのもこの時である。今は亡き親友滋野清武(1882-1924、飛行家)が仏蘭西から持ち帰った竪琴の用ひられたのもこの会であった。奏者がないので親友斎藤佳三(さいとう かぞう、1887-1955)に、無理矢理に竪琴を押し付けた。彼は指の皮をむいて迄連日その練習に当った。たくさん張られた絃の見分け難さから、必要な糸を色分けにして奏したのもこの会であった。帝劇の大道具と激論して、初めて演奏台の上に屋根をつけたのもこの会であった。」
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。。。「東京フィルハーモニー会」はオーケストラの名称ではなく、単に音楽会という意味だったんですね。もちろん、現在の東京フィルハーモニー交響楽団とも全く関係なさそうです。
この演奏会の大成功を喜んだ岩崎は2管約35人からなる「東京フィルハーモニー会管弦楽部」を山田に託し、上記のように1915年には7回もの定期演奏会が開催されたのですが、1916年2月突如岩崎家の出資が停止され、東京フィルハーモニー会は解散に追い込まれたということです。
原因は「山田の身辺に起った中傷」からだそうですが、一体何が起きたんでしょうか。(←Wikipediaに「この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性(後にこの女性と再婚)に手を出し、それを聞いた岩崎が激怒」との記載がありました)
それはともかく、「東京フィルハーモニー会管弦楽部」が新交響楽団につながる、日本の本格的オーケストラの元祖のひとつであることは間違いなさそうです。
『NHK交響楽団五十年史』99ページより(小原敬司氏撮影)