チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

シベリウス:フィンランディア賛歌~歌詞の単語毎の日本語訳

2014-10-15 14:39:26 | メモ

シベリウスのフィンランディア賛歌をフィンランド語で歌うアマチュア合唱団は少なくないと思います。
そんなに難しくないのに、感動的なので。

どうせならフィンランドの独立記念日(12月6日)か二日後のシベリウスの誕生日(12月8日)に歌うといいかも!

この歌詞は1941年に詩人・コスケンニエミにより書かれました。

 


Veikko Antero Koskenniemi, 1885-1962

。。しかし歌詞の意味をちゃんと知っておかないと、しかも単語の意味まで少しは知っていないと棒読みな歌になってしまうのでは?ほほ笑みながら「隷属的支配~」とか


故テレサ・テンも自分の歌の日本語歌詞の一言一言の意味を理解するまでは決してレコーディングしなかったといいます。

全体的な歌詞の和訳・英訳はネットでも結構見つかったのですが、逐語訳したサイトがあまりなかったので自分でやってみました。
ただし、フィンランド語の文法とか全然わからないので間違っているところがあると思います。修正していきます。



Oi(おお), Suomi(フィンランド), katso(見よ), sinun(あなたの) päiväs'(朝が) koittaa(来る),


yön(夜の)uhka(脅迫は) karkoitettu(追い出された)on(英語の"is") jo(もう) pois(去って),


ja(そして) aamun(朝の) kiuru(ひばりが)kirkkaudessa(輝きのなかで)soittaa(奏でる),


kuin(まるで~のように) itse(自身が) taivahan(天の) kansi(蓋/頂上) sois'(奏でる).


Yön(夜の) vallat(支配に) aamun(朝の) valkeus(光が) jo(もう) voittaa(勝つ),


sun(あなたの) päiväs'(朝が) koittaa(来る), oi(おお) synnyinmaa(我が祖国)!

 


       
Oi(おお) nouse(立て), Suomi(フィンランド), nosta(上げよ) korkealle(高く),


pääs'(頭を) seppelöimä(花で飾った) suurten(偉大な) muistojen(思い出の).


Oi(おお), nouse(立て), Suomi(フィンランド), näytit(示した)maailmalle(世界へ)


sa(あなたは) että(したことを) karkoitit(追い出した) orjuuden(隷属を)


ja(そして) ettet(しなかったことを) taipunut(屈した) sa(あなたは) sorron(弾圧) alle(の下に),


on(英語の"is") aamus'(朝が) alkanut(始まる), synnyinmaa(我が祖国)!


。。。あらためて読んでみると、他民族に侵略・弾圧された経験のほとんどない日本人がこの歌詞を歌うとき(昭和25〜27年はアメリカに占領されていましたが)、どうやって感情移入すべきか悩んでしまいます。
所詮他人事、みたいな態度で歌ってはダメだし。。。
まあ普通ですが、自分の国が侵略されるような時代が決して来ないことを祈り、ひいては世界の平和を望みながら、ですかね?

 

(追記)フィンランドの団体のアカペラ録音を何種か聴いて(なけました)、僭越ながら発音について気付いた点を書くと

1. päiväs, pääs, näytit の"ä"は英語のmapやcatの"a"に近いですね。

2. yön, seppelöimaの"ö"は決して「オ」でなく、カタカナではうまく表せませんが、ユン(イェン)、セッペルーイマ(セッペレーイマ)のほうがよっぽど近いです。

3. 何カ所か出てくる"u"は英語やドイツ語のそれよりもさらに唇をとんがらせて発音しているように聞こえます。

4. "kuin itse", "sorron alle"はリエゾンしている録音(クイニッツェ、ソロナレ)と、そうでもない録音があるのでどっちでもいい?ただし聴いた範囲では "on aamus'"は「オン アームス」だし、"on jo pois"も「オーンニョ」ではなく全部「オーン ヨ ポーイス」でした。


ショスタコーヴィチ・交響曲第15番日本初演(1972年5月10日)

2014-10-13 00:03:33 | 来日した演奏家

1972年(昭和47年)に初来日した国立モスクワ放送交響楽団の演奏会プログラムを200円で買って読んだら、このツアーで、世界初演されてからまだ間もないショスタコーヴィチの交響曲第15番がロジェストヴェンスキーの指揮で日本初演されていたことがわかりました。



しかも、それは6月1日(木)、東京・新宿 厚生年金会館でのこと!?



。。。と思ってページを遡ると、あらー、5月10日(水)に既に大阪フェスティバルホールで初演されちゃってるじゃないですか。東京は二度目の日本初演だったわけですね。。

↑ショスタコーヴィチのあとに悲愴。



以下は、そのプログラムの、大木正興氏(1924-1983)による曲目解説ですが、ご本人もまだ音楽を聴かれてないようなので、結果的に、一体どんな音楽なのかドキドキ期待を抱かざるを得ない文章になっています。

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 1969年の夏、63才のショスタコーヴィチは第14番の交響曲を書きあげ、その年の冬、それはモスクワで初演されて大きな話題となりました。それから2年とたたぬ1971年の夏には彼はまた新しい交響曲の創作にとりかかり、異常な速さでそれを完成、今年1月8日、やはりモスクワで初演されたのがこの最新の第15交響曲です。この交響曲はソビエト国外ではまだ現在までのところ演奏がおこなわれておらず、レコードも出ておりません。今回の日本での演奏が国外での初の演奏ということになります。モスクワでの4ヶ月前の初演とは、指揮者は異なりますが【註:モスクワでの指揮は作曲者の息子マクシム】、オーケストラは同じです

 さて、曲については何分にもでき上がったばかりのものですから、資料も十分でなく、楽譜さえも入手できませんので、以下、タス通信と夕刊モスクワに掲載された記事とを頼りに紹介の義務を果たすことにします。

 初演の前日(1月7日)のタス通信はショスタコーヴィチの新作第15交響曲に大きな期待がかけられていること、そしてそれは翌8日に、モスクワ音楽院大ホールで演奏されることになっていると前置きして、作曲者のインタビュー記事を載せています。

「作曲は1971年の夏におこない、懸命に仕事をし、たいへん早く、ざっと2ヶ月ほどで完成しました。この曲は拡大された打楽器群を含むオーケストラのための交響曲です。初演前夜に当って私はいまとても気持がたかぶっております。国立モスクワ放送交響楽団と指揮者のマクシム・ショスタコーヴィチが最高の演奏を成功させるのに非常な努力をしたこともつけ加えておきましょう。毎度のことながら自分の作品を論ずるのはむずかしいことですが、第15交響曲が聴衆に快く受け入れられれば、もちろんとてもうれしいことです。」

(中略)さて初演直後の同じタス通信は、こんどは次のように伝えています。
「ショスタコーヴィチの第15交響曲の今夜のモスクワ初演は大成功であった。満堂に溢れる聴衆は、病後初めて公衆の前に姿をみせた作曲家に、みな立ち上がって15分間ほども嵐のような大喝采をおくった。モスクワ音楽界を代表する人物はみな音楽院大ホールに集まっていた。リヒテル、バルシャイ、フレンニコフ、コンドラシン、ヴィシネフスカヤ、コズロフスキー、そのほか著名な音楽家、批評家の顔が勢ぞろいしていた。終演後に一同はショスタコーヴィチの作曲に祝意を述べ、一般的な意見では、彼の最上の作品のひとつであるということになった。(後略)」

(この項は通信のみを手がかりに書いたものですので、あるいは報道の誤りや筆者の誤解があるかもしれません。もしそのようなことがありましたらお許しください。)
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。。。モスクワでの世界初演のたった4ヵ月後に、しかも同じオーケストラで日本初演に接することができた聴衆の方々がうらやましいです。日本初演の条件が世界初演とほぼ一緒。予備知識のないお客さんは第1楽章のウィリアム・テルにはさぞビックリ「できた」ことでしょうね。作曲者自身が来てくれたらもっとよかったんでしょうけど。。


(公演日程について)
このツアーでは、ロジェストヴェンスキーは若きネーメ・ヤルヴィを同行させました。



ショスタコーヴィチ初演の他には、ベートーヴェンの第7交響曲、ベルリオーズの幻想交響曲、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、チャイコフスキーの三大バレエ抜粋、第5交響曲、悲愴、ピアノ協奏曲第1番(ピアノはヴィクトリア・ポストニコワ、ラフマニノフも)、プロコフィエフの第5交響曲、ショスタコーヴィチの第5交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番、そして諸井誠のヴァイオリンとオーケストラのための協奏組曲(黒沼ユリ子)が演奏されていますが、どの日にどちらの指揮者が指揮したのかはプログラムからはわかりませんでした。ショスタコーヴィチ15番はどちらもロジェストヴェンスキーだと当然思っていますが、本当にそうですよね?(調査します)

(画像はすべてプログラムより)


藤原歌劇団・1950年の顔ぶれ

2014-10-12 00:16:10 | 日本の音楽家

週刊朝日昭和25年(1950年)12月3日号に藤原歌劇団の写真が掲載されていました。

撮影場所は東京・赤坂の藤原歌劇研究所。

 

写真左から

藤井典明(バリトン、1915-1994)
川崎静子(アルト、1919-1982)
永田絃次郎(テノール、1909-1985)
藤原義江(テノール、1898-1976)
砂原美智子(ソプラノ、1923-1987)
木下保(テノール、1903-1982)
斎田愛子(コントラルト、1910-1954)
松内和子(メゾ・ソプラノ)
宮本良平(バリトン、1916-1987)
丸山清子(アルト、1930-)← ジャズで有名な方ですか?
日比野秀吉(バリトン、1903-1989)
大谷洌子(ソプラノ、1919-2012)
下八川圭祐(バス、1900-1980)
城須美子(ソプラノ、1922-1983)
田中園子(ピアノ、1919-2007)

 

記事によると「もともと日本人は、浅草の金龍館オペラ時代から、オペラには郷愁に似た愛着を持っていたようだが、それにしてもまともなオペラを大衆に知らしめた藤原歌劇団の功績は何といっても大きい。」

 

オールスター・メンバーですよね。これだけの面々をまとめることができた藤原義江さんってやっぱり素晴らしい人格の持ち主だったんでしょうね!


クイズ「私はだれでしょう?」音楽家の美少女時代(1949)

2014-10-08 21:32:17 | クイズ

 音楽之友昭和24年6月号に「私はだれでしょう」という写真クイズが載っていました。

いまから65年前、1949年頃にご活躍の女性音楽家の、さらに昔の美少女時代だから難易度高い?

考えてみてください。(正解は一番下です)

 

1.

 

2.

 

3.

 

4.

 

5.

 

6.

 

 

 

 

(正解)

1. 砂原美智子(1923-1987) ソプラノ歌手。

2. 斎田愛子(さいだ あいこ、1910-1954) アルト歌手。

3. 諏訪根自子(すわ ねじこ、1920-2012) ヴァイオリニスト。

4. 巌本真理(1926-1979) ヴァイオリニスト。

5. 大谷洌子(おおたに きよこ、1919-2012) ソプラノ歌手。

6. 辻久子(1926生まれ) ヴァイオリニスト。

 

。。。何人、正解できましたか?ちなみに自分は3人も正解してしまいました。昔の時代に生きすぎててマズい!?(黙れ自慢野郎)


ミラノで歌手・松平里子の看病をした原信子(1931年)

2014-10-04 17:10:38 | 日本の音楽家

以前、このくさったブログの「銀座・山野楽器初代社長への野村光一氏の感謝」にも書いたんですが、山野楽器創設者のもとに集まった若者たちのうちの一人に松平里子さん(1896-1931)という歌手がいらっしゃいました。この方についてはミラノで35歳の若さで亡くなったということだけはWikipediaに載っていましたが、あまり詳しいことはわかりませんでした。

けれども、「婦人之友」昭和9年3月号に高名な声楽家・原信子さん(1893-1979)による「ミラノでわかれた松平里子さん」という文章が掲載されていました。1928年から1933年まで、日本人で初めてミラノ・スカラ座に所属されていたという原さんが松平さんの最期の看病を献身的にされていたんですね。

原信子(左)と松平里子

 

以下、その文章です。
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  松平里子さんには、東京で時々お目にかかったことはございましたが、私がほんとのお友達になったのは、一昨々年、ミラノへ、鈴木信子先生の紹介状をお持ちになって訪ねていらっしゃってからでした。

  里子さんはほんとによく勉強なさいました。里子さんの歌には美しさと「しん」とそして力がありました。八月十五日私は里子さんがアイーダをほんとによくお歌いになったのを聴いてから、スイスへ旅行に参りました。帰ってすぐお電話しますと、病院で待っているから是非会いに来てくれとのことに大変驚きました。早速お訪ね致しますと、里子さんは私に抱きついて、「生かして頂戴、日本に帰して頂戴」とおっしゃいました。その時の私には何故里子さんがそんなにおっしゃるのか分かりませんでした。何故といって、大変大きな力が里子さんの腕にはありましたから。でも私は「あなたが癒るまで看病しましょう」と申しますと心から喜んで下さいました。それから私は歌に出る約束をすっかり取り消して、とにかく里子さんの亡くなられるまで、夜も昼も出来るだけのことをして、日本にいらっしゃる里子さんの多くのお友達の代りとして看病致しました。

  付添いの看護婦が「あの方はいい声ですね」と申しますので、「まあ里子さん唱ったの」とききますと「毎晩歌ばかり唱っていらっしゃいます」といいました。里子さんは此の世と離れる最後まで唱っていらっしゃったのです。歌は毎晩グノーのアヴェ・マリアでした。

 外国に行って日本の何が懐しいといって食べ物ほど懐しいものはありません。殊に病気などになりますと一層その感じは深うございます。ですから私は里子さんが欲しいとおっしゃいますものは、夜中でも台所に飛んで行って、出来るだけのことをして作って差し上げました。塩を一寸も使ってはならない御病気だものですからほんとに苦心致しました。でもせっかく差し上げても、僅か半口か一口位しか召し上らず、もうスヤスヤと眠っておしまいになります。八月スイスへ行きます前に里子さんと私と二人、土用の鰻が食べたくて食べたくて大騒ぎして伊太利の鰻を蒲焼にしていただいたことなど思い出されて悲しうございました。

 いよいよおなくなりになる三日前、御主人が側で手紙を書いておいでになりますと、里子さんは「どうしてそんなに暗い所で書いているの」とおっしゃいました。三時頃で一寸も暗くはないのです。その時からもう里子さんのお目は見えなくなったのです。翌日はもう全く口をおききになることが出来なくなりました。それまでは日本に帰りたい帰りたいといい続けておいでになりましたが。

 いよいよ最後の日【註:1931年9月22日】、ミラノでは宗教上色々めんどうなことがあってカトリックの坊さんが呼べませんでしたので、私が代りに里子さんのお側に行って、里子さんがどうか世の中をお忘れになって、安らかにお眠りになれますよう、可愛らしいお嬢様のお側へいらっしゃれますようにと一生懸命に申しますと、里子さんは非常にお泣きになりました。それから皆様をお呼びしてお別れをしていただきました。一人一人に笑顔で握手なさいました。それから六時頃とてもお泣きになりますので、旦那様が「早く直って、一緒に日本に帰ろう」とおっしゃいますと、又声をあげてお泣きになりました。そして七時にはもう心臓の鼓動が止まってやすらかにお亡くなりになってしまいました。

 それからきれいにお化粧して差し上げ、よく音楽会に召した青い着物に紫地に銀の筋の入った帯をしめて、お家の習慣で麻のかたびらをお着せするので、日本のような麻はありませんでしたがそれも私の手で縫って差し上げてお着せしました。そしてまわりを淡紅(とき)色のカーネーションで飾りましたらとてもとてもきれいな里子さんにおなりになりました。

 里子さんの死は決して淋しいものではありませんでした。里子さんにしても好きなミラノへ好きな勉強に来て倒れるのは、喜ばしいことでこそあれ、決して惨めなものではありませんでした。


ミラノの家のバルコニーにて
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。。。松平里子さんが日本に帰りたがっていたのに希望が叶わなかったのは可哀想でしたが、原さんが書かれているとおり、本場ミラノで亡くなったというのは歌手としては本望だったのでは!?そしてそのミラノで原さんという友人ができてよかったですね。