◆終戦直後の東京中央電信局
廃墟となった東京で灯火管制がとかれたのは昭和20年(1945)8月20日だった。
戦火により電信電話事業がうけた被害は驚くべきものがあった。当局の電信回線をみてもその過半数が不通となっていた。昭和20年12月現在の記録では、稼働回線は382回線で、戦時中最高であった昭和16年末962回線の40パーセントにとどまっていた。電報通数も前年の半分に減少していた。
しかしながら一条の光明をあたえたものは局舎の健在であった。かつての白亜の殿堂は、爆撃から守るため外ぼうは変わっていたが、東京の焼野原にくっきりと建っていた。局舎が戦災を免れたことは、ひとり当局ばかりでなく、電信事業のために幸運であった。
再建の第1歩は、連合軍の要請に基づく通信の確保にはじまった。20年8月23日、連合軍の日本進駐に伴う東京―厚木線の新設をはじめとして、以後つぎつぎと連合軍司令部の指令をうけて、関係回線が設置されていった。一方、8月22日、戦時特例(電報取扱制限)の一部解除。10月20日対米無線の開始,12月11日戦時特例の全面解除と、業務は徐々に平治の体制に切り替えられていった。
しかしながら、戦争中の物資不足と酷使により、回線や機器の故障が続出した。加えて要員事情の悪化により、業務の運行は混乱をましていった。敗戦がもたらした精神的空白と、社会的混乱や経済的窮迫がこれに拍車を加え、憂慮すべき事態を迎えた。
こうした事態を改善するため、20年12月4日「東京中央電信局再建協議会」を設置したが、予期した成果が得られず、混迷が続いた。
21年6月8日「業務運行難救済に関する件」として、職員に協力をうながす通達が出されたが、当時の事情をよく知ることができる。
神田駅から当局への道筋には、焼跡に屋台がたち並び、雑炊やむし芋、焼魚などを売っていたが、当局の職員は通勤の行き帰りにこれを食べてうえをしのいだ。
21年2月17日にはすべての預金や貯金は封鎖され、手持ちの現金は1人100円にかぎって新円に替えられた。インフレは昂進し、21年5月、飢える帝都に食料メーデーの列が続いた。
この5月から11月までの間、10日に1日の割合で時別休暇が付与されたが、之は職員の保健と疲労回復、食料増産とその確保が目的とはいいながら、職員にとっては買い出し休暇として利用されていた。
終戦直後の20年8月21日、米軍の進駐に伴って女子職員の身辺の安全を図るため、臨時措置として特別休暇を与え、郷里にそ開させた。この時の人員は190名にのぼったが、この臨時措置は9月21日に解除された。この間、通勤事情のひっ迫と夜間通行の危険から、男子の夜勤勤務さえ、一時中止したのであった。
東京に連合軍が進駐し、マッカ―サーの連合軍総司令部が第一生命ビル(当初は放送会館内)に設けられ、電信電話事業は連合軍総司令部民間通信部の管理下におかれた。20年8月26日、当局警備のためアメリカ軍警備隊員が派遣されてきた。憲兵隊員将校以下40名にのぼる警備隊は、9月11日にひきあげた。
そして3日後の9月14日、進駐軍による事故の防止と局舎取締りのため進駐軍憲兵2名が再度派遣され、9月17には電報検閲のため連合軍の少佐と中尉(2名)の3名が派遣された。さらに10月16日、連合軍駐在官室が設けられ、初代駐在官の少佐が着任した。当局5階の外信課休憩室、経理部室、国際計算室などが相次いで接収され、進駐軍が常駐した。表門には進駐軍兵士が立哨し、常時数名の将兵が5階の数室に陣取っていた。彼らはここで通信の管理と電報の検閲を行なったのである。このため18年につくられた検閲課を廃止して、20年12月20日から検閲連絡部がつくられた。
戦勝国兵士の肩で風を切る横へいさにことばの違いが加わって、しばしばトラブルがおき、職員を悩ました。
(付記)東京中電の駐留軍兵士は何時頃撤退したのか、東京中電沿革史には記録がない。
本ブログ「世紀の遺物」の寄稿(昨年(2016)年4月、椎名敬一氏)によれば、昭和25年2月、「私が東京電気通信学園卒業後に行った東京中央電報局の入り口には、MP(米軍の憲兵)が立っていたのを覚えています。」とある。
昭和26年9月に「サンフランシスコ条約」が調印され、翌年27年4月発効して日本は全権を回復したのですから、東京中電の進駐軍の常駐もこの時期に終わったのでしょう。
東京中電沿革史の巻末に添付の年表をみても「社会一般」欄の27.4.28に「太平洋戦争終結宣言、講和・安全保障両条約発効、GHQ廃止」との記録があるのみです。沿革史編者にとっては、この時期が常駐の終わりとしては当然すぎることで、「当局のうごき」にさえ、あえて記録を残すまでもないと考えたのでしょうか。本件、沿革史編集委員長の赤羽弘道様はご高齢ですがまだお元気ですので、ご機嫌伺い方々お尋ねしたい気持ちもありますが、平穏な生活を妨げることになっては申し訳ないので、そのうち機会を待ってお教を乞いたいと思います。(増田)
◆出典
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
廃墟となった東京で灯火管制がとかれたのは昭和20年(1945)8月20日だった。
戦火により電信電話事業がうけた被害は驚くべきものがあった。当局の電信回線をみてもその過半数が不通となっていた。昭和20年12月現在の記録では、稼働回線は382回線で、戦時中最高であった昭和16年末962回線の40パーセントにとどまっていた。電報通数も前年の半分に減少していた。
しかしながら一条の光明をあたえたものは局舎の健在であった。かつての白亜の殿堂は、爆撃から守るため外ぼうは変わっていたが、東京の焼野原にくっきりと建っていた。局舎が戦災を免れたことは、ひとり当局ばかりでなく、電信事業のために幸運であった。
再建の第1歩は、連合軍の要請に基づく通信の確保にはじまった。20年8月23日、連合軍の日本進駐に伴う東京―厚木線の新設をはじめとして、以後つぎつぎと連合軍司令部の指令をうけて、関係回線が設置されていった。一方、8月22日、戦時特例(電報取扱制限)の一部解除。10月20日対米無線の開始,12月11日戦時特例の全面解除と、業務は徐々に平治の体制に切り替えられていった。
しかしながら、戦争中の物資不足と酷使により、回線や機器の故障が続出した。加えて要員事情の悪化により、業務の運行は混乱をましていった。敗戦がもたらした精神的空白と、社会的混乱や経済的窮迫がこれに拍車を加え、憂慮すべき事態を迎えた。
こうした事態を改善するため、20年12月4日「東京中央電信局再建協議会」を設置したが、予期した成果が得られず、混迷が続いた。
21年6月8日「業務運行難救済に関する件」として、職員に協力をうながす通達が出されたが、当時の事情をよく知ることができる。
業務運行に関する件
当時の食料事情は、まったくのドン底であった。昭和20年の米作は、明治38年以来の凶作といわれ、主食の配給は全国的に20日から1か月も遅配した。しかもその配給量は、米、代用食、副食物をあわせて1日1,500カロリー程度にすぎなかった。小麦粉、イモ、大豆、コーリャン、トウモロコシその他食べられるものは、ありとあらゆるものが代用食として食用に供された。終戦以来電報の取扱は漸時増加してきましたが、之に反し、通信の第一線に立つ実働人員は最近の食料事情の為、急激に減少し、回線障碍、通信機器の故障などと相俟って、電報遅延停滞は一層甚しく、1日遅れの疎通をも余儀なくされている現状であります。敗戦の中から立ち上がろうとするためには、之をこのまま放置する訳には参りません。国際信用の獲得と平和産業の復興とは、先ず電信の向上から始まります。すくなくとも、このとげとげしい時代に、今日の電報が必ず今日のうちに受信人に届くやうになっただけでも、お互いの気持ちをどんなにか明くすることでせう。この意味に於て諸君の事情と都合が差支へない様な場合に、左記に依って休養の一部を割き、業務運行難打開のため尽力下さるならば、その篤志に対し大いに感謝するところであります。食料難逼迫の.折柄、この挙に出ずることは真に忍び難いものがあるのでありますが、率直に衷情を披瀝して、諸君の熱情に訴へる次第であります。
記
1実施期間 6月1日から8月31日まで
2実施範囲 局員一般を対象としますが、特に身体が健康で休暇があっても強いて休まなくてもよい方や、食料事情が比較的穏やかな方々の奮起を望みます。
3実施方法
(1)あくまで諸君の自発的協力に俟つものであるから諸君の体力に応じて廃休又は服務延伸をするものなること。
(2)廃休当日は次の服務をすること。
日勤 午前8時から午後2時まで(6時間)
夜勤 午後4時から午後9時まで(5時間)
(3)服務延伸は1時間以上3時間以内で居残り又は早出をすること。
(4)廃休も服務延伸も出来るだけ日曜日、祭日を避けること。
(5)通信課以外の勤務者にして廃休又は服務延伸の場合は所属部の事務は支障なき限り、なるべく通信の応援をすること。
(6)各部課に於ては予め部員の意向を聴き、日夜勤別の廃休及び服務延伸予定表を作成して配員の極端な凸凹を防ぐこと。
4服 務 貴重な休養時間を働いていただく苦労に対し左に依る報労金を贈呈致します。
廃休1日 10円
服務延伸 1時間1円50銭
2時間3円
3時間5円
記
1実施期間 6月1日から8月31日まで
2実施範囲 局員一般を対象としますが、特に身体が健康で休暇があっても強いて休まなくてもよい方や、食料事情が比較的穏やかな方々の奮起を望みます。
3実施方法
(1)あくまで諸君の自発的協力に俟つものであるから諸君の体力に応じて廃休又は服務延伸をするものなること。
(2)廃休当日は次の服務をすること。
日勤 午前8時から午後2時まで(6時間)
夜勤 午後4時から午後9時まで(5時間)
(3)服務延伸は1時間以上3時間以内で居残り又は早出をすること。
(4)廃休も服務延伸も出来るだけ日曜日、祭日を避けること。
(5)通信課以外の勤務者にして廃休又は服務延伸の場合は所属部の事務は支障なき限り、なるべく通信の応援をすること。
(6)各部課に於ては予め部員の意向を聴き、日夜勤別の廃休及び服務延伸予定表を作成して配員の極端な凸凹を防ぐこと。
4服 務 貴重な休養時間を働いていただく苦労に対し左に依る報労金を贈呈致します。
廃休1日 10円
服務延伸 1時間1円50銭
2時間3円
3時間5円
神田駅から当局への道筋には、焼跡に屋台がたち並び、雑炊やむし芋、焼魚などを売っていたが、当局の職員は通勤の行き帰りにこれを食べてうえをしのいだ。
21年2月17日にはすべての預金や貯金は封鎖され、手持ちの現金は1人100円にかぎって新円に替えられた。インフレは昂進し、21年5月、飢える帝都に食料メーデーの列が続いた。
この5月から11月までの間、10日に1日の割合で時別休暇が付与されたが、之は職員の保健と疲労回復、食料増産とその確保が目的とはいいながら、職員にとっては買い出し休暇として利用されていた。
終戦直後の20年8月21日、米軍の進駐に伴って女子職員の身辺の安全を図るため、臨時措置として特別休暇を与え、郷里にそ開させた。この時の人員は190名にのぼったが、この臨時措置は9月21日に解除された。この間、通勤事情のひっ迫と夜間通行の危険から、男子の夜勤勤務さえ、一時中止したのであった。
東京に連合軍が進駐し、マッカ―サーの連合軍総司令部が第一生命ビル(当初は放送会館内)に設けられ、電信電話事業は連合軍総司令部民間通信部の管理下におかれた。20年8月26日、当局警備のためアメリカ軍警備隊員が派遣されてきた。憲兵隊員将校以下40名にのぼる警備隊は、9月11日にひきあげた。
そして3日後の9月14日、進駐軍による事故の防止と局舎取締りのため進駐軍憲兵2名が再度派遣され、9月17には電報検閲のため連合軍の少佐と中尉(2名)の3名が派遣された。さらに10月16日、連合軍駐在官室が設けられ、初代駐在官の少佐が着任した。当局5階の外信課休憩室、経理部室、国際計算室などが相次いで接収され、進駐軍が常駐した。表門には進駐軍兵士が立哨し、常時数名の将兵が5階の数室に陣取っていた。彼らはここで通信の管理と電報の検閲を行なったのである。このため18年につくられた検閲課を廃止して、20年12月20日から検閲連絡部がつくられた。
戦勝国兵士の肩で風を切る横へいさにことばの違いが加わって、しばしばトラブルがおき、職員を悩ました。
(付記)東京中電の駐留軍兵士は何時頃撤退したのか、東京中電沿革史には記録がない。
本ブログ「世紀の遺物」の寄稿(昨年(2016)年4月、椎名敬一氏)によれば、昭和25年2月、「私が東京電気通信学園卒業後に行った東京中央電報局の入り口には、MP(米軍の憲兵)が立っていたのを覚えています。」とある。
昭和26年9月に「サンフランシスコ条約」が調印され、翌年27年4月発効して日本は全権を回復したのですから、東京中電の進駐軍の常駐もこの時期に終わったのでしょう。
東京中電沿革史の巻末に添付の年表をみても「社会一般」欄の27.4.28に「太平洋戦争終結宣言、講和・安全保障両条約発効、GHQ廃止」との記録があるのみです。沿革史編者にとっては、この時期が常駐の終わりとしては当然すぎることで、「当局のうごき」にさえ、あえて記録を残すまでもないと考えたのでしょうか。本件、沿革史編集委員長の赤羽弘道様はご高齢ですがまだお元気ですので、ご機嫌伺い方々お尋ねしたい気持ちもありますが、平穏な生活を妨げることになっては申し訳ないので、そのうち機会を待ってお教を乞いたいと思います。(増田)
◆出典
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
お元気そう。また、お逢いしたいものです