モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

沖縄の電信~明治から太平洋戦争まで

2017年06月21日 | モールス通信
◆沖縄の電信~明治から太平洋戦争まで

沖縄県の電信は、前回ご紹介したように1896年(明治29)10月、本土の電信開始から27年目にしてようやく実現した。

海底線敷設によって、はじめて直接県外通信が可能となり、やがて島内通信整備が始められるようになった。大正末期までには、次の主要町村に電信線が延びた(開設順)。
名護、糸満、読谷山、羽地、本部、恩納、今帰仁、宜野湾、金武、西原。

海外連絡としては、南洋群島と日本内地との連絡は海軍無線があるのみで、民間電報利用者に不便を与える実情にあった。その打開策のため1905年(明治38)ドイツが開設したヤップー上海間海底線を沖縄沖合で接合し、ヤップー那覇線を1916(大正5)構成したのであった。南洋諸島での電報の取扱いの約半分が沖縄関係のものであり、この回線は沖縄県人にとって貴重なものであった。

このように沖縄の電信事業は有線通信で運用されたが、海底ケーブルが潮流等により多くの損傷をこうむり、通信途絶が相ついで発生したため、政府はこの現状を解消しようとして無線通信にかえる計画を進めた。とくに沖縄のように数多くの島しょからなりたっているところでは、その早期実現が待望されたが、無線技術の遅れからその実現は容易ではなかった。本土における無線電報送受は、1908年(明治41)5月、銚子局(日本最初の海岸無線局)と日本郵船丹後丸間で初めて行われた。その数年後の1915年(大正4)には早くもラサ島で無線電信業務を開始し、つづいて大東島および那覇で業務がはじめられており、無線業務は早いスピードで導入されるようになった。

これにさきだち逓信省では、1897年(明治30)無線電信の実験に成功し、海軍では19027年(明治34)ごろから使用され、日本海海戦においては信濃丸からの「敵艦見ゆ」の情報伝達を可能にし、勝利の大きく貢献したことはよく知られているとおりである。

さらに1927年(昭和2)無線電信は海岸局業務にとどまらず、那覇無線局から鹿児島局を経て本土主要都市の東京、大阪、札幌、金沢、広島と運用されることになった。その後同局で扱う電報が急増したため、送受信所を分離し、二重通信方式が採用されるようになった。

やがて島しょ間連絡も無線電信施設を開設し、1931年(昭和6)6月16日の那覇ー久米島を最初に那覇―石垣ー与那国が開通し、他の離島も無線電信が開通するようになった。

また1930年〈昭和5)から1935年(昭和10)にかけて気象無線業務と航空無線業務が開始されるに至った。これは、沖縄が地理的条件に恵まれていたため、国策として設置されたものである。したがって南方諸地域で発生する台風の早期発見は、災害から国を守り、内台航空路の開設にともなう航空路の中継基地として、またその安全を確保するため通信事業の一環として重要な役割を担うものであった。こうして沖縄の電信事業は整備された。

1941年(昭和16)12月8日、日本は米英に対して宣戦布告した。沖縄57万県民は好むと好まざるにかかわらず太平洋戦争に巻きこまれ、幾万の生命と膨大な財産を犠牲にしてしまったのである。電信電話においても、400有余の逓友が祖国の勝利を信じつつ、職場でそして戦場で散華したのである。

この大戦によって創業以来守り育てた電信電話は完全に破壊され、残るものは焼けあとの局舎の残骸のみとなった。

◆出典 沖縄の電信電話事業史 1969年11月30日※
 (編者兼発行人 琉球電信電話公社)
  ※沖縄の本土復帰は本書出版の2年余の後、1972年(昭和47年)5月15日である。


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