◆永田 昭夫
私が逓信省の雇員となったのは、東京中央電信局に採用された昭和21年6月7日でした。
前年、志願して入学した陸軍少年飛行兵学校の生活は、敗戦により11カ月の訓練で終わってしまい、8月25日に世田谷のわが家に帰りました。今後の身の振り方を考えていたとき志願前まで働いていた工場の社長からその知人の経営する工場を紹介され、旋盤工見習いとして働くことになった。
しかし、その仕事を将来とも続けていけるのか悩んでいたとき、新聞広告で、要員不足の東京中電がモールス通信士養成の募集をしているのを知った。飛行兵学校時代にモールス通信の授業を受けたこともあり、これに応募した。戦後の就職難の時代でもあって10数倍の競争率だったと記憶しているが、何とか合格した。訓練場所は、東京中央電信局内の養成課で、訓練期間は6ヵ月だった。
訓練はモールス音響通信技術のほか通信に必要な規則や電気関係の授業などもあって、いろいろ学ぶうちに普通中学の教育を受けたくなった。友人のI君と相談し、通勤にも通学にも比較的便利な都立第八中学校夜間部へ編入を申し込んだ。幸い入学を許可され、私は2年遅れ、I君は1年遅れで共に3年生となった。それからは、養成訓練の時間が終わると中学校の夜間部へ通う毎日となった。当時は食料事情も悪く小遣いも乏しく、空腹を抱えての通勤、通学だった。
養成訓練は12月に修了し、そのまま東京中電の第1内信課第2部に配属された。半人前だが通称トンツー屋として出発することになった。I君は別の部署だったが毎日一緒に通学した。当時の電報事業は、24時間サービスを行なうための勤務体制だった。このため常日勤、宿直輪番、常夜勤という勤務形態があり業務量に適応するよう人員配置がされていて、希望すれば勤務を常夜勤に変更することも認められた。それで学校は、夜間部から昼間部への編入を出願した。昭和23年は新しい教育制度が実施された年で、第八中学校は新制の都立小山台高校となり、私たちはその2年生に編入学した。I君はこの時、中央電信局を退職し、学業に専念することになった。
高校の授業は、3時前に終了したので4時からの夜の勤務には十分間に合った。昼間学校、夜は仕事という生活が始まった。電報は夜9時頃ともなるとかなり少なくなって発信も受信もなければ待機するだけだった。その間そっと英単語カードなどを見て暗記をしたものだったが、上司も先輩も黙認してくれた。T先輩などは、私の担当回線から呼び出し符号が鳴り出すと、「俺が応答するよ」と言って受信してくれたりした。有難いことだった。
高校3年になって大学にも進学したい気持ちが強くなった。でき得るならば将来は司法関係の仕事に就きたいと東大、中央大学を受験した。東大は1次はパスしたが2次は不合格、中央に入学した。通学通勤は続いた。
そして昭和28年、大学4年生のときに企業内訓練制度が新しく発足、それに応募して合格した。訓練はその年の9月から始まったが、大学の単位はそれまでにほとんど消化していたので、休暇を活用して翌年3月、大学を卒業できた。終戦直後の混乱期の中で、通信士として夜間勤務を続けながら健康も害さずに昼間の高校、大学に進学、さらに2年間の企業内訓練を受けたことによって、自分自身のそれからの生き方が固まったと思う。
その後、電電公社の関東電気通信局管内では、職員部、千葉、横浜、埼玉でそれぞれの職務を上司、先輩、同僚に助けられながら無事に永年勤められた幸福を今あらためて感じているところです。
◆寄稿者紹介
・永田 昭夫 千葉県
東京中央電信局・養成課を昭21年12月、有線通信士として所定の課程(6か月)修了
昭4年(1929)生れ
・出典 関東電友会・関東中支部「会員の皆さんからのおたより」24号(平28、11発行)
寄稿者の永田様と出典編集者には、ブログ掲載を承諾いただき有難うございました。
なお、電話口の永田様は現役時代と少しも変わりない快活なお声で、東京中電局がモールス訓練を自局で実施した終戦直後の事情などを教えてくれました。 益々のご健勝をお祈りします。(増田)
私が逓信省の雇員となったのは、東京中央電信局に採用された昭和21年6月7日でした。
前年、志願して入学した陸軍少年飛行兵学校の生活は、敗戦により11カ月の訓練で終わってしまい、8月25日に世田谷のわが家に帰りました。今後の身の振り方を考えていたとき志願前まで働いていた工場の社長からその知人の経営する工場を紹介され、旋盤工見習いとして働くことになった。
しかし、その仕事を将来とも続けていけるのか悩んでいたとき、新聞広告で、要員不足の東京中電がモールス通信士養成の募集をしているのを知った。飛行兵学校時代にモールス通信の授業を受けたこともあり、これに応募した。戦後の就職難の時代でもあって10数倍の競争率だったと記憶しているが、何とか合格した。訓練場所は、東京中央電信局内の養成課で、訓練期間は6ヵ月だった。
訓練はモールス音響通信技術のほか通信に必要な規則や電気関係の授業などもあって、いろいろ学ぶうちに普通中学の教育を受けたくなった。友人のI君と相談し、通勤にも通学にも比較的便利な都立第八中学校夜間部へ編入を申し込んだ。幸い入学を許可され、私は2年遅れ、I君は1年遅れで共に3年生となった。それからは、養成訓練の時間が終わると中学校の夜間部へ通う毎日となった。当時は食料事情も悪く小遣いも乏しく、空腹を抱えての通勤、通学だった。
養成訓練は12月に修了し、そのまま東京中電の第1内信課第2部に配属された。半人前だが通称トンツー屋として出発することになった。I君は別の部署だったが毎日一緒に通学した。当時の電報事業は、24時間サービスを行なうための勤務体制だった。このため常日勤、宿直輪番、常夜勤という勤務形態があり業務量に適応するよう人員配置がされていて、希望すれば勤務を常夜勤に変更することも認められた。それで学校は、夜間部から昼間部への編入を出願した。昭和23年は新しい教育制度が実施された年で、第八中学校は新制の都立小山台高校となり、私たちはその2年生に編入学した。I君はこの時、中央電信局を退職し、学業に専念することになった。
高校の授業は、3時前に終了したので4時からの夜の勤務には十分間に合った。昼間学校、夜は仕事という生活が始まった。電報は夜9時頃ともなるとかなり少なくなって発信も受信もなければ待機するだけだった。その間そっと英単語カードなどを見て暗記をしたものだったが、上司も先輩も黙認してくれた。T先輩などは、私の担当回線から呼び出し符号が鳴り出すと、「俺が応答するよ」と言って受信してくれたりした。有難いことだった。
高校3年になって大学にも進学したい気持ちが強くなった。でき得るならば将来は司法関係の仕事に就きたいと東大、中央大学を受験した。東大は1次はパスしたが2次は不合格、中央に入学した。通学通勤は続いた。
そして昭和28年、大学4年生のときに企業内訓練制度が新しく発足、それに応募して合格した。訓練はその年の9月から始まったが、大学の単位はそれまでにほとんど消化していたので、休暇を活用して翌年3月、大学を卒業できた。終戦直後の混乱期の中で、通信士として夜間勤務を続けながら健康も害さずに昼間の高校、大学に進学、さらに2年間の企業内訓練を受けたことによって、自分自身のそれからの生き方が固まったと思う。
その後、電電公社の関東電気通信局管内では、職員部、千葉、横浜、埼玉でそれぞれの職務を上司、先輩、同僚に助けられながら無事に永年勤められた幸福を今あらためて感じているところです。
◆寄稿者紹介
・永田 昭夫 千葉県
東京中央電信局・養成課を昭21年12月、有線通信士として所定の課程(6か月)修了
昭4年(1929)生れ
・出典 関東電友会・関東中支部「会員の皆さんからのおたより」24号(平28、11発行)
寄稿者の永田様と出典編集者には、ブログ掲載を承諾いただき有難うございました。
なお、電話口の永田様は現役時代と少しも変わりない快活なお声で、東京中電局がモールス訓練を自局で実施した終戦直後の事情などを教えてくれました。 益々のご健勝をお祈りします。(増田)
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