モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

長崎無線局~最盛期の日々(その1)

2018年11月02日 | 寄稿・モールス無線通信
長崎無線局最盛期の通信室風景

<はじめに>

「長崎無線91年のあゆみ」によれば、概略次のような経過をたどった海上公衆通信と船舶の安全を守った海岸局・長崎無線局の歴史が詳細に綴られている。

すでにご紹介した(本ブログ2018/2/20日、2/24日)ように、長崎無線局の前身は、銚子無線局の開局から1カ月半後の明治41年(1908)7月1日に開局した五島列島の大瀬崎無線電信局(JOS)である。この大瀬崎無線局は、通信需要の増加に対応するため、昭和7年に長崎県諫早市に移転し、新設された長崎無線局に引き継がれた。

新設の長崎無線局は、その後大正、昭和へと発展していったが、太平洋戦争勃発とともに戦争遂行目的が第一となり、公衆電報は大幅に制限され、通信量は激減した。戦後になり、やっと海難救助など海の安全を守る無線通信本来の使命を果たすようになると共に、戦後の復興にともない急激に増加した通信需要に対応して発展を続けた。

しかしながら、海岸局の無線電報は、無線電話の台頭、印刷電信方式の普及、国際無線電報の増加により徐々に減少を続けた。昭和の終わり頃には通信手段は衛星通信が主流となり、人工衛星による「遭難安全システム(GMDSS)が平成11年2月1日から全世界一斉に実施されることになった。これを期に、幾多の遭難通信などドラマを刻んだモールス通信はその使命を終え、わが国海岸局の主役だった銚子無線局は平成8年に廃止された。その3年後の平成11年1月末、わが国最後の海岸局であった長崎無線局も閉局することになった。

長崎無線の業務を顧りみると、年間電報取扱数は、諫早に移転から10数年後の昭和14、15年度には20万通まで伸びたものの、大戦中は激減した。戦後になり国の復興と共に急激に増え昭和46度には90万通を記録した(通数は、いずれも概数)。

職員数は、五島列島に開局当時は総人数3名(うち局長と通信士が通信担当、他は用務員)でスタートとし、大正15年には8名と記録されている。大戦前にはもう少し多かったと思われるが、終戦の20年には17名※だった。それが、通信課要員数だけでも昭年32年40名(うち無線通信士34)、34年56名(うち無線通信士56)、41年には109人(通信全員)と大幅に増えていった。昭和33年に中央学園訓練が始まり、毎年10名前後の若者が全国各地から続々と長崎無線局に馳せ参じた。つい10年ほど前には要員不足で、遭難周波数のワッチにさえ事欠いたとは思えないほどだった。
 ※本ブログ「わが心のふるさとJOS」(2018・1・11日、村上健太郎氏)による。

船舶の増加と共に呼び出し周波数も増え、これまで手探りで呼び出しをキャッチする受信機から自動的にスイープする受信機に切り替えられた(昭和34年10月)。バリコン(可変型コンデンサー)をモーター回転にあわせて受信周波数を変える新技術である。これにより受信機のつまみを回しながら前屈みになった姿勢から解放された。

以下は、「長崎無線91年のあゆみ」に描写されている長崎無線局の最盛期、昭和40年代の通信課の風景です。

【無線通信の風景】

1.呼出波は大混信

朝すがすがしい気持ちで前任者と交替し座席に着く。レシーバーをかぶってCQ(海岸局からの船舶局への一括呼出符号)を発射すると、受信機の呼び出し波用針が滑りだしスイープが始まる。朝は特にコールが多い。ほぼ120度位の受信範囲を針がスイープするとノイズと共に船が様々な音色、強弱・高低の信号で「JOS、JOS」(JOS=長崎無線局の識別符号<コールサイン>)が聞えてくる。
ソプラノであれバスであれ混信のない場合は幸運であって、2部や3部合唱、時にはダンゴダンゴになって、もつれる糸をほぐすように一つ一つ聞き分けなければならない。
                     
片手で呼び出し周波数の受信つまみやBFOツマミ(BFO=電信(モールス符号〉を音に変換する装置)を微妙にずらしながら音色の変化、音量の変化を探りつつ応答する。強い信号の陰で呼び続ける船舶への応答は、満月に霞む星を見つけるようなものだ。忙しい時間帯の連絡設定はこのような職人技の連続である。

海岸局通信士の耳は仕事を通じた訓練で、複数の音を同時に聞き分ける特殊なフィルター機能が育つようになる。

2.ハイッ、並んで、並んで QRY

このように混み合う時は船の方ものんびりしてはいない。一つ連絡設定が済むと、ソレッとばかり一斉に飛びかかって呼び立てる。熊蝉や油蝉の大合唱など比べものにならない。

こうしてQRY1、QRY2(QRYは通信順序を示す符号)と通信順序を決めながら呼び出し船を整理する。昭和40年代はこの順序通信が5隻や6隻は当たり前で、午後2時半の一括呼び出し直後のJOR22MC席はQRY20を超えることもあり、並んだ後ろが見えなくなるほどであった。

通信波に切り替えて電報の送受を済ませ、次の船を呼び出そうとするとQRYに入り損なつた船が強引に割り込んでくることもしばしばある。QRY何番目と最後の番号を知らせて待たせることとなる。こうして最後の船は20分から30分、時には1時間近くも待つことになる。

それでも船からは、CQを聞きながら何分も何十分も呼び続けるより、QRYで順番を待つ方がよいと喜ばれた。

3.当番船制度

この時期を特徴づけるものに社船当番船制度がある。いくら短波通信が地球をカバーするとはいえアフリカや北米東岸、地中海などを航行する船が日本と連絡するには時間帯や通信状況に大きく制約される。

そこで連絡設定が容易な海域を航行中の船が当番船となり社船中継をして電報などの伝達を行う。

当番となる船の通信土は大変であったろうが、海岸局もQRY3くらいで当番船となると、いざ通信となって「以下QSP(電信の無料中継実施の連絡符号)します。JABC、JBCD‥・」と始まり少々あわてることとなる。業務日誌にはQRYの最後にコールサインを追加しなければならないし、電報式紙には発信船舶のコールサイン、中継船のコールサインを書き入れてタイプライターにセットしなければならない。

これをキチンとやらないと何隻もQSPされたとき、どれがどれか分からなくなり新米通信士はアップアップすることになる。

当番船は忙しい。海岸局が少しでもモタつくと、相手の符号は切り口上的になり、尖ってくる。こうして海岸局の我々は鍛えられ一人前となった。

4.社会を覗く無線の窓

無線の職場は、仕事を通して世の中の動きがよく見える所である。その一つにラワン船との通信があげられるであろう。ベニア板は安価な新建材として建築に、また公共事業の工事現場に欠かせないもので、高度成長を陰で支えた功労者である。

スマトラ島のカリマンタン開発はラワン材供給開発ということもできよう。直径が人の高さ以上もあるラワン材を船倉からデッキまで満載してラワン船は活躍した。

当局に中途採用された経験者は、次のように語っていた。  
<ラワンの集積所なんてなーんにも無いんだよ。川口にラワン原木が浮いているだけ。赤い灯も青い灯もない。1本で数百キロから1トンを超えるようなヤツを現地人が器用に潜ったりしてロープを掛ける。それをクレーンで吊り上げて船倉に納めるのだが一つ間違えて途中で落とそうもんなら船がドドドッと身震いするんだ。船なんかもうデコボコだな。積みすぎると舵の効きが悪くなるし船足は落ちる。
四国の一杯船主なんて、1回運んでナンボだから。台湾坊主に怯えながらよく走ったもんさ。
それにあの“駐在員に伝え乞う”の電報には参ったね。>

そう言えば商社からラワン材買い付けの現地駈在宛に船舶局経由の無線電報がよく入っていた。「駐在員に伝え乞う」で始まる長文の電報は猛烈な内容で、送りながら気の毒になるほどのものだった。船に送ろうとすると「本船間もなく入港。後日に願う」と断られることもあった。船の方も受けて余り気持ちのよいものではなかったのだろう。電報でも厳しく叱咤激励される駐在員の事を思う。

5.タンカーとの遠距離通信

高度成長はエネルギーの消費量でも測られる。遠く中近東から油を運ぶタンカーとの交信も長崎無線局の重要な任務である。

東経55度ドンドラを超えペルシャ湾に入ると日本との無線通信は困難となりそれ以後は外国海岸局経由となるため、船は会社へその旨を連絡するがこの連絡設定もそれほで簡単にはゆかなかつた。特にインド洋との交信は雑音が強くなり22MCや16MCの高い波でも交信困難であった。

日本資本がサウジアラビアやクエートと石油利権協定を結び試掘を続けていたが、昭和35年油田を掘り当て原油搬出を始めた。当時は積み出し設備も間に合わず、大型タンカーの接岸が出来ないため「セリア丸」や「第2静浦丸」が現場に待機し陸のタンクから沖のタンカーまで原油の運搬を行っていた。第2静浦丸は当局と協定連絡を結び、深夜に数字ばかりの長文電報を送信していた。もともと弱い信号にフェーディング現象やノイズが加わり、担当を大いに悩ませたものであるが、担当者の要請で連続したⅤ符号「・・・-」(無線設備の調整、試験のための試験電波発射符号)を何分も出し続けた第2静浦丸の通信士も大変であった。(2/2へつづく)
       
◆出典 長崎無線91年のあゆみ
 
発行日 平成11年1月16日
 
発 行 NTT長崎無線電報サービスセンタ

編 集 NTT長崎無線電報サービスセンタ編集委員会

印 刷 (株)昭和堂印刷

【付記】出典は、銚子無線局の廃止後、わが国唯一のNTT直営の海岸局であった長崎無線局を平成11年1月末に閉じるにあたり、その91年の歴史、沿革を記念誌として発行されたものです。

この貴重な資料の存在を教えてくれたのは、長崎無線OBの大久保忠氏です。氏は今も国内、国外とアマチュア無線の交信を楽しみながら、3年後の福岡市で実施される「マスターズ水泳世界大会」を目指し精進されています。また、先月の本ブログ「諫早大水害と長崎無線(JOS)回想」の筆者、渡部雅秀氏には、所有の記念誌をお貸しいただき、内容につき種々教えていただきました。記してお二人に感謝いたします。

なお、無線用語の次のカッコは、出典にはないが、参考に用語の意味を簡記しました。(増田)

6 コメント

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読ませて頂きました! (JQ6QDW/大久保)
2018-11-02 20:15:25
ブログ
モールス音響通信
懐かしいですね~
今日熊本市のプールから戻ったら
連絡来てました。今から夕飯、そのあと
家内と温泉、あとユックリあちこち拝見させていただきます
まずはご連絡まで(^^♪

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追伸! (JQ6QDW/大久保)
2018-11-02 20:28:13
私の 忠の人生峠 は
不具合で動作していません
開店休業状態で 更新も 出来ない状態です

FACEBOOK  Tadashi Okubo で検索しましたら
でますので コメント よろしく
お願いします。
返信する
お礼 (増田)
2018-11-02 21:39:53
早速のコメント有難うございました。
無線通信に経験のない私には、今回の記事も興味しんしんです。来週末には続編その2能力アップを予定しています。

FACE BOOK を検索、貴兄のブログ拝見しました。これからの更新を楽しみにしております。
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ご利用ください! (JQ6QDW/大久保)
2018-11-03 06:15:47
フェイスブックもさっそく見ていただき(人''▽`)ありがとう☆ございました!
なを、私の投稿文などで必要なものありましたらご自由にご利用ください。
無線はモールス信号和文で早朝6時半ごろから7メガで韓国の無線通信の大御所・コールサイン・HL2MBさんと交信(感度、お天気、気温、マンネンせいねんの・・さんおはようございます・セイメイの大地を大切に)などと交換しています。
お互い元気でがんばりましょう
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訂正あります! (JQ6QDW/大久保)
2018-11-09 05:51:06
前回のコメント韓国キムさんのコールサインが間違っていまました。HL2BMが正しいです。最近、電離層の状態、フェーディング(QSB)・電波の強さもQSA1〜5と一定しませんがキムさんが中心になり、毎日のように昔の古い縦ブリ電鍵で日本各地の皆さんと和文モールス信号による交信を楽しんでいます。
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情報有難うございます。 (海野旅人)
2023-10-09 05:25:15
元・ボルネオ航路の(ラワン)船員です。
とても懐かしく拝見しました。
隣の部屋が局長の船室でしたので,よく
遊びに行って通信の様子を見ていました。
赤道直下の現地では,半年以上日本語を
喋ったことがないという商社マンもいた
りしましたが,そんな状況にあっても
さらに会社からの叱咤激励の電報を船が
中継していたとは知りませんでした。
懐かしい昭和40年代です。会社がどんな
に不祥事を起こしても,私は商社マンの
悪口は一度も言ったことがありません。
現場で商社マンの苦労を見ているので。
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