モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

◆長崎無線局(JOS)閉局20 周年を迎えて

2019年02月11日 | 寄稿・モールス無線通信
◆長崎無線局(JOS)閉局20 周年を迎えて

渡部 雅秀

1 赴任当時の JOS

私は昭和 31年4月、日本電信電話公社中央電気通信学園無線通信科に入学、卒業して長崎無線電報局 へ赴任したのが 22歳の時、昭和 32年5月 20日でした。

赴任当時は全局員約 40名ほどでしたが、高度成長期を迎え増波(電波の割り当て増加)が相次ぎ、ピ ーク時には 230名ほどになったそうです。私が JOS を去った昭和 37年 4月当時、すでに 70名位に増加 していました。

私が勤務した時期は丁度 JOS 拡張期の初期段階だったことになります。 赴任先を告げられた時、無線局の所在地は長崎市内とばかり思っていました。

東京駅から急行雲仙号 で 24時間、諫早駅で下車。駅前の公衆電話ボックスに入り、駅に到着した旨の電話を入れようとしましたが、電話機にはダイヤルが付いていません。ハンドルもありません。とりあえず送受器を取り上げ耳に当てると交換手が出てきたので、長崎無線電報局に繋ぐようお願いすると、お金を入れてくださいとのこと。チャリンと入れると無線局のどなたかが応答され、駅前で待つように言われました。今思えば、当時の諫早電報電話局の電話の交換方式は共電式でした。

1時間ほど待ったでしょうか、出迎えてくれた人は中央電気通信学園で顔見知りの、一期先輩の山口県岩国市出身のTさんでした。記憶は定かではありませんが多分二人で話しながら畑の坂道を登って無線局へ向かって歩いたと思います。

諌早市は当時人口約6万5千人(長崎市は 30万3千人)農業が主な産業でした。独身寮に入り、愛媛県八幡浜市出身、2期先輩のMさんと同室になりました。

2 海岸局JOSの位置づけ

世界の主要な海運国は、いずれも強力なパワーの海岸局を設置しております。

イギリスの Portishead Radio(GKH)、西ドイツの Norddeich Radio(DAN)、オランダのScheveningen Radio(PCH)などがあり、日本でも世界有数の海岸局であるChoshi Radio(JCS-東半球担当)と Nagasaki Radio (JOS-西半球担当)があります。

3 長崎海岸局のシステム

当時の日本電信電話公社の長崎海岸局は施設部門と運用部門に分かれていました。

施設部門の組織名は長崎無線送受信所で、送信課と受信課がありました。送信課は諫早市内から南東約10kmの南高来郡愛野町(現雲仙市)にあり、広大な敷地に、南西や西方向にビームを向けたロンビックアンテナ、V ビームアンテナなどの送信用アンテナ群と1kW,3kW、15kWの中波・短波送信機がずらりと並んでいます。

送信所は国道57号線沿いにあり、周辺は畑ばかりです。姫路の友人が昔、雲仙に行く観光バスで送信所前を通過したとき、車内のガイド用アンプのスピーカーから強烈なモールス信号が入ってきたと言っていました。強い電波が直接マイクアンプに飛び込んできたものと思います。

受信課は長崎無線電報局と同一建物の中にあり、ここも愛野送信所と同様の受信用ビームアンテナ群がカーテンのように設置されています。

運用部門である長崎無線電報局は通信所となっており、通信席の電鍵を操作すると、コントロール線を経由して、愛野の送信機から電波が発射されます。受信アンテナの切換は、アンテナ共用装置を経由して各通信席のロータリースイッチでアンテナの種類を選択したり、任意の方向のアンテナを選択できます。

4 無線受信機

赴任当時の短波用受信機は、昭和 29年9月製、国際電気(株)のMT管を16本使用した7バンド切換式530kHz~25MHzオールウエーブ受信機RS-1701(SINNASIDER)でした。

この受信機は動作が不安定で、あちこちのスイッチを操作するとダイアルの目盛がずれてしまいます。特にバンドスイッチの接触不良が多発しました。バンドを切り替えて、元のバンドに戻すと、周波数目盛 がずれていて、校正表をその都度修正しておくことが必須でした。

船舶側の呼出し周波数は、各バンドごとに一定の範囲があり、この範囲を手探りでサーチしていました。目盛のずれに気付かないままワッチをしていたこともありました。

着任1年後には、本社技術局が海岸局用に特別に設計開発し、安立電気(株)に製造させたスイープ式受信機 RS-2201が配備されました。

この受信機は、パネルの左側に通信波用ダイアル、右側に呼出波用ダイアルがあります。通信波用と呼出波用の高周波増幅回路、第1局部発振回路、第1混合回路、第2局部発振回路および第2混合回路があり、それぞれ個別の回路構成になっているダブルスーパーヘテロダインです。つまり高周波回路部分は2台の受信機が内蔵されている形式で、中間周波数段回路以降を共用していました。

船舶からの呼出し周波数範囲は、自動的にスイープされ、JOSの呼出し信号をキャッチした通信士は、スイー プを止めて応答し、船舶側の通信波を聞いて、左側の通信波用ダイアルで交信します。

この RS-2201は、モノバンド受信機で(8MHz帯専用とか 22MHz帯専用など)、当初真空管式でしたが、まもなくトランジスタ化されました。この受信機の局部発振周波数は極めて安定しており、内部雑音は少なく感度、選択度とも電信用として大変性能がよかった記憶があります。

以後、海岸局用受信機が各種開発、配備されていますが、いずれもアンリツ製と思われます。驚いたことに、当時世界一性能が良いといわれた、米国ハマーランド社製の Super-Pro SP-600JX がモニター用として通信室に置いてありました。

経緯を調べたところ、終戦後日本製の受信機が感度、選択度、安定度とも悪く通信に支障を来たすとの海岸局現場の陳情をうけ、昭和26年1月、当時の電気通信省がアメリカから購入、銚子無線局、長崎無線局、落石無線局に配備されたことが分かりました。

受信周波数は540kHzから54MHzまでのダブルスーパーヘテロダインでした。私が実際にソ連の世界初の人工衛星スプートニックからの20MHz電波をこの受信機で鮮明に受信した 経験があります。

スプートニックは昭和32年10月4日に打ち上げられました。直径 58センチ、20.00MHz/40.00MHz出力1W の衛星で、ピツピツピツ、と電波を出していました。あとで分かったことですが、この信号は、衛星の温度情報だったそうです。

5 船舶局との通信

さて、新米の無線通信士は、最初はサイドワッチと称し、通信席にいる先輩の傍で通信ぶりを見習うことから始まりました。

日本船、外国船との交信状況を見聞きし、受信機の調整、アンテナの切換、遭難通信周波数500kHzのワッチ、沈黙時間の厳守(毎時 15分と 45分からの3分間 500kHz)、TR通知〈入出圏通知〉、放送依頼船 (入港中のため電波を発射できない船舶あて電報の一方送信)の処理、気象無線電報(緊急電報)の受信、一般電報の送受、一括呼び出し(電報が来ている船舶のコールサインを2時間ごとに一斉に送信する)後のトラフィックに応じた臨機応変の順序通信の設定(QRY 指定)などなど、学園では習わない現場での実務に必要な事柄を習得しなければなりません。

電波法違反を捕捉されれば、電波監理局(現総合通信局)から違反通告と処分を受けます。

これらを一通り習得し、輪番勤務に入りました。日勤、中勤、夜勤、午前0時から午前4時まで休憩時間なしで連続4時間勤務や、同じく午前4時から午前8時までの勤務がありました。

今でも思い出すのは、深夜、中波席で 500kHz をワッチしていたとき、有線担当者から緊急国際医療無線電報を手渡された時のことです。この電報は長崎掖済会病院からの治療のための返信電報で、ローマ字で書かれています。

当該外国船は、長崎無線局の中波通信圏内にいることが分かったので、すぐ500kHzで呼出し、 応答があったので通信波に切り替えて送信開始、終わって受信証を待ったのですが送ってきません。しばらくして PLEASE TRANSLATE TO ENGLISH といわれ、ローマ字では理解できないことが分かりました。

そこで OK AS(しばらく待ての略号)を送り、だれかに応援を頼もうとしましたが、深夜勤務者は少数で、みな通信席で通信中です。そこで2台ある受信機の500kHzにセットしてある方に耳を傾けながら、通信席に常備してある英和と和英の辞書のうち、和英を取り出し、翻訳にかかりました。それぞれの単語を英文らしい語順に並べ、電文を作りました。内容の要旨は「これこれの処置をしてカテーテルを挿入し、排尿を促せ」というものでした。

多分何かの原因で尿閉塞になり、苦しんでいるものと思います。翻訳を終わり直ちに外国船をコール、先方も直ちに応答し、電文を送信したらすぐ QSL(受信証)TU(ありがとう)を送ってきました。やれやれと胸をなでおろしたものです。

外国船の通信士は、電文を持ってブリッジに駆け込んだか、無線室で固唾を呑んで待機していた航海士官に手渡したと思います。

40年ほど経った65歳の時に、私は尿閉塞になり医院で船員と同様の処置をうけ、大病院で診察の結果、膀胱腫瘍と分かり、入院、手術を受けました。忘れていたあの外国船の船員の苦しみが良く分かりました。

6 南氷洋捕鯨通信

私は、南氷洋捕鯨船団との通信も担当しました。捕鯨通信は銚子無線局も担当していました。

南氷洋と内地間は勿論短波帯の電波が使用され、捕鯨通信用に割り当てられた周波数とコールサインを使用します。捕鯨は母船を中心に船団を組んで操業します。

昭和 35年、第 15次の大洋漁業日新丸船団の例を挙げると母船の日新丸を中心とし、キャッチャーボート9隻、仲積船4隻、冷凍工船2隻、油槽船1隻、調査船1隻、曵鯨船2隻からなっております。大洋漁業が3船団、日本水産が2船団、極洋捕鯨が2船団合計7船団がノルウエーなどの外国捕鯨船団と競争しながら南氷洋で鯨を追って操業しているわけです。

捕獲した鯨の頭数などは国際捕鯨取締条約に従って、国際捕鯨委員会(IWC)あて国際無線電報で報告します。南氷洋で稼働している日本の各船団の人口を集計すると多分2千人くらいになると思われます。

海岸局の捕鯨席は、捕鯨船と会社相互の事業用電報、乗組員と家族との電報で大変忙しい通信席です。各船団とは時間を割り当てて交信します。

捕鯨船の操業は年末年始にお構いなく行われ、さらに年賀無線電報は何千通も発信されます。捕鯨母船では無線室で電報をテープレコーダにモールス符号で録音し海岸局との交信時刻になると、テープレコーダの 回転数を上げ、分速 200~300字で送信してきます。この信号を捕鯨席の受信機からテープレコーダに入力し、後刻スピードを落としてタイプライターで電報に仕上げます。

混信、フェーデイング、オーロラなどの影響で空中状態が悪く、判読困難な場合は後刻、再送や手送りをしてもらいます。

捕鯨母船側も遠距離通信になれたベテラン通信士が担当していました。 50年ほどのちに、趣味の会で偶然知り合った長崎市のSさんが、大洋漁業のOBで、私と丁度同じ時期に南氷洋の捕鯨母船の若手の通信士をしていたことが分かりました。

毎年3月を過ぎると、捕鯨船団は日本に戻ってきます。横須賀、下関、長崎が母港です。そして、母船の通信長や通信士が、制服制帽で来局します。おみやげは尾肉という最も美味の部位の鯨肉です。ありがたくいただき、庶務担当が社宅の皆さんにマイクで呼びかけ分配しました。独身寮の食事のおかずは尾肉の刺身でした。

7 おわりに

このようにおよそ5年間勤務したあと、27歳の時に長崎無線局を転出し海岸局の現場から離れました。

長崎無線局は、長崎無線電報サービスセンタと名称が変わり、平成11年1月31日に役目を終わって閉局となりました。

歴史を遡れば、長崎市から海上約100kmの五島列島福江島の西端の断崖上にあった海軍望楼所が明治41年7月1日逓信省に移管され、大瀬崎無線電信局(Japan OSezaki=JOS )として開局、さらに大瀬崎から移転して、昭和7年11月16日、北高来郡諫早町に受信所、南高来郡愛野村に送信所が出来て、長崎無線電信局として開局してから84年、銚子無線局が1996年(平成8年)3月31日に閉局したあと、日本最後の一般海岸局(公衆通信業務を取り扱う海岸局)として活躍した通算 91年の歴史でした。

最盛期の長崎無線局のコールサインもJOS シリーズだけでなく、JOR、JOU、JDB シリーズが追加されましたが、閉局7か月前にはJOSシリーズのみとなりました。

私のNTT現役時代と退職して再就職した時代を通じ、色々な職種を経験しましたが、20歳代を過ごした JOS 長崎海岸局での勤務と生活は、私の青春そのものでした。84歳になる今でも懐かしく思い出されます。

(参資資料)

本資料を作成するにあたり、次の文献を参考または一部を引用させていただきました。
・人口統計データベース
・アンリツ(株)100 年のあゆみ
・(株)日立国際電気社史
・長崎無線91年のあゆみ 日本電信電話株式会社 長崎無線電報サービスセンタ
・銚子無線70年のあゆみ 日本電信電話公社 銚子無線電報局
・1969年 日本船舶無線電信局局名禄・世界海上無線通信資料(船舶通信士協会発行)
・無線工学ハンドブック方式編 昭和 49年 10月発行第2版第 10刷
・元大洋漁業無線通信士S氏(平成11年1月31日のJOS 閉局式へ出席)と
筆者との対談及び南氷洋捕鯨関係写真の提供
・インターネット Wikipedia スプートニック
・高山無線ホームページ

◆寄稿者
 ・渡部雅秀〈わたなべまさひで) 昭和10年生れ 長崎県
  仙台電気通信学園普通部電信科 昭和26年12月卒
◆出典
  長崎無線JOS-OB会ホームページ(アーカイブ)に掲載(平成30年12月17日)の投稿記事  

【付記】 
 ・寄稿者とOB会のご了承を得て、転載させていただきました。お礼申し上げます。
 ・本稿の原文3~5項には、記事に関連する写真(計15枚)が掲載されていますが、割愛させていただきました。上記ホームページでご覧いただけます。お詫びし、お知らせいたします。(増田)


5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「JOS閉局20周年」を読んで (中西 研二)
2019-02-14 16:07:40
さすが5年間勤務されただけあって、海岸局としての無線電報局時代の仕事の内容についてよく書かれています。
有線通信の場合は、電報の輻輳への対処が中心になるので、1通毎の通信内容についての記憶は、あまり残らないかと思いますが、海岸局での無線通信の場合は、通信状態、相手方、通信内容が、ほとんどの場合、一回生起的(あるいは一期一会的というべきか)なので、その都度、臨機に対応しなければならないことが多いので、1件1件の通信内容や、その時の装置の調子などが、より記憶に残るのかもしれません。
私も六十数年前、渡部さんと同じく中央電気通信学園の無線通信科を卒業し、厳冬の二月、北海道根室の落石無線電報局(JOC)に赴任しました。JOCに勤務した期間は短いものでしたが、船舶との通信に従事した当時のことを今改めて懐かしく思い出しています。
返信する
お礼 (增田博治)
2019-02-14 16:49:13
コメント有難うございました。
貴兄が当ブログへ落石無線のことを書いてくれましたお蔭で、長崎、銚子無線と無線通信の記録が増えました。確かに無線通信は、国内外の海域を移動中の船舶を相手に、天候などにも影響を受けながらの仕事でしたので、有線通信とは違った難しさがあったことを、皆さんに知っていただければ幸いです。
返信する
Unknown (赤羽弘道さんの同窓生の娘です)
2020-07-14 10:40:24
突然のコメント失礼いたします。
父が通ったという逓信講習所の情報を探していてこのブログにたどり着きました。
拝見して驚いたのが、なんと父と同期だった赤羽弘道さんという方の記事があったことです。
どこかで聞いたことのある御名前と思い古い古い父の自作の卒業アルバムを確認したところ、ありました!
達筆な赤羽さんのサインが残っています。
講習所時代や中国での電信兵時代の話など60才で亡くなった父からは聞けなかったお話があり、当時の皆さんの様子を思い浮かべることができました。
無線通信の話をするときの父は生き生きとして楽しそうでした。
長崎の記事とは関係ないコメントお許し下さい。
何かのご縁かとおもいコメントさせていただきました。
返信する
un knownさんへ (増田 博治)
2023-03-17 13:32:42
あなたのコメント今頃気づきました。父上の若き日を赤羽さんの記録で知ることができ、嬉しく思ってます。
ブログは小生も超高齢者となり、新しい記事は掲載してませんが、いまだに多くの訪問客があり読んでいただいております。誰が読んでいるのか毎週、連絡を受けながら不思議に思っています。多分あなたのような方が、読んでいて下さってるのでしょう。ブログをアップした甲斐があったと喜んでます。
返信する
先輩方のご活躍に感動 (吉井秀明)
2023-08-28 08:34:59
(突然のコメントをお許しください)
私は諸先輩方の遥か年下の後輩となります。
電電公社(昭和57年入社)の残党組で、入社後、有線通信職で、東京三田(トミ)にて勤務していました。
当時、輪番勤務で、長崎無線、銚子無線より東京掖済会病院宛の電報を頻繁にやりとりしていたことを記憶しています。
とても懐かしく拝読させていただきました。
ありがとうございます!
返信する

コメントを投稿