◆有田電信時代の思い出
・吉木 安之
1.役場から電信応答注意
宿直室の窓がドンドンドンと叩かれる音に目が覚めました。「吉木さん佐賀電報から応答注意ですよ」と起こしてくださったのは有田町役場の当直の方です。この方の妹さんと私は小学校の同級生だったので、たまたまですが以前から存じ上げていました。
お礼を言って仮眠室のドアを開け、電信室に入ると --・ ・・・・(GH=有田) --・ ・・・・ ・・--・・(?)と、さかんに有田を呼んでいる音響機の音が夜中の電信室に鳴り響いています。スマヌと前置きして電報を受信しました。
私が勤めていた有田電報電話局は佐賀県西松浦郡有田町にありました。人口2万の静かな陶磁器の町ですが、ゴールデンウイークともなれば、全国から100万人を超える人出で賑わう『有田陶器市』で有名です。
有田局の開局は、昭和24年6月1日逓信省が郵政省・電気通信省に分離され、電気通信省が通信事業を管轄するようになった時期です。それまで、郵便局と合同の局舎(有田町本幸平1393)でしたが、昭和27年3月31日、電話交換部門を除いて新局舎(有田町白川1781)に移転しました。新局舎の向かい側は有田町役場でした。電話交換部門は共電式(電話機のハンドルを回して電話局を呼び出していた磁石式から、受話器を持ち上げただけで電話局に繋がる…)がスタートした昭和28年12月25日に移転しています。
NTTとなってからは有田営業所と名称を変え事業を行った時期もありますが、現在は他の地域と同様この営業所も有田町から撤退しました。
当時の電信オペレータの勤務は、宿直(トマリ)、宿明(アケ)、日勤の繰り返しです。宿直・宿明は17時から翌朝午前8時30分まで、日勤は8時30分から17時までの勤務です。日中はほとんど局には行かないので近所の人からは「ホンナコテー(本当に)電報局にイキヨットナター?(行っているのですか)」と疑われる始末です。宿直に備えて、日中休養するなどとは考えもしない、二十歳前の若者でした。
佐賀電報局からの呼び出し--・ ・・・・と音響機は鳴っているのですが、昼間の行動が過ぎて目が覚めなかったのです。因みに佐賀有田間の電信回線にはもう一つ北方郵便局も繋がっていました。北方の呼び出し符号は確か -・- -・(KN)だったと思います。
普段なら、仮眠室の音響機が・・・ ・-(SA佐賀)と鳴ろうと-・- -・(KN北方)と鳴ろうが目が覚めることはありませんが。しかし、--・ ・・・・(GH有田)には素早く反応していましたが。
その日は、佐賀から何度呼んでも応答しないので業を煮やして、応答注意を交換室に頼んだのでしょう。しかし、交換台から電信室に何度電話しても出ない。窮余の策で、道路を隔てて目と鼻の先にある役場の当直室の方にお願いする羽目になったのだと思います。2階が電話交換室、1階が電信室なら(暫くしてそうなりますが,当時は一時、別局舎)交換のお姉さんから厳しく起こされるにしても、役場の方にまでご迷惑をおかけすることはなかったと思います。今思い出しても全く汗顔の至りです
有田の電報通数は1日の発信が20通、着信が100通前後だったと思います。着信の多くは陶磁器関係、それと建材のタイルや碍子(がいし)の窒業関係、そのなかで私には為替電報が目立って多かったような記憶があります。
有田の陶磁器店の方が、遠方の割烹旅館等で代金を集金したとき、現金をその日の内に店に送金するには、為替電報が使われていました。今のようなATMのない時代で、一番早い送金方法としては、この方法しかありませんでした。
為替電報は、まず送金者が現金を郵便局へ持参します。郵便局は配達郵便局へ為替電報を打ちます。着信郵便局では為替電報に基づき速達便で現金を配達します。
為替電報には郵便局の局符号、金額の確認符号などが含まれていますので、これを間違えれば郵便局の貯金部門の大お姉さまから叱られます。大変神経を使ったものです。シリベシコンブオンセン・キタミオンネユオンセンなど面白いと感じた発信局名が記憶に残っています。
2.天草逓信病院入院
熊本電気通信学園普通電信科を卒業し、郷里の有田局ヘ配属されてから1年10か月経った昭和28年10月、私は肺結核のため天草逓信病院に強制入院させられました。今は観光で名高い天草五橋があり,陸路で行けます。空路なら、福岡空港から天草まで僅か40分ですが、当時は1日がかりの行程でした。
有田からは列車で諫早経由口之津港、それから船で鬼池港、鬼池から乗合自動車か馬車で天草逓信病院です。モールス音響通信の有線通信士を育成する熊本逓信講習所天草支所が移転した後の校舎を使って作られたと聞いています。
当時の肺結核の治療は、大気、安静、栄養が柱で、特効薬のストレプトマイシンはありましたがごく限られた患者用でした。私共の薬はパスとヒドラジッドでした。ヒドラジットは少量ですがパスの量は多くて大さじ2杯分はありました。それを1日3回飲みました。この他、肺と肋膜の間に空気を入れる人工気胸、背中の肋骨数本を取り除く成形手術、肺の病巣を取り除く肺葉切除(本土の病院で実施)などがありました。私は人工気胸を試みられましたが肋膜が肺に癒着していて実施出来ませんでした。
肺結核は職業病的扱いで、病気休暇として療養できる期間も長かったです。私は勤務年数2年半で病気療養になりましたので、病気休暇と休職を合わせて1年6か月在籍出来ますがそれを過ぎると解雇されます。昭和30年4月までに職場復帰を果たさないと失職するのですがあまり悲壮感はありませんでした。なんとかなるだろうと楽観的に考えていたのでしょう。
昭和30年3月天草逓信病院を退院し、4月に職場復帰しました。半日勤務から始まって6時間勤務、8時間勤務、夜勤禁止など勤務上の制限がつき、職場の皆様方には長期間にわたり大変なご迷惑をおかけしたことを思い起こしております。
2.火事で電話交換手伝い
「ブレストを持って早く上がってきて!!」と電話交換のお姉さんが呼んでいます。電信室のブレスト片手に2階の電話交換室へ駆け上がると交換台のランプが一斉に点灯し始めています。
(注)ブレストとは、コールセンターなどで使うヘッドホン。交換台や電信台で使った。
消防自動車のサイレンを聞いて、加入者の方が、町内の火事が何処なのか聞いてきているのです。そのうち交換台が真っ赤に染まったように見えます。早くランプを消さないとヒューズが飛んで電話交換機はダウンします。交換台に着席するのももどかしく「火事はどこですか?」との問いに「何処何処です」と答えます。これでランプが一つ消えます。この繰り返しです。慣れない作業ですが、とにかく必死でやる以外ありません。
なかには「有田局以外の何番に繋いでくれ」という意地の悪い人?もいます。これには有線通信士はお手上げです。「お待ちください」と言って交換のお姉さんに助けを求めます。といっても、お姉さんは、火事の問い合わせの案内台と、市外電話を繋ぐ接続台をかけ持ちしてまさに八面六臂の活躍です。助けてくれるまでオロオロして待つよりほかありません。気がつくとかなり時間が経っています。火事を問い合わせる案内台のランプもまばらになってきました。
電話交換の宿直は二人、そのうちの一人が「ご苦労さまでした」とお茶を持ってこられました。どうぞ電信室にお引き取りくださいという意味でもあります。素直に一服いただいて電信室に降りて行きました。
今夜の宿直は、私のほか局内保全1名、電話交換のお姉さん2名、お姉さんと言ってもまだ20代、局内保全も確か20歳を少し超えていた方でした。
若き日の有田電報電話局の夜は静かに更けて行きました。 (おわり)
◆寄稿者紹介
・吉木 安之
・昭和10年生れ 福岡県
・熊本電気通信学園普通電信科 昭和26年卒
吉木さんの投稿は、遠い遠い昔の話しですが、当時の電信、電話、職場と有田町の様子がいきいきと書かれています。宿直は、局各部門とも全員が20歳台の若者だったなど、今、誰が想像できるでしょう。情報通信の世界も革命的に様変わりし、発展しました。でもそれは、あの時代があってのこと、ご一緒に生きたあの頃が眩しいですね。