1.ペリー幕府に電信機献上
アメリカの遣日特派大使ペリーが、鎖国日本に開国和親を求め、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕末の日本を震撼させたのは、嘉永6年(1853)6月3日のことである。
だが浦賀港沖に10日間停泊したペリー艦隊はアメリカ大統領フィルモアの国書を浦賀奉行に手渡し日本を去って行った。この艦隊が浦賀出港の前日、奉行所から艦隊を訪問したとき、ペリー艦隊は奉行所に対し「来春もう一度来航する。その際贈り物を届けるが、そのなかには、浦賀から江戸に達するほどの長い電信もある。それによれば、あなたがたはたった1秒で、ある場所から他の場所へ話をすることができる」という意味のことを伝えた。
嘉永7年1月16日、8隻の軍艦をひきいてふたたび来航した軍艦の威かくに強圧された幕府は、ついに2月10日から鎖国を破って横浜村で交渉をはじめた。2月15日、ペリー艦隊の贈り物は陸揚げされ、3月3日には日米和親条が締結された。
ペリーからの贈り物は、電信機、模型汽車、時計、ピストル、望遠鏡、ウイスキーなど50点にのぼった。このとき徳川幕府に献上された電信機こそ、わが国に渡来した電信機の第1号であった。その名は、エンボッシング・モールス電信機である。天保8年(1837年)アメリカのサミュエル・モールスが電信機を発明してから、17年後のことであった。
さっそくこの電信機の実験準備が始められた。当時ペリーが開港談判所にあてていた横浜駒形の応接所(横浜税関所付近)と、州干弁天境内の民家、中山吉左衛門宅都の間約9町(109メートル強)に電線を引き渡して実験を行った。これを見た幕府の役人たちは、電信知識が皆無であったため、異常な好奇の目をもって驚嘆した。
ところがこのエンボッシング・モールス電信機は取扱いが非常に複雑で、当時の日本人の手におえなかったため、一度も運用されなかったといわれる。この実物は、For the Emperor of Japanと刻印した銘板の箱におさめられており、逓信総合博物館※に保存されている。
※現在、郵政博物館(スカイツリー内)に所蔵されている。照会したところ、年1回程度は展示されているようです。同館の資料によれば、「エンボッシング・モールス電信機は、送信側の電信機上の電鍵でモールス符号を打つと、受信側の電信機の紙テープにエンボス(凹凸の傷がつく)されて、信号を送ることができます。ペリーは、電線や電池など装置一式を持参した。平成9年重要文化在に指定されている。」(増田)
2.列国から電信機あいつぎ渡来
日米和親条約批准交換後、幕府はオランダ、ロシア、イギリスなどとも条約を結ばざるをえなくなる。
まず、ペリー来朝から半年後の嘉永7年(1954)7月28日、オランダの軍艦が長崎港に入港し、長崎奉行をつうじて幕府に電信機を置く贈った。 幕府では直ちにオランダから献上された電信機の実験にとりかかった。当時、蛮書翻訳御用の役職にあった勝鱗太郎(海舟)、小田又蔵などの手により、安政2年(1855)6月、幕府の御浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)において電信機の実験が行われた。ついで、同場所で用軍家定を招き、再度実験を行った。
その時オランダ人のつくった電信符号は、イは・、ろは・・、ハは・・・、これくらいはよいとして、エは・・---・・・、テは・・---・・・・、モなどは・・・---・・・・とかなり複雑になる。それでもこの実験は成功した。
このとき勝と小田との間で送受された電文は、次のようなものであった。
テンチワゴウ(天地和合) ツルカメ(鶴亀) ワカノウラ(和歌の浦)
ウメマツ(松竹梅) コンニチブジ(今日無事) スミダガワ(隅田川)
ウメマツ(松竹梅) コンニチブジ(今日無事) スミダガワ(隅田川)
勝海舟という著名な人物が、一電信オペレーターとして、わが国電信の先達として名を残しているのである。
その後、万延元年(1860)7月に、プロシアの軍艦が品川に入港し、幕府に電信機を電上、元治元年(1864)2月には、イギリスから幕府へ海底電線の一片が贈られている。一方、和親条約を締結したアメリカは、さらに日米通商条約を結ぶため、安政3年(1856)7月、駐日総領事としてハリスを下田によこした。彼は老中堀田正睦に、電信建設の急務をしきりに説いた。通商条約が結ばれれば、当然アメリカ本国と日本との間に、緊急通信手段が必要となるからであった。(つづく)
◆出典;
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます