文藝春秋2013年12月号にエッセイスト・作家・翻訳家の青木奈緒さんが「ツートントンの娘」と題し、幸田露伴の娘である祖母、幸田文さんのことを次のように書いておられる。
《先日、思いがけない経緯でNTTの方からCDを一枚頂いた。私にとっての祖母、幸田文の講演を録音したもので、昭和四十五年五月、旧電電公社中央電気通信学園にてと記されている。
講演は、「ひびき」と題され、祖母は自分のことを「ツートントンの娘だと思ってます」と言う。ツートントンは父である幸田露伴が十八歳で電信技士として北海道の余市に赴任したことを意味しており、その後、文筆で名を成した露伴も駆け出しのころは身ひとつで、人と人とを最小限の音でつなげる電信の仕事に携わっていた。露伴は生涯、出発点となった余市を忘れず祖母にもツートントンの娘であると言って聞かせた。その祖母が露伴亡きあと物書きを始めたのは、「時のはずみってもんですよ」と笑って話している。以下略》
私は戦後間のない昭和26年、15歳で熊本電気通信学園に入学し、電報を送信・受信する電信オペレーターの技術~モールス音響通信の訓練を受け、電報局に勤務した。文豪露伴がわれわれの先輩であることはよく知っていた。しかし露伴が若き日の電信オペレーターの仕事を、上記のように自分の娘さんに語っていたとは新鮮な驚きでした。講演は、「ひびき」と題され、祖母は自分のことを「ツートントンの娘だと思ってます」と言う。ツートントンは父である幸田露伴が十八歳で電信技士として北海道の余市に赴任したことを意味しており、その後、文筆で名を成した露伴も駆け出しのころは身ひとつで、人と人とを最小限の音でつなげる電信の仕事に携わっていた。露伴は生涯、出発点となった余市を忘れず祖母にもツートントンの娘であると言って聞かせた。その祖母が露伴亡きあと物書きを始めたのは、「時のはずみってもんですよ」と笑って話している。以下略》
私の電信オペレーターの経験は、訓練期間を含めて5年ほどでした。この私に青木奈緒さんの一文は、今は世間から殆ど忘れ去られた感のあるツートントンのことを昨日のように思いださせてくれました。ツートントンは、私たちの時代には「トンツー」と少し短縮して呼んでいたが、私にとっては、青春の響です。私は、今もかすかに耳の奥に残るその響きを懐かしく思い出している傘寿を越した老人です。
わが国の公衆電報の取扱いは、明治2年(1869)12月東京ー横浜間で始まった。それから間をおかず導入されたツートントンは、わが国の通信インフラとして約100年にわたりその役割を果した後※、昭和41年(1966)電電公社から姿を消しました。IT時代に生きる多くの皆様にとっては、50年前まで国内通信の一端をモールス符号による通信が担っていたことなど、当然のことながらご存知ない方が多いと思います。
いまさら古い話と笑われることを覚悟で、勇を鼓して、私が経験したトンツーを少しご紹介したいと考え、ブログを開設することにしました。
今ならまだ北海道から九州までの各地に、電信オペレーターの仕事に携わった同僚、先輩も健在ですので、教えていただいたり、寄稿をお願いできれば有難いと思っております。トンツーなどご存知なかった方にもどうか、お気づきのこと、感想などお聞かせいただければ嬉しい限りです。
※付記
電信創業当初は、「ブレゲー指字電信機」と呼ばれた電信方式を採用。モールス符号は使用しない方式だった。明治4年(1871)、通信速度が速く、高度な技術を要する「シーメンス・モールス電信機」をイギリスから輸入、当時制定の和 文モールス符号による通信を開始。この方式は、送信者は電鍵を叩きモールス符号を送信、受信側には印字機があり、送信されたモールス符号が印字される。受信者は印字された符号を文字化し、筆で電報文に仕上げたようだ。文豪露伴が北海道余市で2年間の電信技士を辞し、上京した明治20年(1887)当時の通信はこの方式だった。わが国にはまだ鉛筆もボールペンもない時代である。その後、われわれが従事したモールス音響通信方式に移行したのは明治31年(1898)のことである。(2015-12-12記)
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