「去る者日に疎し」
先日、東京駅から歩いて10分ほどのNTT大手町ビルにある逓信総合博物館(ていぱーく)に立ち寄った。その日が平日の昼下がりだったせいか、なかに人影はなく、がらんとしていた。
博物館は25年8月閉館【後記】3参照
久しぶりに展示室の一角に並べられた古武士然としたモールス音響通信機を眺めたり、無線通信機の前にある電鍵を触ったりした。そのうち、目の前に掲げられたイロハ順ならぬアイウエオ順のモールス符号表を見ながら、電鍵に手をそえ、コツコツと電鍵を叩きつづけていると、どこからかともなく、わたくしと同年輩とおぼしき制服姿のオジサンが現れた。
「スイッチを入れると音が出ます」
と親切に教えてくれた。電鍵は、立ったままスイッチを入れて叩くとあのピッピッーという無線通信の信号音が聞こえてくる仕掛けになっている。
「電鍵だけの音をわざわざ聞いているんです」
と答えようとして思わず言葉をのみ込み、そそくさとその場を離れた。
しばらく館内を回り、先ほど眺めた音響通信機の前にもういちど戻り、ガラス越しにその前に置かれた小さなプレートの説明を読むともなしに読んだ。そして、おやっと思った。今までここに何回か来て気づかなかったのはうかつであった。そこには、この通信機の「標準通信速度は1分間に75字のカナ文字が送受信できます」と説明されていた。
わたくしの電報局でのモールス通信の経験は、もう50年も前のもので、通信技能も自慢できるものではなかった。しかし、あの頃の先輩、同僚の技能はこの説明のようなものではなく、1分間75字とは認識不足もはなはだしいと思ったのである。モールス音響通信が電電公社の表舞台から姿を消して、まだ40年程しか経っていないに、本家本元にしてこのような認識不足、誤解が堂々とまかり通っていることに驚くしかなかった。
ちょうどそのころ仲間うちの会報に何か書かなくてはならない時だったので、このことをタネに実際にわたくしが見聞した電報局でのことを思いだしながら短文を書いた。
「この古いと笑われそうな話を書く気になったのは、黙ってこの通信速度の説明を見過しては、若い頃に出会った大勢の電信マンに顔向けができないと考えたからである」として、「明治から昭和30年代の終わりまで、わが国のインフラとして役割を果たしてきたモールス音響通信の社会的、歴史的な存在は、新しい世代によってさまざまな角度から功罪が論ぜられ、評価されるものと考える。ただ、去る者は日に疎しとはいえ、その存在を支えた、あの低技術の通信機を操作した人たちの高い技能については、事実ありのままを後世に伝えて欲しいと願うものである」とつけ加えた。
電電公社に勤務していた頃、電報安楽死論なるいやな言葉がささやかれた時期があった。この言葉の裏に感じられた、電報事業軽視の考え方がこのような通信速度の過小評価にもつながっているのではないか、などとも考えたくなるが、これは、いささかこじつけ過ぎだろう。なぜこのような説明になったのだろうか、と考えていて思いついたのは、どうもモールス無線通信と有線の音響通信の混同にその原因があるのではないかということだった。
調べてわかったことであるが、モールス無線通信には今も国家試験として、無線技士と無線通信士の資格試験がある。試験のなかでレベルのもっとも高いのは1級総合無線通信士である。その実技試験では、毎分75字の和文の送受技能が必要とされている。この公的な無線の資格基準が同じモールス符号を使う有線の音響通信と混同され、あの博物館のプレートに記載されたのではないかというのが、わたくしの憶測である。
わたくしには、無線通信の経験はないのだが、こと通信技術に関しては、両者ともモールス符号を使うこと、電鍵でその符合を送信し、遠隔地でそれを受信する点は共通である。しかし、後に述べるように音響器から聞えてくる信号音は天と地ほどの違いがある。通信速度も、どちらが速いか遅いかは別として、この音の違いはおのずとその通信速度を決める。
博物館のあの説明を無線電信との混同による単純ミスのせいではないかと考え、少しは気持ちが落ち着いてきたものの、この説明文を訂正してもらわぬことには気持ちが治まらないと強く考えた。
ところで、博物館には、電気通信のほか郵政、放送関係の資料も展示されている。運営は、NTT、郵政、NHK、KDDの共同で行われており、国内では権威ある博物館と言われているようだ。その展示室は、NTT持株会社が入っている8階建てビルの1階から3階までにある。NTTが東西に分割される前の現役時代、そのビルに勤務したこともあったので知っているが、博物館は見学者で結構賑わっていた。玄関先の駐車場が見学の小中学生などの団体客を運んできた大型バスで混雑するのもよく見かけた。
このような、天下の博物館を相手に、物申すとすれば正確を期さなくてはならないと、昔の電報局時代の友人に事実関係を確かめたりして、博物館に、そのとき書いた会報原稿を送ることにした。訂正を申し込む段になって、念のためにと、手元の少し古い名簿を調べた。運よくというべきか、現役時代の顔見知りが博物館に勤めているのを知った。これなら穏便にことが運びそうだと、早速電話をしてみると当人が電話に出た。「あのプレートの説明を訂正されると、話のタネがなくなり個人的には困るが、調査のうえ善処願えないでしょうか」と丁重に依頼し、原稿を送ることにした。相手は、いきなり権威ある展示室の説明に文句をつけるのが現れたかと、ちょっと驚いた様子であった。
実はその際、もう一つ事実関係を調査してほしいと依頼したことがあった。くだんの説明には、この電信機は「明治28年(1895)から昭和36年(1961)頃」まで使用されたとあったのである。使い始めの時期はさておき、終わりが昭和36年とは納得できないと思ったのである。この点も友人に問い合わせたところ、彼の勤めた電報局では昭和39年11月の電報の自動中継交換をもってモールス通信は終焉したとの返事をもらった。去った者の寿命を3、4年も短くするとは全くもって言語道断とまたまた一人憤慨し、この点の調査も依頼したのであった。
ファックスで原稿を送って1時間も経たないうちに電話があった。
「ちょっと調べさせてくれ。モールス音響通信はそんなに速いスピードが出せたのですか」
モールス通信に経験のない彼にとっては、にわかには信じ難いという口振りであった。
このようなやりとりをするうちに、若い頃のモールス通信のことがつぎからつぎに蘇ってくるのは不思議であった。それを少し書きとめてみたくなった。
これまで、多くの同窓によってそれぞれの熱き思いのモールス通信賛歌が語られてきた。
わがモールスに対する思いの深さは誰にもひけをとらぬと自負するものの、今更、漠とかすんだ半世紀前の体験と見聞を書くのは気がひける。それにもかかわらず、あえてわたくし自身のモールス通信の思いでを書くのは、経験のない人たちと違い、同窓の皆さんならば、古い話と一蹴することなく一読していただけるのではないかと期待するからである。
【後記】
1この「わがモールス音響通信の思いで」は、これから(5)まで掲載します。
本文は、九州逓友同窓会の会誌「相親」に「わがモールス音響通信見聞録」のタイトルで平成15年1月号から順次(3)まで掲載されたものです。平成15年7月同誌廃刊によりNo.4、5は原稿が返却され未発表となりました。その後、同期の同窓生には未発表分も読んでいただきましたが、この度、全文をブログとして掲載することにしました。
本文を書いてから13年余が経過し、読み返して訂正したい点も多々ありますが、字句の一部訂正にとどめ掲載します。
2.東京大手町の逓信総合博物館(ていぱーく)に展示されていたモールス音響通信機の通信速度は、訂正依頼をした後、「標準速度は1分間85字」と当時の標準通信速度に訂正されました。感謝し、付記します。
なお、博物館が1分間の標準通信速度を75字と説明していた原因について、その後も考えていたところ、Netで断片的に検索できる逓信総合博物館のHPにモールス音響電信機の写真と説明文を発見。
なんのことはない、原因はモールス音響通信機が実用化した当時の標準速度を、その後の向上を考えず、ずっと当初のままにしていたのが原因に違いない、と思った次第。
<下記が説明文のコピー>
使用開始は明治28年と書かれ、下記のようにその実用化は明治31年とあり、当時の速度を記している。
「手の動作でモールス符号を送信し、音響器の送信音でモールス符号を聞き分けて通信文を記録する音響電信機は、印字通信方式に比べて装置や取り扱いが簡便なため、通信能力を大変向上させました。標準通信速度は、1分間に75字のかな文字を送受信。実用化されたのは明治31年(1898)からでした。」
3.逓信総合博物館(ていぱーく)は、残念ながら平成25年8月閉館となった。
閉館後の史料展示:
・NTT関係史料
(1)武蔵野R&AセンターのNTT技術史料館(武蔵野市)に史料の一部を移転、R&Aセンターの史料とともに、毎週木・金の午後無料で公開。モールス音響通信機はこちらに展示されているのでそのうち見学したい。www.hct.ecl.ntt.co.jp
(2)大部分の史料はNTT東日本情報通信史料センタに保管。照会したところ、現時点では一般公開の予定はなく、事前予約により見学に応じているとのことである。<閉館後の 問い合わせ先: NTT東日本 情報通信史料センタ TEL:0422-38-8820>
・郵政関係史料
26年3月1日、東京スカイツリータウン(ソラマチ9F)に郵政博物館を新設、年中公開を開始。
www.postalmuseum.jp
先日、東京駅から歩いて10分ほどのNTT大手町ビルにある逓信総合博物館(ていぱーく)に立ち寄った。その日が平日の昼下がりだったせいか、なかに人影はなく、がらんとしていた。
博物館は25年8月閉館【後記】3参照
久しぶりに展示室の一角に並べられた古武士然としたモールス音響通信機を眺めたり、無線通信機の前にある電鍵を触ったりした。そのうち、目の前に掲げられたイロハ順ならぬアイウエオ順のモールス符号表を見ながら、電鍵に手をそえ、コツコツと電鍵を叩きつづけていると、どこからかともなく、わたくしと同年輩とおぼしき制服姿のオジサンが現れた。
「スイッチを入れると音が出ます」
と親切に教えてくれた。電鍵は、立ったままスイッチを入れて叩くとあのピッピッーという無線通信の信号音が聞こえてくる仕掛けになっている。
「電鍵だけの音をわざわざ聞いているんです」
と答えようとして思わず言葉をのみ込み、そそくさとその場を離れた。
しばらく館内を回り、先ほど眺めた音響通信機の前にもういちど戻り、ガラス越しにその前に置かれた小さなプレートの説明を読むともなしに読んだ。そして、おやっと思った。今までここに何回か来て気づかなかったのはうかつであった。そこには、この通信機の「標準通信速度は1分間に75字のカナ文字が送受信できます」と説明されていた。
わたくしの電報局でのモールス通信の経験は、もう50年も前のもので、通信技能も自慢できるものではなかった。しかし、あの頃の先輩、同僚の技能はこの説明のようなものではなく、1分間75字とは認識不足もはなはだしいと思ったのである。モールス音響通信が電電公社の表舞台から姿を消して、まだ40年程しか経っていないに、本家本元にしてこのような認識不足、誤解が堂々とまかり通っていることに驚くしかなかった。
ちょうどそのころ仲間うちの会報に何か書かなくてはならない時だったので、このことをタネに実際にわたくしが見聞した電報局でのことを思いだしながら短文を書いた。
「この古いと笑われそうな話を書く気になったのは、黙ってこの通信速度の説明を見過しては、若い頃に出会った大勢の電信マンに顔向けができないと考えたからである」として、「明治から昭和30年代の終わりまで、わが国のインフラとして役割を果たしてきたモールス音響通信の社会的、歴史的な存在は、新しい世代によってさまざまな角度から功罪が論ぜられ、評価されるものと考える。ただ、去る者は日に疎しとはいえ、その存在を支えた、あの低技術の通信機を操作した人たちの高い技能については、事実ありのままを後世に伝えて欲しいと願うものである」とつけ加えた。
電電公社に勤務していた頃、電報安楽死論なるいやな言葉がささやかれた時期があった。この言葉の裏に感じられた、電報事業軽視の考え方がこのような通信速度の過小評価にもつながっているのではないか、などとも考えたくなるが、これは、いささかこじつけ過ぎだろう。なぜこのような説明になったのだろうか、と考えていて思いついたのは、どうもモールス無線通信と有線の音響通信の混同にその原因があるのではないかということだった。
調べてわかったことであるが、モールス無線通信には今も国家試験として、無線技士と無線通信士の資格試験がある。試験のなかでレベルのもっとも高いのは1級総合無線通信士である。その実技試験では、毎分75字の和文の送受技能が必要とされている。この公的な無線の資格基準が同じモールス符号を使う有線の音響通信と混同され、あの博物館のプレートに記載されたのではないかというのが、わたくしの憶測である。
わたくしには、無線通信の経験はないのだが、こと通信技術に関しては、両者ともモールス符号を使うこと、電鍵でその符合を送信し、遠隔地でそれを受信する点は共通である。しかし、後に述べるように音響器から聞えてくる信号音は天と地ほどの違いがある。通信速度も、どちらが速いか遅いかは別として、この音の違いはおのずとその通信速度を決める。
博物館のあの説明を無線電信との混同による単純ミスのせいではないかと考え、少しは気持ちが落ち着いてきたものの、この説明文を訂正してもらわぬことには気持ちが治まらないと強く考えた。
ところで、博物館には、電気通信のほか郵政、放送関係の資料も展示されている。運営は、NTT、郵政、NHK、KDDの共同で行われており、国内では権威ある博物館と言われているようだ。その展示室は、NTT持株会社が入っている8階建てビルの1階から3階までにある。NTTが東西に分割される前の現役時代、そのビルに勤務したこともあったので知っているが、博物館は見学者で結構賑わっていた。玄関先の駐車場が見学の小中学生などの団体客を運んできた大型バスで混雑するのもよく見かけた。
このような、天下の博物館を相手に、物申すとすれば正確を期さなくてはならないと、昔の電報局時代の友人に事実関係を確かめたりして、博物館に、そのとき書いた会報原稿を送ることにした。訂正を申し込む段になって、念のためにと、手元の少し古い名簿を調べた。運よくというべきか、現役時代の顔見知りが博物館に勤めているのを知った。これなら穏便にことが運びそうだと、早速電話をしてみると当人が電話に出た。「あのプレートの説明を訂正されると、話のタネがなくなり個人的には困るが、調査のうえ善処願えないでしょうか」と丁重に依頼し、原稿を送ることにした。相手は、いきなり権威ある展示室の説明に文句をつけるのが現れたかと、ちょっと驚いた様子であった。
実はその際、もう一つ事実関係を調査してほしいと依頼したことがあった。くだんの説明には、この電信機は「明治28年(1895)から昭和36年(1961)頃」まで使用されたとあったのである。使い始めの時期はさておき、終わりが昭和36年とは納得できないと思ったのである。この点も友人に問い合わせたところ、彼の勤めた電報局では昭和39年11月の電報の自動中継交換をもってモールス通信は終焉したとの返事をもらった。去った者の寿命を3、4年も短くするとは全くもって言語道断とまたまた一人憤慨し、この点の調査も依頼したのであった。
ファックスで原稿を送って1時間も経たないうちに電話があった。
「ちょっと調べさせてくれ。モールス音響通信はそんなに速いスピードが出せたのですか」
モールス通信に経験のない彼にとっては、にわかには信じ難いという口振りであった。
このようなやりとりをするうちに、若い頃のモールス通信のことがつぎからつぎに蘇ってくるのは不思議であった。それを少し書きとめてみたくなった。
これまで、多くの同窓によってそれぞれの熱き思いのモールス通信賛歌が語られてきた。
わがモールスに対する思いの深さは誰にもひけをとらぬと自負するものの、今更、漠とかすんだ半世紀前の体験と見聞を書くのは気がひける。それにもかかわらず、あえてわたくし自身のモールス通信の思いでを書くのは、経験のない人たちと違い、同窓の皆さんならば、古い話と一蹴することなく一読していただけるのではないかと期待するからである。
【後記】
1この「わがモールス音響通信の思いで」は、これから(5)まで掲載します。
本文は、九州逓友同窓会の会誌「相親」に「わがモールス音響通信見聞録」のタイトルで平成15年1月号から順次(3)まで掲載されたものです。平成15年7月同誌廃刊によりNo.4、5は原稿が返却され未発表となりました。その後、同期の同窓生には未発表分も読んでいただきましたが、この度、全文をブログとして掲載することにしました。
本文を書いてから13年余が経過し、読み返して訂正したい点も多々ありますが、字句の一部訂正にとどめ掲載します。
2.東京大手町の逓信総合博物館(ていぱーく)に展示されていたモールス音響通信機の通信速度は、訂正依頼をした後、「標準速度は1分間85字」と当時の標準通信速度に訂正されました。感謝し、付記します。
なお、博物館が1分間の標準通信速度を75字と説明していた原因について、その後も考えていたところ、Netで断片的に検索できる逓信総合博物館のHPにモールス音響電信機の写真と説明文を発見。
なんのことはない、原因はモールス音響通信機が実用化した当時の標準速度を、その後の向上を考えず、ずっと当初のままにしていたのが原因に違いない、と思った次第。
<下記が説明文のコピー>
使用開始は明治28年と書かれ、下記のようにその実用化は明治31年とあり、当時の速度を記している。
「手の動作でモールス符号を送信し、音響器の送信音でモールス符号を聞き分けて通信文を記録する音響電信機は、印字通信方式に比べて装置や取り扱いが簡便なため、通信能力を大変向上させました。標準通信速度は、1分間に75字のかな文字を送受信。実用化されたのは明治31年(1898)からでした。」
3.逓信総合博物館(ていぱーく)は、残念ながら平成25年8月閉館となった。
閉館後の史料展示:
・NTT関係史料
(1)武蔵野R&AセンターのNTT技術史料館(武蔵野市)に史料の一部を移転、R&Aセンターの史料とともに、毎週木・金の午後無料で公開。モールス音響通信機はこちらに展示されているのでそのうち見学したい。www.hct.ecl.ntt.co.jp
(2)大部分の史料はNTT東日本情報通信史料センタに保管。照会したところ、現時点では一般公開の予定はなく、事前予約により見学に応じているとのことである。<閉館後の 問い合わせ先: NTT東日本 情報通信史料センタ TEL:0422-38-8820>
・郵政関係史料
26年3月1日、東京スカイツリータウン(ソラマチ9F)に郵政博物館を新設、年中公開を開始。
www.postalmuseum.jp
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