◆寄稿 衛藤 利彦
私は熊本逓信講習所を卒業して北九州の八幡郵便局電信課に配属されました。その後、大分郵便局電信課(のちの電電公社大分電報局)に転勤。昭和18年3月、太平洋戦争が始まってから約1年3ヵ月ほど経過したときでした。日本が中国、南方の各地で輝かしい戦果を収めていたころと思います。
職場の大分郵便局は、木造の2階建で、その2階部分の電信課は、西側の旧電車通りと南側の道路に面していたと記憶しています。その頃の電信課は、他の課と比べて男性が多かった関係もあるかもしれませんが、トンツー屋気質というか先輩諸兄の顔にも何か異様な感じさえ覚える雰囲気でした。
当時の勤務時間は毎日が変則で、8時~16時、、9時~17時、10時~18時、宿直勤務等・・・中には10時~20時、11時~21時、12時~22時とか、通常私たちが「馬」の勤務時間と呼んでいた10時間の長い勤務時間の日もありました。しかし、現在とちがって「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に愚痴ひとつこぼさず、黙々と電鍵をたたきタイプライターを打ち続けたものです。
通常の勤務日でも、6時あるいは8時にやっと1日の勤めが終わり、ぼつぼつ帰る用意をしようと、一段高いところの席に座っている主事が、勤務担当表を下ろすのを待ち望んでいるが、なかなか下ろす気配がない。
すると主事が、「今日は1、2時間居残りを頼む」と大きな声をあげる。
その声を聞くと、恨めしさと腹立たしさで空腹を一層感じたものです。
当時の電信回線の状態はあまり良くなく、朝出勤して担当表で自分の勤務を見て一喜一憂したものです。よく担当した大分~下関の二重回線を例にとりますと、二重回線の通信は二人で回線にかかり、一人は受信専用、一人は送信専門、だいたい送信者が先輩で、受信者が後輩というのがしきたりになっていたようです。相手側から送られてくるモールス符号を受信するわけですが、符号がかすれたり、電文と字数が相違した場合などでは、先輩の送信者にちょっと送信の手を止めてもらって聞き直してもらいます。これが度々聞くとなると、先輩が担当の送信電報がたまるし、いやな顔をされるので、それを我慢して、なるべく後で訂正しようと、受信した電報をタイプライターの横に重ねておきます。その通数が多くなると横の先輩から叱られ、気合いを入れられることにます。そのたびに腹の中で泣いたものです。
この下関線というのが、送ってくる電報の発信局が旧朝鮮、旧満州からのが大部分で、大陸の各地を中継してくるものですから、中継のたびにその内容がおかしくなることも多かったようです。
1日の仕事が終わると、食事もそこそこに郵便局全体の軍事教練で、ゲートルを巻き、銃を持ち走らされたものです。頭が痛い、腹が痛いとかウソを言って休んでいると教官に知られ尻をたたかれる。軍隊に行っていた先輩がたまに局を訪れて話すのは、軍隊での苦しい話、たたかれた話などで、聞くたびに我々もあと僅かでそんな目に会わなければならないのか、と情けないやら恨めしいやらでした。
食べるものとて満足になく、空腹に耐えながら来る日も来る日も、電鍵とタイプライターを相手に過ごしたトンツー屋でした。
長い電信マン生活の中で特に思い出として頭に浮かんでくるのは、昭和19年頃から終戦後までの4年間ほど、郵便局から出向というかたちで同盟通信社大分支局に派遣されて、無線機を相手に仕事をしたことです。
当時の同盟通信社というのは日本でただ1つの通信社で、アメリカのUP、AP、INSなどと同じ形式で、東京本社で受信した世界各国のいろいろなニュースを、日本国内の各新聞社(主として各県庁所在地にある地元紙、大分なら大分合同、熊本なら熊本日々)にトラと呼んでいた自動送信機で電波を通じて流していました。
(終戦の年にこの会社は解散し、その後は共同通信社と時事通信者社が引継き、現在にいたっています。)
この共同通信社には、支局長以下新聞記者を含めて6名ほどいました。各地の通信社の支局の受信者は全員逓信省から派遣されて仕事をしていました。大分では私を含めて4名で無線に従事していました。仕事場は大分合同新聞社の一室で、郵便局と違って上司がいるわけでもないし、はじめは気分的に少しはのんびりした感じの日々でした。
夜間も受信はあるので交替で勤務をしていました。東京本社から全国各地への送信は一方通信方式でした。無線での送信ですから、空中状態が悪くてフェーディング状態のときには、モールス符号が聞き取りにくく脱字となってしまいます。しかし郵便局での通信と違って送信を止め、質問するわけにはいきません。受信電文の抜けた部分は通信社の人が市外電話で福岡とか門司とかに問い合わせねばならず、その度に顔をしかめられます。私たちも故意に脱字をしているわけでもないので、一見気楽な反面つらい面もありました。
しかし通信社に来た関係で、皆が知らないニュースを人より早く知ることができ、ひとり満足したものです。当時国民の大部分はNHK型ラジオしか使用することができず、大本営の発表のみを信じていたものです。私たちは高性能の受信機を使用していたものですから、大本営発表の戦果を受信し終わって、今度はダイヤルを回し、レシーバーでアメリカからの放送(当時はデマ放送と呼んでいた)を傍受すると、驚くことに日本の放送とアメリカの放送とは内容が正反対なのです。
例えば大本営の発表では、敵に与えた損害は、撃沈 空母1、戦艦2、飛行機撃墜何機、我が方の損害は未帰還機3機で軽微であるとなっているのが、アメリカの放送では逆になっている。
当時は私たちもアメリカは何を言うか、と一笑に付していましたが、戦後になって諸記録を読むと、実際は日本がウソの放送で国民をだましていたことが明らかとなりました。一方、放送を聞いているときは、常に外の階段の靴音を気にしていました。1日に1、2回は憲兵または特高警察が通信室に様子を見に来ていたからです。
◆ 寄稿者紹介
・衛藤利彦 大分県 大正15年(1926)~ 平成12年(2000)熊本逓信講習所普通科卒
・出典:この寄稿文は、かつて「大分電報同窓会」開催日に席上配布されたものを会員の中川啓輔氏が保存されていたものです。
・友人の中川氏には、寄稿文のブログ入力、ご遺族へ寄稿承諾の依頼などお願いしました。ご遺族と中川氏に 厚くお礼申しあげます。(2016/2月増田)
私は熊本逓信講習所を卒業して北九州の八幡郵便局電信課に配属されました。その後、大分郵便局電信課(のちの電電公社大分電報局)に転勤。昭和18年3月、太平洋戦争が始まってから約1年3ヵ月ほど経過したときでした。日本が中国、南方の各地で輝かしい戦果を収めていたころと思います。
職場の大分郵便局は、木造の2階建で、その2階部分の電信課は、西側の旧電車通りと南側の道路に面していたと記憶しています。その頃の電信課は、他の課と比べて男性が多かった関係もあるかもしれませんが、トンツー屋気質というか先輩諸兄の顔にも何か異様な感じさえ覚える雰囲気でした。
当時の勤務時間は毎日が変則で、8時~16時、、9時~17時、10時~18時、宿直勤務等・・・中には10時~20時、11時~21時、12時~22時とか、通常私たちが「馬」の勤務時間と呼んでいた10時間の長い勤務時間の日もありました。しかし、現在とちがって「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に愚痴ひとつこぼさず、黙々と電鍵をたたきタイプライターを打ち続けたものです。
通常の勤務日でも、6時あるいは8時にやっと1日の勤めが終わり、ぼつぼつ帰る用意をしようと、一段高いところの席に座っている主事が、勤務担当表を下ろすのを待ち望んでいるが、なかなか下ろす気配がない。
すると主事が、「今日は1、2時間居残りを頼む」と大きな声をあげる。
その声を聞くと、恨めしさと腹立たしさで空腹を一層感じたものです。
当時の電信回線の状態はあまり良くなく、朝出勤して担当表で自分の勤務を見て一喜一憂したものです。よく担当した大分~下関の二重回線を例にとりますと、二重回線の通信は二人で回線にかかり、一人は受信専用、一人は送信専門、だいたい送信者が先輩で、受信者が後輩というのがしきたりになっていたようです。相手側から送られてくるモールス符号を受信するわけですが、符号がかすれたり、電文と字数が相違した場合などでは、先輩の送信者にちょっと送信の手を止めてもらって聞き直してもらいます。これが度々聞くとなると、先輩が担当の送信電報がたまるし、いやな顔をされるので、それを我慢して、なるべく後で訂正しようと、受信した電報をタイプライターの横に重ねておきます。その通数が多くなると横の先輩から叱られ、気合いを入れられることにます。そのたびに腹の中で泣いたものです。
この下関線というのが、送ってくる電報の発信局が旧朝鮮、旧満州からのが大部分で、大陸の各地を中継してくるものですから、中継のたびにその内容がおかしくなることも多かったようです。
1日の仕事が終わると、食事もそこそこに郵便局全体の軍事教練で、ゲートルを巻き、銃を持ち走らされたものです。頭が痛い、腹が痛いとかウソを言って休んでいると教官に知られ尻をたたかれる。軍隊に行っていた先輩がたまに局を訪れて話すのは、軍隊での苦しい話、たたかれた話などで、聞くたびに我々もあと僅かでそんな目に会わなければならないのか、と情けないやら恨めしいやらでした。
食べるものとて満足になく、空腹に耐えながら来る日も来る日も、電鍵とタイプライターを相手に過ごしたトンツー屋でした。
長い電信マン生活の中で特に思い出として頭に浮かんでくるのは、昭和19年頃から終戦後までの4年間ほど、郵便局から出向というかたちで同盟通信社大分支局に派遣されて、無線機を相手に仕事をしたことです。
当時の同盟通信社というのは日本でただ1つの通信社で、アメリカのUP、AP、INSなどと同じ形式で、東京本社で受信した世界各国のいろいろなニュースを、日本国内の各新聞社(主として各県庁所在地にある地元紙、大分なら大分合同、熊本なら熊本日々)にトラと呼んでいた自動送信機で電波を通じて流していました。
(終戦の年にこの会社は解散し、その後は共同通信社と時事通信者社が引継き、現在にいたっています。)
この共同通信社には、支局長以下新聞記者を含めて6名ほどいました。各地の通信社の支局の受信者は全員逓信省から派遣されて仕事をしていました。大分では私を含めて4名で無線に従事していました。仕事場は大分合同新聞社の一室で、郵便局と違って上司がいるわけでもないし、はじめは気分的に少しはのんびりした感じの日々でした。
夜間も受信はあるので交替で勤務をしていました。東京本社から全国各地への送信は一方通信方式でした。無線での送信ですから、空中状態が悪くてフェーディング状態のときには、モールス符号が聞き取りにくく脱字となってしまいます。しかし郵便局での通信と違って送信を止め、質問するわけにはいきません。受信電文の抜けた部分は通信社の人が市外電話で福岡とか門司とかに問い合わせねばならず、その度に顔をしかめられます。私たちも故意に脱字をしているわけでもないので、一見気楽な反面つらい面もありました。
しかし通信社に来た関係で、皆が知らないニュースを人より早く知ることができ、ひとり満足したものです。当時国民の大部分はNHK型ラジオしか使用することができず、大本営の発表のみを信じていたものです。私たちは高性能の受信機を使用していたものですから、大本営発表の戦果を受信し終わって、今度はダイヤルを回し、レシーバーでアメリカからの放送(当時はデマ放送と呼んでいた)を傍受すると、驚くことに日本の放送とアメリカの放送とは内容が正反対なのです。
例えば大本営の発表では、敵に与えた損害は、撃沈 空母1、戦艦2、飛行機撃墜何機、我が方の損害は未帰還機3機で軽微であるとなっているのが、アメリカの放送では逆になっている。
当時は私たちもアメリカは何を言うか、と一笑に付していましたが、戦後になって諸記録を読むと、実際は日本がウソの放送で国民をだましていたことが明らかとなりました。一方、放送を聞いているときは、常に外の階段の靴音を気にしていました。1日に1、2回は憲兵または特高警察が通信室に様子を見に来ていたからです。
◆ 寄稿者紹介
・衛藤利彦 大分県 大正15年(1926)~ 平成12年(2000)熊本逓信講習所普通科卒
・出典:この寄稿文は、かつて「大分電報同窓会」開催日に席上配布されたものを会員の中川啓輔氏が保存されていたものです。
・友人の中川氏には、寄稿文のブログ入力、ご遺族へ寄稿承諾の依頼などお願いしました。ご遺族と中川氏に 厚くお礼申しあげます。(2016/2月増田)
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