小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×カタリーナ・ヴィンツォー(7/13)

2024-07-15 08:43:54 | クラシック音楽
日本デビューとなる1995年生まれの指揮者カタリーナ・ヴィンツォーと読響の共演。4日前にはサントリーでブラームス2番などを振ったが、やや優等生的な印象で、芸劇でのプログラムにはあまり期待をしていなかった。結果として、二公演聴いておいてよかった。20代で世界中の名門オケに客演している理由が分かり、将来有望であることは勿論、今の若さで聴きたいと思わせる輝かしいエネルギーが感じられた。

ドヴォルザーク 序曲《謝肉祭》から読響の全パートが強力なパワーを発していた。ノースリーブの黒いブラウスと黒いボトムスで登場したヴィンツォーは溌剌とした指揮で、立体的で熱狂的なサウンドをオーケストラから引き出す。奥にいる管楽器と打楽器が前に飛び出してくるような迫力があり、たくさんの種類の面白い音が聴こえる。10分ほどの曲だが、指揮者のスタミナがオケの迫力を引き出す様がありありと伝わってきた。理路整然とした棒で、柔軟性もあり、わくわくするイマジネーションを感じさせた。

モーツァルト『フルートとハープのための協奏曲』では、フルートのマチュー・デュフォーと読響ハープ奏者の景山梨乃さんがソロパートを演奏。ロココ絵画の抜けるような青空が見え、一気に涼しい気分に。モーツァルトは声楽曲も「素直に」歌うのが一番美しいが、ヴィンツォーの正確さにこだわる明晰な音楽作りはモーツァルトで活き活きとしていた。デュフォーのフルートは天上の響きで、景山さんのハープと溶け合っていつまでも聴いていたくなる。ホールの隅々まで柔らかい音が響き渡り、外気の蒸し暑さを忘れた時間だった。

個人的に正統派のアプローチというものが苦手で、指揮者もソリストもニッチな美学の持ち主が好みなのだが、どんなときも基礎をストイックに叩き込んだ音楽家は無敵だと改めて気づかされた。ヴィンツォーの後ろ姿からは、ローカルなポジションに収まるつもりなんかない、秘められた野心が感じられたのだ。
先日聴いたプラハ放送響では、若き熱血指揮者ポペルカのドヴォルザークがどことなく垢ぬけない印象で(濁り酒の味わいはあったが)国際的なキャリアを上っていったフルシャは最初から違っていたのか、途中から方針を切り替えたのか色々考えてしまった。棒一本で世界に殴り込みをかけるという生き方とはどういうものなのか。圧倒的な才能に加えて、コミュニケーション能力やひらめく知性、温かい人間性や冷静さなど多くのことが求められる。

少なくとも「女性指揮者」というカテゴリーは、ますますメジャーになってきて、読響も今年に入ってからだけでもマリー・ジャコやステファニー・チルドレスら新鋭マエストロをゲストに迎えている。実力があれば、女性ということが武器にもなる時代。ヴィンツォーの経歴を見ると、24歳でダラス響のルイージの副指揮者に就任し、ムーティやズヴェーデンのマスタークラスに参加という記述があるが、師の教えをスポンジのように吸収し、与えられた可能性の中で最高の表現を目指してきたのだろう。

どんな仕事も、周囲の応援やスカウトがあってこその出世だが、まず本人が「何を目指しているか」が重要なのだと気づかされた。後半のドヴォルザーク「交響曲第8番」では、オーケストラを完璧に掌握し、曲の優美さや面白さを次々と聴かせるヴィンツォーの魔術に驚愕。リハーサルから素晴らしい高揚感だったのだろう。ドヴォルザークの中のワーグナー的な響きにもはっとした。オペラも振るという彼女、もしかしたら数年以内にバイロイトのピットに入っているかも知れない。最終楽章の冒頭のトランペットが、この指揮者の「私は勝つ!」という勝利のファンファーレに聴こえた。脳のノイズに毒されたり、余計な悩みを抱えなければ、この若さでこんな高邁な音楽を創り上げることが出来る。オーケストラからの喝采にぴょんぴょん嬉しがる仕草はまだ20代で、さきほどまで指揮台にいた「女皇帝」はどこへ行ったのか。読響との相性は抜群で、ヴィンツォーにとって素晴らしい夏になったはず。猛暑と湿気のひどい天候が続く中で、ホールの中だけは爽やかな夏の祝祭が繰り広げられた。




新国立劇場『トスカ』(7/10)

2024-07-12 12:28:03 | オペラ
新国立劇場『トスカ』の二日目を鑑賞。アントネッロ・マダウ=ディアツの豪華な演出は2000年から新国で上演され、今回が9回目。個人的には5回目の鑑賞になるが、4年ぶりの新国トスカはゼッフィレッリ版より格段に豪華に感じられ、あらゆる瞬間が完璧な絵のようだった。若くて美しいジョイス・エル=コーリーのトスカ、勇敢で押しの強いテオドール・イリンカイのカヴァラドッシなど歌手陣も良かったが、この公演で最も心を揺さぶられたのはピットのオーケストラの美麗さだった。1952年生まれの巨匠マウリツィオ・ベニーニと東京フィルの強力な協調体制が、オペラを最高のものに仕上げていた。

今年はプッチーニ没後100年で、先月から二本の『蝶々夫人』のライブビューイング(ロイヤル・オペラ・ハウスとMET)、パッパーノ最後の任期となるロイヤル・オペラ・ハウス『トゥーランドット』など、立て続けにプッチーニ・オペラを観る機会があった。重層的でドラマティックなオーケストラ、ヴェリズモ的な歌手たちの演技にオペラの最高の完成形を見る思いで、こんなものを書いてしまう作曲家の脳はどのようになっているのか甚だ謎だった。

『トスカ』は1900年1月の初演で、プッチーニは1858年12月生まれだから、実際のところ40歳でこのオペラを書いている。その4年前には『ラ・ボエーム』、4年後には『蝶々夫人』を書いていて、『トゥーランドット』はその20年後…と記者会見で説明してくれたパッパーノの言葉を思い出した。指揮者は指揮台の上でスコアに敬意を評しつつ、心のどこかで「40歳でこれを書いた…!」と驚きを隠せないはずだ。
マエストロ・ベニーニと東フィルは何度目の共演だろう。冒頭の恐怖のモティーフから、雄弁で心理的な音が飛び出した。ピットの床を高めに設定しているのか、指揮者のやっていることがすべて見えるのが嬉しい。こういう見方をしていいものか分からないが、3時間の公演で、ほぼピットとマエストロに釘付けになってしまい、素晴らしいことが行われている舞台のまぶしさよりも、暗闇で行われていることに心を奪われていた。

堂守の志村文彦さんの、片足を引きずるような演技が今回も本当によく出来ていて、堂守が教会でぶつくさとつぶやく場面からピットは宝石箱の輝きで、セットの階段までもがオケの音によって造形されている感覚があった。リコルディの安い版のスコアを持っているので後から見てみたが、かろうじておたまじゃくしを追えるだけで、このびっしりと書き込まれた縦の線を指揮者が「音楽」にしていくのは素人の自分にとっては奇跡としか言いようがない。歌手たちは最高のオーケストラに包まれて、幸福な気分で歌っているように見えた。テンポも自然で、呼吸するような感じ。一幕でトスカとカヴァラドッシが無邪気に(!)で歌うデュエットでは、管楽器パートから小鳥や色とりどりの花を思わせる音が飛び出し、こんなにカラフルで陶酔的なオーケストラをプッチーニは書いていたのだ…と驚かされた。初めて聴くような世界だった。

スカルピアは健康上の理由で降板したニカラズ・ラグヴィラーヴァの代わりに青山貴さんが登板。悪役メイクで豪華な「テ・デウム」を歌い、2幕でのトスカ拷問も役になり切っていた。黒光りする迫力のバリトンで、青山さんの恵まれた声質が悪役でも生きていた。トスカ役のエル=コーリーは肉食系の濃い演技で相手役にぶつかってくるが、スカルピアは不動の威厳でエゴを通していく。精神の力を感じる修羅場だった。

ライトモティーフの組み立て方が、ワーグナーより洗練されている…というか、もっと無意識の次元に食い込んでいて、出来事・状況・心理といった全体の成り行きが、登場人物の輪郭を超えて交通している。アンジェロッテイ、堂守、スカルピアは全くの別人だが、あるモティーフを共有していて、マイナーになったりメジャーになったりしながら魔法のしりとりのように組み立てられていて、それは「夢の論理」とも呼びたい無意識層のロジックによって完成している。激越な表現となるカヴァラドッシの拷問、トスカの殺人のシーンはマエストロも炎のようになって指揮棒を震わせていた。最初から最後まで「一生懸命」な指揮で、心を込めてオケを導いているのがわかった。ベニーニは人生の中で何度「トスカ」を振ったのだろう。彼の人生のすべてが指揮棒に託されていた。

そのことを、オペラに関して百戦錬磨の東京フィルはすべて理解して、オーケストラの経験値を総動員して応えていた。日常的に劇場の響きを知り尽くしている強味を活かして、「この劇場で上演されるトスカ」の最高の響きを目指していたと思う。ピットの中で、お互いの音がどう聴こえているのかは分からないが、劇場全体に広がる調和は奇跡的で、今まで聴いたどのプッチーニよりも心に響いた。
ラストまで緊張の糸は切れず、歌手たちも事故なく過酷な役を歌い切った。「プッチーニとは何者か」という問いの答えが少しずつ頭の中ではっきりしてきて、それはありきたりのようだが「音楽で心理を表現するすごい天才」ということに尽きた。『蝶々夫人』も『トスカ』も残酷物語であるどころか、こんなに清潔な作品はない。音楽には美しかなく、寄木細工のようなオーケストラは一秒も退屈な音を鳴らさない。喝采の中、舞台に上がったベニーニが、チェロや管楽器を演奏するジェスチャーをして、ピットの奏者に敬意を評していた姿も素晴らしかった。歌手だけでなく、作曲家が書いたすべての音譜をすべての細胞で聴いた心地がした異次元の名演。











英国ロイヤル・オペラ『トゥーランドット』(6/23)

2024-06-26 22:52:37 | オペラ
音楽監督アントニオ・パッパーノの22年にわたる任期のラスト・シーズンとなったメモリアルな引っ越し公演。意外にも来日公演でパッパーノがプッチーニを振るのは初めてだという。演出はアンドレイ・セルバンによる1984年からロイヤル・オペラで親しまれてきた年季の入ったもので、幽霊が出そうな木造の紫禁城、処刑された王子たちを思わせるグロテスクな巨大仮面、京劇風のダンスや大掛かりな山車など、面白いものがたくさん出てきた。

直前でトゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーの急病による降板が発表され、これは劇場も招聘元も肝をつぶしかけたと思う。脇役ではなくタイトルロールが来られなくなってしまった。どんなときも冷静でなくてはいけないのが音楽監督である。プッチーニ・オペラの恐怖に満ちたイントロを勢いよく鳴らす指揮者は多いが、ピットに入ったパッパーノが奏でたのはもっと意義深い音だった。ドラマティックでありながら、皆が安全に舞台をこなせるように、慎重さも交じり合った重層的な音だった。ゲスト指揮者ではない、22年間劇場を率いてきた指揮者の出す音だと思った。任期の間中劇場の安全を祈り、スタッフ全員に愛情を注いできたリーダーの精神を思った。

ギャラリー状の装置に並ぶ合唱が、地声を強調した独特の発声で、トゥーランドットの処刑の恐怖に干上がる民のパニックがよく表れていた。ロイヤル・オペラ合唱団は変幻自在で、『リゴレット』ではまた違うキャラクターの声を聴かせてくれたが、『トゥーランドット』はエキゾチックな東欧の民族音楽のような合唱で、劇の内容に合っていた。マサバネ・セシリア・ラングワナシャのリューのアリア「お聞きください王子様」に大喝采が巻き起こる。カラフのブライアン・ジェイドも美声で、立ち姿も勇敢な王子そのもの。ティムールのジョン・レリエは映画俳優のような長身のバスで、演技もいいので最後までオペラグラスで追ってしまった。ピン・パン・ポンは高圧的な宦官として描かれることもあるが、この演出では面白い道化で、ダンサーなみの身体表現をしながら器用に歌っていた。

2幕のトゥーランドット登場は息を飲んだ。代役のマイダ・フンデリングが、超絶的な声で「この宮殿で…」を歌い始めたとき、物語のすべてを組み伏せるのは「声」なのだと痛感した。トゥーランドットは千年前に蛮族に殺された先祖のロウ・リン姫の呪いに憑依されていて、「求婚者になぞなぞを仕掛けて処刑する」彼女の残虐性は、ある種の「霊障」によるもので、姫は高貴であると同時に祟りの象徴なのだ。リューが可哀想だから、最後にトゥーランドットを自害させるという演出も見てきたが、それではカラフの勇敢さが台無しになってしまう。
トゥーランドットはダイヤモンドのように攻撃的なマルチカラーの色彩を、超音波のソプラノで表す。それはリューにはない超越的なもので、カラフはそれに魅了されると同時に、恐怖と退廃に満ちた北京全体を救おうとする。三つの問いも、フンデリングの歌唱は緊張感を緩めることなく、それに応えるジェイドも勇敢。天界から降りてきた黄金の玉座の皇帝アルトゥムの前で繰り広げられる男女の声の応戦は、声楽のオリンピックのようでもあった。

問いに答えて勝利したカラフの前で、どんどん弱くなっていくトゥーランドットの演技もよく、力の入れどころを最大限に見せたあとは、滑り台を落ちていくように「人間の女」になっていく。リューの「氷のような姫君の心も」では皆が泣きたくなるが、カラフの愛が「活きる」のはトゥーランドットを氷解させてこそなのだ。
3幕の「誰も寝てはならぬ」で聴衆を陶然とさせ、さらに愛と命を危険な秤にかけていくカラフは、後ろ姿まで勇士そのもので、「カラフは勝利に向かって最後まで駆け抜けていく」と語っていた記者会見でのブライアン・ジェイドの言葉を思い出した。

プッチーニが書いたはのは「リューの死」までで、そこからエンディングまではアルファーノによる補筆だが、その断絶感をオケからありありと聴かせられたことにもはっとした。補筆部分に納得せず、アルファーノの書いた譜面から100 小節をカットし、プッチーニのスケッチにより近づけるよう書き直させたというトスカニーニに感謝である。そうした作業の後でも、プッチーニの現代性とアルファーノの通俗性は歴然としており、プッチーニは最後のオペラで先の先まで行っていたことが理解できた。

カーテンコールに登場したNHK児童合唱団は30名近くいたと思う。みんなこの上演のために一生懸命練習をしてきたのだと思うと有難くて胸が熱くなった。「トゥーランドットは歌い損」のジンクスを破って、リューに負けない大きな喝采を姫が受けていたことにも安堵(?)した。
パッパーノはロンドン交響楽団のポストが決まっているが、今後は歌劇場のシェフになることはないという。40代前半から64歳の現在まで、音楽家としての人生をロイヤル・オペラに捧げ、劇場の平和を願って、ブレクジットやコロナ禍も乗り越えて皆を守ってきた。22年の任務を終えるタイミングで実現したこの引っ越し公演は、やはりとんでもなく感動的なものだった。奇跡的なオペラ公演に熱狂し、総立ちになった観客の姿が目に焼き付いた。






シャルル・デュトワ×新日本フィル(6/11)

2024-06-20 14:22:49 | クラシック音楽
6/8のトリフォニーホールでの演奏会が高い評価を得ていたデュトワ&新日本フィルの共演。6/8と同様6/11のサントリーも売り切れとなり、上階には補助席も出ていた。87歳のマエストロは颯爽と指揮台に上り、ハイドン『交響曲第104番 ニ長調《ロンドン》』から優美なサウンドがホールに溢れ出した。ハイドン最後の交響曲は古典美からはみ出すような妖艶さもあり、アンダンテ楽章はモーツァルトオペラの色っぽい女声のアリアを聴いている心地がした。器楽演奏から「人の声」の気配を感じたのは実は1楽章のアダージョ~アレグロ楽章からで、合奏が合唱のように聴こえ、「これはなんだろう」と神秘的な感慨に包まれた。個人的にハイドンには強い思い入れを持つことが難しい。19世紀後半から20世紀初頭のエモーショナルな煮込み料理のような音楽が好みの自分にとって、ハイドンはあまりに端正で明晰すぎるのだ。ところが、デュトワが新日本フィルから引き出す世界には、色も艶も「愛の切なさ」のようなものもあり、まさにオペラ的だった。ハイドンは生前にマリオネット劇も含むオペラを多数書いたが、多くが散逸したり真偽不明だったりして残っていない。性格的に品行方正すぎてオペラのいかがわしさと絆を持てなかったハイドンの「裏側」が浮き彫りにされていたように思った。

30分のハイドンの後に休憩があり、その後に1時間のストラヴィンスキーとラヴェル。オケの編成上、後半が長くなるのは仕方ない。ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ(1911年原典版)』が神がかっており、ヴェルベットのような弦に、個性的な管楽器が正確に乗り、迫力の打楽器、チェレスタ、ハープが宝石のように音楽を飾る。この演奏会のためにピアニストの阪田知樹さんがオケに加わったのも贅沢この上なかった。フォーキン振付の『ペトルーシュカ』は日本でもロシアでも何度か観ているが、ピットのサウンドからはこのような完璧な音楽を聴くことは稀だ。この夜は格別で、精緻に演奏されればされるほど、ストラヴィンスキーの過激な「遊戯性」が明らかになった。藁人形ペトルーシュカの少ない脳みそが書いたような、子供の落書きのようなメロディがいくつも書き込まれているのだ(いくつかはロシア民謡を思わせる)。「ペトルーシュカの部屋」では3つの管楽器が、追いかけっこをするように単純なメロディを奏で、そこにはヒロイズムも深遠さもないのに、ひどく心を揺さぶられる。不器用なペトルーシュカは人間に憧れるボロ人形で、バレリーナの人形に恋をし、強者であるムーア人に打ちのめされ、最後は魂だけの存在になって天空に吸い込まれていく。この物語はストラヴィンスキーが眠っているときに夢で見た話で、そのプロットを使ってバレエ・リュスのために曲を書いた。現実と夢、大人と子供、人間と人形を往復するようなイマジネーションが潜んでいる。文明の外にある不思議言語を使って、圧政と権力の恐怖も描き出してみせた。

5日間のリハーサルを重ねたというデュトワとオケの「共作」で、奇妙なことにペトルーシュカの最中、ほとんど客席から指揮者を見ることがなかった。デュトワの気配を感じつつ、一人一人の奏者の姿に釘付けになり、特に緊張度の高い管楽器群の活躍には目を奪われた。指揮者の統率力が音楽を完成させているのは明らかだが、見方を変えれば指揮者は影武者であり、そう感じられることが大変未来的に感じられ、嬉しくなった。「謝肉祭の夕方」が演奏されるあたりでは、ペトルーシュカを聴きながらひたすら涙しているおかしな自分がいた。

偉大な指揮者というのは紛れもなく存在するが、実際に鳴らすのはオーケストラで、指揮者とオケは一心同体で価値を発揮する。デュトワの指揮は「あなたがいなければ私はダンスを踊ることが出来ないのです」と、オケ全員に手を差し伸べているような指揮だった。長いキャリアの中で様々な経験をした芸術家が、最終的に到達した境地というものを感じずにはいられなかった。

最後のラヴェル『ダフニスとクロエ』は「夜明け」から素晴らしい色彩感で、音から湿度や「粘菌」のように飛び交う微粒子を感じた。原作は2~3世紀にギリシア語圏で書かれたラブストーリーで、時間の枠を超えた世界に憧れていたラヴェルの創造性が爆発的に発揮されている。名曲と呼ばれるものの何割かは、バレエ音楽なのだ。デュトワにとってフランスものは朝飯前であり、ペトルーシュカの不協和音の後ではひたすら艶麗な音楽で、デュトワも踊るような柔らかい動きだった。各セクションはいずれも精緻を究め、特にフルート首席の野津さんの活躍が目覚ましく、曲終わりでデュトワが指揮台に上らせるほど。コンマスのチェさんはハイドンから、ストラヴィンスキー、ラヴェル、すべての曲でデュトワから感謝の抱擁を受け、指揮台の高いところからコンマスをぎゅっと胸に抱きしめる指揮者のツーショットは、まるで母と赤子のよう(!)だった。ソロ・カーテンコールにはデュトワは現れず、チェさんが代わりに挨拶された。現れないのは「主役はオケですから」の指揮者の意図だと思ったが、後半は流石にハードでお疲れだったらしい。オーケストラサウンドの頂点を聴いた伝説の夜だった。





新国立劇場『コジ・ファン・トゥッテ』(5/30)

2024-06-04 00:23:33 | オペラ
新国『コジ・ファン・トゥッテ』の初日を鑑賞。ダミアーノ・ミキエレット演出の「サマーキャンプ」コジの再演は11年ぶりだというが、この面白い演出を観てからそんなに時間が経っていたことに驚いた。2011年の初演と2013年の再演では、18世紀ナポリを現代に置き換えたエキセントリックな発想にただただビックリしたが、今回これが本質的に優れていることを改めて実感した。

モーツァルトの音楽が、テントやキャンピングカーやバーベキューグリルに全く邪魔されないどころか、逆に活き活きと輝いている。ミキエレットは2014年の二期会『イドメネオ』の上演のとき来日しているが、気鋭の若手演出家という印象で、コジもイドメネオもあまりに斬新なのでちょっと悪ノリしているのではないかと思ったが、そう見せかけておきつつオペラの心臓部をいきなり鷲掴みにしている。「そうか、あの人は天才だったのか」と冷や汗をかいた。

今回の再演のキャストが最高だった。フィオルディリージのセレーナ・ガンベローニもドラベッラのダニエラ・ピーニ(2011年の初演時にもドラベッラを演じた)も、大変立派な歌手で、カジュアルなタンクトップとショートパンツの衣装を着てもらうのが申し訳ないほど神々しい歌声。フェルランドのホエル・プリエトも根性の座った(!)美声のテノール歌手で、見栄えもよい。グリエルモは当初キャスティングされていた歌手が芸術的理由から降板とのことで、大西宇宙さんが演じたが、朗々たるバリトンとサービス精神旺盛な演技で見事な当たり役だった。登場の瞬間からホールを埋め尽くす迫力満点の声で、水遊びの場面で上半身をむき出しにするシーンでは、「つけ胸毛」まで付けていた。本気のグリエルモに嬉し涙が出た。

ドン・アルフォンソはサマーキャンプの仕切り役で、ミキエレットは万国共通の「夏のアルバイトで学生を啓蒙する説教おやじ」をイメージしたのだと思うが、今回は新しいキャラクターだった。この役を演じたフィリッポ・モラーチェはナイーヴな雰囲気を醸し出し、自分がけしかけた若者たちの動きを物陰からつねに覗いていて、自分はデスピーナから迫られると恋愛恐怖症の内気な男性のように怖気づいて逃げてしまう。「本物の愛なんて存在しない」という実験が成功することで、愛が怖くて踏み込めない自分を肯定したいのだ。こういう設定を、過去二回の上演ではちゃんと読み取ることが出来なかった。

デスピーナはお色気たっぷりの機知に富んだ女性で、15歳より年上の設定に見える。九嶋香奈枝さんが八面六臂の大活躍で、コケティッシュでコミカルで見事なデスピーナだった。にせの医者や公証人に変装する場面も最高で、毒を注ぐように姉妹に浮気をけしかける様子も魅力的なのだ。1幕の終わりではドン・アルフォンソとカップルになり(!)ここからドン・アルフォンソは癒されていき、2幕では男女カップル交換の実験には半分興味を失っているように見えた。

歌手たちはこの演出でたくさんのことをやらねばならず、木がたくさん茂っている岩山状態の装置はかなり高速で回転し、そこに登ったり降りたり、ジャストなタイミングで歌い終えて地面に戻ってこなくてはならない。変装したフェルランドとグリエルモの熱演は、他のどの演出にもないほどのヒートぶりで、ロックなバイク野郎に扮した二人は必死に自分の標的を陥落させようとする。愛の悪ふざけに苦しむフィオルディリージに、本来のカップルの片割れであるグリエルモがそっと毛布(?)をかけてやる場面にぐっときた。
コジはそれぞれのソロ、二重唱、四重唱が本当に美しく、モーツァルトは神の旋律を書いたと思わせる。歌手たちの扮装がロココから遠ざかれば遠ざかるほど、音楽の聖なる響きが際立っていく。今回のミキエレット演出がこんなふうに素晴らしく見えたのは、4人が完璧なモーツァルト歌手として真剣に歌ってくれたからだ。

音楽は聖堂で鳴っているようで、目に見えるのは俗っぽいサマーキャンプというギャップ。合唱も現代の若者たちの格好をしていて、一人一人の演技も細かい。恋人たちが戦争から帰ってきて、浮気の結婚がばれ、男たちの悪戯も明るみになるが、一度傷ついた心は簡単に癒されない。恋人たちはよそよそしく離れ、デスピーナも呆れてドン・アルフォンソは孤立する。前回は、二組のカップルがダメになったのを見て、ドン・アルフォンソが「やったぜ!」と喜ぶラストだったが、今回は全く違っていて、誰も幸福にならない結末だった。歌手たちは嫉妬に苦しみ、ヴェリズモオペラのようなアリアを歌い、最後はその愚かさに「笑えない」というゴールに辿り着く。
長いオペラがあっという間で、凄い密度だった。飯森範親さんの指揮は気品とドラマ性を兼ね備え、東京フィルも一瞬たりとも緩まない見事な演奏。演出家とオーケストラ、モーツァルト歌手たちへの尊敬が止まらない「神演」だった。