小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

サー・アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカ(3/21)

2025-03-26 02:29:14 | クラシック音楽
アンドラーシュ・シフと28人の音楽家たち~カペラ・アンドレア・バルカの最後の日本ツアー、完売の東京公演に先立ってミューザ川崎シンフォニーホールで行われたオール・J.S.バッハ・プログラムを聴いた(3/21)。「メンバーも皆高齢なので」と昨年の記者会見でシフは語っていたが、見た目のベテランぶりと反比例するように音楽は活き活きと瑞々しい。ピアニストの弾き振りでピアノ協奏曲第3番、第5番、第7番、第2番、休憩をはさんで第4番、第1番が演奏され、大変しっくりくる曲順で楽しめた。
シフは一曲目の3番の1楽章アレグロから楽しそうで、ぽんぽんと叩くようにベーゼンドルファーをプレイしていた。ピアノは気ままに加速して、弦楽器奏者たちはメトロノームが同じリズムに同調するように合わせていく。最近のシフは一人で弾くときも軽やかな表情で、2010年代の前半に聴いたようなシリアスな表情ではなくなったが、それにも増してコンチェルトでは楽し気だった。

5番のラルゴ楽章の前には、皆に向かってゆっくり合図をしていた。ピツィカートが甘美で有名なメロディを奏で、バッハの「ロマンティック」が桜が一斉に咲くように花開いた。演奏会が行われた3/21は春分の日の翌日で、バッハのユリウス暦の誕生日だったので、「はじまり」と「祝福」の気運を感じずにはいられない。作曲家はその時代の様式の中で最大限の「個」を表し、シューマンもマーラーもそのように曲を書いたが、バッハの音楽にはエゴというものが感じられず、それでいてバッハ以外の何者でもない。一つの音が別の音に飛んでいくとき、隕石が落ちてきたようにエキセントリックに感じられる箇所もあったが、それも全体の中では巨大な宇宙の摂理に飲み込まれていく。スケールが大きく、遊戯的で魅惑的で、何より美しかった。色彩の異なる華麗なバロック時代のドレスが次々と現れるような、装飾的で雅やかな音の屏風絵だった。

この音楽の自然さはちょっとすごいな…と思った。音に浸かりながら何度もメンバーの数を数えてみたが(多分28人いた)ステージの下手と上手に一人ずつ配置されたバス奏者の、上手側の女性奏者が「本当に幸せでたまらない」という表情で身体を揺らしながら弾いているのが目に入った。他のメンバーもノーストレスで、文字通り「プレイ」していて、シフが曲の始まりにつける装飾的なパッセージにも遊び心があった。旋回する半音階の表現はリストを先取りした超絶技巧で、時代を超越した前衛性も感じられる。シフのテクニシャンぶりも全く衰えることなく、まったく疲労感を見せぬまま6曲を弾き切った。彼を尊敬する生徒たちの前では謹厳な教師である彼が、「バロックの遊び心」をふんだんに満喫している姿が愉快。クラヴィーアのために書かれたコンチェルトは鍵盤楽器ならチェンバロでもフォルテピアノでも何でもいいのだし、その日に出たサイコロの目で色々なことを決めていくような気まぐれな雰囲気もあった。バロック音楽は「音学」なんかではまったくないのだ。

妖艶ささえ漂わせた「香り」のある演奏で、それは春の香りでもあり、作曲家の生まれた季節が万物の芽吹く春であったことと関係があるようにも感じられた。冬の終わり。厳しさや悲観、絶望の日々は終わる。2013年頃に聴いたシフのベートーヴェンはとても深刻で、その前後に指揮者として来日したコチシュがハンガリーのオケを率いて振る姿が対照的なほど誇らしげだったのを思い出した。その後コチシュは亡くなってしまったが…2025年の春に東京で仲間たちと弾き振りをしているのはシフのほうだった。

ラストの『ピアノ協奏曲第1番』はピアニストのびっくりするほどよく回る指が、バレリーナのグランフェッテやピルエットを見ているようで、現役ダンサー並みに日々節制してトレーニングを怠らない演奏家の日常を想像した。不摂生などシフの辞書にはないのだろう。アンコールには女性のフルート奏者が登場して、コンマスも立奏し『ブランデンブルク協奏曲第5番』から第1楽章を聴かせた。大喝采で全部終わったと思いきや、その後にゴルトベルクのアリアもやったらしい。ベテラン揃いのカペラ・アンドレア・バルカが、「今夜、もう一周演奏できますよ」と言ってきそうな、終わりどころか未来しか見えない幸福な演奏会だった。









東京二期会『カルメン』(2/20)

2025-02-22 12:02:34 | オペラ
イリーナ・ブルック演出『カルメン』世界初演を鑑賞。カルメンに加藤のぞみさん、ドン・ホセに城宏憲さん、エスカミーリョに今井俊輔さん、ミカエラに宮地江奈さんと二期会のオールスターが揃った初日、東京文化会館のピットに入った読響と沖澤のどかさんのオーケストラ・サウンドも水準が高く、最近の二期会のプロダクションの中でも熱狂度が高い上演となった。
ゲネプロでも前奏曲から「今まで聞いたどのカルメンとも違う」美しい絵が見えるような、風や香りまで感じられるような音にはっとしたが、沖澤さんが作り出すフランスオペラの色彩感はすべての場面で素晴らしく、新しい登場人物が登場するたびに空気が変わる鮮烈なサウンドを放っていた。沖澤さんはメジャーな(?)デビュー以前にも自主制作オペラを振られていて「『椿姫』を作ったときは色々大変で、それで壊れてしまった人間関係もあった」と語ってくれたことがあった。今回のプロダクションでは演出家としっかり協調体制を作って、指揮者の理念を音楽に組み込んでいったのだろう。カルメンは自然の一部であり、野性的な人々が登場するオペラは音楽が表徴する「大自然」の荒々しさだと認識した。

イリーナ・ブルックの演出ノートによると、新演出では「スペイン」と場を特定せず、「ジプシー」も現代的ではないということで、その二つの設定を外したドラマを制作したという。「世界のどこかの荒涼とした場所」が金属片のガラクタによって固められた装置で表されており、黙役やダンサーたちは中南米の人々にも見える。合唱の衣裳は下北沢チックなストリートファッションで、人数分の衣裳にそれぞれ細かい工夫がなされていた。衣裳デザインはあれだけのバリエーションを作るのは大変だったと思う。NHK東京児童合唱団の子供たちも色とりどりのコスチュームに身を包んで活発に演技していた。あれだけのフランス語の歌を歌うのは、いつものことながら凄いと感心する。大人でも難しいことを、児童合唱は喜びに溢れた表情でこなしていた。
ミカエラもパステルカラーの冬山登りファッション(?)で登場する。宮地江奈さんが透き通った美しい声でホセを案じる歌を歌った。ミカエラは衛兵たちにからかわれ、パワフルなアクションで抵抗したり芝居も多い。ビゼーが生きていた頃の初演では、カルメンよりミカエラに共感が集まったという逸話があるが、それだけミカエラのパートが胸を打つものだったからだろう。

ホセ役の城さんは表情もよく、何度かこの役をこなされているせいか演劇的な迫真性があり、ご存知のように元々が大変な二枚目なのでカルメンが一目ぼれするのも納得がいった。カルメン加藤のぞみさんは、今まで国内外の上演で見たどのカルメンより完成度が高く、声に色も香りもあり、スモークに包まれて登場するシーンでは天女様か観音様のようだった。カルメンもまたジャージ風のファッションなのだが、不思議と似合っていて、踊りにも妖艶さがある。「ハバネラ」は完璧な音程で、余裕しゃくしゃくの表情で、ところどころユーモアも感じられた。カルメンというキャラクターがすっかり身体に入っていて、ここまでチャーミングに魅せる方も珍しい。「セギディーリャ」はカルメン自身が、次のホセとの逢瀬を想像して、未来の官能の時間を思いながらくらくらしているような歌だった。

大勢の合唱に交じってカルメンの友人フラスキータとメルセデスも存在感を表していく。三井清夏さんと杉山由紀さんが活躍し、杉山さんのメルセデスがまさかの「メガネちゃん」で、深夜ドラマのエキセントリックな女優のようで、思わずずっとオペラグラスで追ってしまった。フィギュア的に一番視覚的に残っているのがメルセデスだったりする。「カルタの歌」も楽し気だった。

嵐のような伴奏をまとって登場するエスカミーリョは、大スター今井俊輔さんで、今井さんは闘牛士をイメージしたすごい発声で歌い始めた。バリトンでああいう一声を聴いたのは初めてだと思う。「生きるか、死ぬか」といった丁半博打を生きているギャンブラーの声で、どう出しているのか想像もつかないが、リスクをとって成功させていた声だと直観で思った。イリーナ・ブルックはカリスマ的なエスカミーリョを少しばかり戯画的に演出し、退場シーンでは何度もポーズをとって歓声を浴びながら舞台奥に消えていく。「ホセは内容空疎な役だから歌うのは嫌」と言っていた海外の歌手がいたが、やり切った者勝ちなのだ。「闘牛士の歌」は実際には物凄く難しい歌で、破綻せず華やかに歌い上げる歌手には尊敬の念しかない。
同じ意味で、ホセの「お前が投げたこの花は…」の歌い出しも驚異的だと思った。ほぼテノールいじめなのではないか。城さんは果敢に完璧に歌っていて、オーケストラも殊更繊細な音楽を聞かせ、心に響いた。

1.2幕と3.4幕が続けて上演され、休憩は一回だったため、平均的な上演より短めだったが、凝縮度がありラストまでぐいぐい引っ張られていくスピード感があった。
現代演出でも読み替えというほどの違和感はなく、黙役やダンサーの振付も示唆に富んでいて、一場面ごとに大変丁寧に作られてた。イリーナ・ブルック版は成功だと思う。沖澤さんは指揮コンで優勝されたとき「自分はこつこつ型」と語っておられたが、イリーナ・ブルックも忍耐強くこつこつ積み上げていくタイプ。指揮者と演出家の協力体制が素晴らしい。
最終的に歌手がドラマの鍵を握ると思わせたのはラストシーンで、イリーナは「カルメンの物語は男性のDVも扱っている」と解釈していたが、城さんのホセの切ない演技は、もっと男女の根源的な心のバトルで、罠をしかけられて水の合わない場所に連れてこられた上、人間としての未来をすべて奪われたホセが、愛ゆえにカルメンを殺す場面には「DV」という言葉が介入しようもなかった。あんなに強かったカルメンが一瞬で抜け殻になってしまう様子を見て「これこそがオペラなんだ」と思った。
全キャスト申し分なく、一階席前方で聴く限り、メイン歌手たちの飛び出してくるような歌声に圧倒された。
初日キャストはあと1回、Bキャストはあと2回の公演がある。





新国立劇場『フィレンツェの悲劇』/『ジャンニ・スキッキ』(2/4)

2025-02-05 11:28:35 | オペラ
「中世フィレンツェ」が舞台のユニークなダブルビル。2019年の初演が見事だったことを昨日のように覚えているが、もう6年も前のことで、その間にコロナがあり、不思議な時間が過ぎていたことを実感する。ピットは東京交響楽団、指揮は初演と同じく沼尻竜典氏。幕が開いた瞬間に幻想的な美術とツェムリンスキーのきらびやかな音楽に引き込まれ、夢心地になった。

オスカー・ワイルドの未完の戯曲がもとになっている『フィレンツェの悲劇』は登場人物が3人で、商人シモーネ(バリトン)とその妻ビアンカ(ソプラノ)、彼女の不倫相手であるフィレンツェ大公の跡継ぎグイード(テノール)が登場するが、ほとんどが「寝取られ夫」であるシモーネの独断場。あとの二人はいちゃついたり状況説明のようなセリフを歌ったりするが、物語の芯にあるのは、現代から見ると時代錯誤なほど亭主関白で男性優位的思想を持ったシモーネなのである。妻をモノ扱いし、小間使いのように働かせ、人権を認めていない。物語はビアンカと貴族のグイードの不倫のシーンから始まるが、多くの観客はこの二人が睦み合うのも当然に感じられ、横暴なシモーネには共感しがたい違和感を感じる。その上、暴君夫は目の前にいるのが大公の息子だとわかると、色々な商品(豪華な織物など)を相手におべっかを使って売りつけようとする。その媚びた様子に、今はやりの「上納」という単語がチラついたりする。

演出は巧みで、粟國淳さんのプロダクションではいつも装置の美しさに魅了されるが、本作でも現実と幻想世界が織り交ぜられたような美術と照明が素晴らしく、この舞台で歌う歌手たちが自然と物語に入っていける素地を用意していた。衣裳も美しい。「織物」がキーとなる物語なのだから、歌手たちのコスチュームが美しくあることは必須だ。ビアンカ役は長身のナンシー・ヴァイスバッハで、二人の男たちより背が高く、女神のような存在感。声にも気品がある。そういえば初演の齊藤純子さんもとても美しい方だった。前回は意識して観ていなかったが、歌手の立ち位置や芝居も緻密に作られていて、男と女の様々な深層心理が彼らの所作や視線によって視覚化されている。ここまできっちりプランニングされている方が、歌手にとっても歌いやすいと思う。

シモーネ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは新国『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でのハンス・ザックスの名演が鮮烈な記憶だが、この短いオペラでも素晴らしい存在感だった。寝取られた男の苛立ちと怒り、相手の男に媚びるふりをして最後は短剣で容赦なく殺してしまう。この意識の流れが物語の核をなすもので、ほとんど一人芝居のような印象が残った。大公の息子を歌ったテノール歌手のデヴィッド・ポロメイもいい声で死にっぷりもなかなかだったが、バリトンがあれだけ魅せる演技をしては、テノールは「歌い損」のうちに入るのかも知れない。ラストはビアンカが悪どいほどの女の狡猾さを見せるが、それも「大人の御伽噺」として納得できるのは、演出とオーケストラの「異次元の美」あってのことだった。

プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』では登場人物がどっと増える。個人的にこのオペラが好きで、三部作で上演されるときは、『修道女アンジェリカ』の後で、こうも教会権力はコテンパンに揶揄されるのかとびっくりするのだが、最後はよくできた喜劇に「わっ」と涙が出る。新国には8年ぶりの登場となるピエトロ・スパニョーリが題名役を歌い、稽古写真より20歳くらい若返っていてびっくり。すごい美中年に変身していて、なるほどジャンニ・スキッキは21歳の娘をもつ50歳という設定だから、61歳の白髪のスパニョーリが「微妙な若作り」をするのは演劇的に辻褄が合う。それにしても、このオペラの装置は下手側にむかって結構な傾斜がついており、デスクの上のペンや小物よりも人間たちが小さい、という設定なので、デスクの坂道を行ったり来たりする歌手は大変。大きな天秤には死人のブオーゾ(黙役が名演)をはじめ様々なものが乗るのも面白く、あれが稽古場にあったとは考えづらいから、どういう緊張感で本番を迎えたのか想像してしまった。

ラウレッタと結婚したいリヌッチョが歌う『フィレンツェは花咲く樹のように』は、村上公太さんがギターを抱えて朗々と歌い、高音も勇敢。この曲もひとつのハイライトであり、旋律はその後にもライトモティーフ的に繰り返される。50年代から70年代のレトロなファッションに身を包んだ遺産相続人たちは贅沢なキャスティングで、日本が誇るバッソ・ブッフォ、志村文彦さん、畠山茂さんも大活躍。シモーネ河野鉄平さんは本作のリハーサルを縫って『さまよえるオランダ人』の代役をこなしていた。おじいちゃんの所作でよろけながら歌う河野さんの姿が、観ていて有難かった。
真のハイライトである「私のお父さん」を歌ったラウレッタ役の砂田愛梨さんはイタリア在住のソプラノ歌手で、今回初めて聴いたが、力んだところのない伸びやかでクリアな歌声で、とにかく自然なラウレッタだった。日々の研鑽もあると思うが、イタリア女性を演じるということにわざとらしさが皆無で、ジャンニと本当の親子に見えたのが良かった。

プッチーニはオペラ作曲家としては寡作で、書かれたものほぼ全てが名作なので文句は言えないが、60歳で書いた『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』は、長生きしていたら喜劇でも大いに才能を振るっただろうなと思わせる凄い作品だ。ジャンニが遺書の改竄に成功し、身内の者どもが怒り狂って家の中のものを強奪して散り散りになるシーンなど、オーケストラはかなり前衛的でサイケデリック。演劇の可能性を知り尽くし、映画の時代も先取りしていた。同時に、ラストで主人公が物語作家と同化(?)して観客に物申すところは、『ファルスタッフ』を思い出さずにはいられない。私はどうかしているのか、二つのオペラのラストシーンのどちらを観ても涙を流してしまう。「この嵐は何だったのか」と、その意味を、あらゆる負荷から突然抜け出してきた人間が、真顔で問いかけてくる。

ピエトロ・スパニョーリは今回がこのオペラのロール・デビューとなった。生き生きと役を生き、特に『コジ』のデスピーナばりに変声でにせの遺言書を作らせる芝居が大変愉快だった。沼尻さんと東響の最高の音楽、破格に面白い粟國さんの演出、カーテンコールに現れた主役が素晴らしい気持ちでそこに立っているのが分かり、『フィレンツェの悲劇』のトーマス・ヨハネス・マイヤーもこの舞台で役を歌えたことに感動している様子だったので、新しい気持ちでオペラに感動している自分に気づいた。オペラ歌手が幸せを感じていることが、自分にとっての一番の幸せ。それ以外にはない。二人の主役の爆発的な「気分」が客席にまで飛んできて、いつまでも拍手していたくなった。2/6、2/8にも公演あり。




サー・アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル(12/16)

2024-12-25 12:26:16 | クラシック音楽
「当日までプログラムは秘密」スタイルが定着したアンドラーシュ・シフのオペラシティでのリサイタル。これまでは日本語通訳つきで、奥様の塩川悠子さんやシフの若い友人の音楽家がステージ上でレクチャー部分を訳してくれていたが(このスタイルも結構好きだった)今回はシフ自身が日本語で曲の紹介をしてくれた。シフはまだ70歳なのに、もっと年をとったおじいちゃんのようにゆっくりと喋る。まっすぐな背筋と、消え入るような悲しげな声とのギャップが印象的だった。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリアから始まる。「始原に光ありき」といったすがすがしい明るさのタッチで、シフお気に入りのベーゼンドルファーがホールの隅々まで染み渡るような音を響かせた。続くハイドンの「ピアノ・ソナタ ハ短調」は、典雅で妖艶。エステルハージ宮のお茶会に集う婦人たちの雅やかなドレスやエレガントな調度品、装飾的なティーカップやポットなどが目に浮かんだ。ハイドンのソナタにこうした「艶」を感じるのは、それもシフの演奏でそうした感想を抱くのは意外にも感じられたが…若くて美しい女性のいたずら心や、扇子から香ってくるアーモンドのような芳香がピアノの音から噴き出していた。シフは真面目な顔をして、実はすごいユーモア精神の持ち主ではないのか。東京公演の前に行われた記者会見では、現代ピアニストの多くのペダル使いを「病気のよう」と批判し、基本のキから始めなければピアノ演奏は意味がないというような堅物なことを語っていたが、ハイドンではペダルも豊かだったし、花のように瑞々しいタッチだった。ラストの音だけが男性的で雷鳴的だったのも心に残った。

モーツァルト「ロンド イ短調」は幻想的なヴィジョンが浮かび上がり、宝箱の中からいくつもの宝石が現れてくるような「輝き」が見えた。この曲には不思議なあどけなさがあって、暗闇の中に妖精や翼をもった妖怪を見るような、ときめきのような恐ろしさのようなものを暗示させてくる。シフは鍵盤に覆いかぶさったりのけぞったりという大袈裟なことは一切せず、オルゴールのふたを開けてねじを巻くようにモーツァルトを空中に引き出していく。
ベートーヴェンの「6つのバガテル」は、常人とは桁外れの精神の強さをもっていた作曲家の、宇宙の果てまでも飛んでいけそうな巨大なスケールの音楽だった。祈りのような一曲目はくつろいだ感じで、神に守られている者の安息を伝えてくる。不規則な遊びが波紋のように広がり、楽想を面白いものにしていくが、二曲目のアレグロでは暗号のような言語の対話が起こり、謎めいた表情を深めていく。人生の実りのようなアンダンテと、厳しいユニゾンのプレスト、歪んだダンスは5曲目のアレグレットで幼い者の祈りにつながり、6曲目のプレストは神々しさにあふれた。

「ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタを弾けるようになるまで、50歳まで待たねばなりませんでした」と語ったシフは、芸術における成熟という価値を重要視している。うわべだけの華やかな技巧がもてはやされる若いピアニストを何人も見てきたのだろう。そうした若者たちへの警告のような言葉も会見では語られた。「決して若者が嫌いなわけではないのです」とはいえ、シフ自身は若者であった頃から、もっと早く年を取りたくて仕方なかったのかも知れない。演奏家にとってつねに「時間」は課題だ。克己心と謙虚さとともにシフが積み重ねてきた「成熟へ向かう」時間の貴重さを思った。

しかし、音楽そのものは老成しているというより、どんどん若返っていく。ピアニストが歩んできた時間は直線的なようでいて、実は円環構造だったのかも知れない。後半はシューベルトの「アレグレットハ短調」「ハンガリー風のメロディ」「ピアノ・ソナタ第18番「幻想」」と続き、シューベルトの大海原が広がった。「ハンガリー風のメロディ」では民族楽器のツィンバロンのようなエキゾティックな響きがシルクのように翻った。シューベルトのウィーンは東西文化の結節点で、ハンガリー人のシフは当時のウィーンが「東」の妖艶さにどのように痺れていたかも把握している。シューベルトの神聖さ、豊饒さ、カラフルさ、彼岸から此岸を眺めているようなタナトス感が感じられた。そして、過去のシフのリサイタルは聴いていてシリアスな心境になることが多かったのに、今ではどんどん軽やかに感じられるのにも驚いた。

アンコールはシューベルトの楽興の時、即興曲、バッハ「イタリア協奏曲」、モーツァルトの可愛い「ピアノ・ソナタ第16番」、そしてここでは聴くことが出来ないと思われたショパンも一曲。無窮動な「マズルカop.24-2」が、ユーモラスに演奏された。3時間近くのリサイタルの最後にはシューマン「子供のためのアルバム」から「楽しき農夫」が奏でられ、どんどん若返っていくシフの心が、最後は子供にまで戻ってきたことを確認したのだった。




アレクサンドル・カントロフ(11/30)

2024-12-02 17:40:45 | クラシック音楽
アレクサンドル・カントロフのサントリーホールでのリサイタル。演奏会が始まる前に、ステージの上にぽつんと置かれたスタインウェイがひどく殺風景に見え、ここに一人で座って2000人の人間の視線を浴びるピアニストとは、いかにも奇妙な職業に思えた。チケットは完売(P席は解放しなかった様子)。カントロフはリラックスした様子で現れ、ブラームスの『ラプソディ ロ短調 op.79-1』から弾き始めた。
去年のみなとみらいでのリサイタルでも始終放心していた記憶があるが、何がどのように凄かったのかうまく言い表せない。ブラームスは、音の「面」のようなものが次々と立ち現われ、微妙に色彩や質感を変えていく印象があった。携帯カメラで撮った写真を編集するときに、明度や彩度を調節して微妙に雰囲気が変えていくのと同じ感触があり、ペダルとタッチでコントロールしているにせよ、他では聴いたことのない魔術的な音楽だった。ピントを合わせたり、ぼやかしたり、紗幕を下ろしたり、上げたりして、音の刺激を視覚的な比喩に連結させている印象。ブラームスは、途轍もなく反抗的な音楽家だったのかも知れない。古い教会音楽の旋法の響きが子守歌のようにシンプルなメロディを導くが、衝撃的な中断があり、激情の吐露があり、優しい音楽のようでいて死への衝動のような裏色をチラチラさせる。五線譜のイマジネーションは羽根を生やし、飛翔しようとするが、肉体は頑として地上に縛られたいと願う。ブラームスの「過激さ」を思い、カントロフの孤独な表情が寒々とした氷点下の世界を連想させた。
カントロフが椅子から立ち上がらないので拍手が起こらないまま、リストの超絶技巧練習曲「雪あらし」が始まる。ブラームスとひとつらなりになっているような雰囲気で、ロマンティックな旋律線を追いながら、容赦なく五感が研ぎ澄まされていく感覚があった。そのうち五感は混濁し、高熱を出して倒れたときのような意識に近づいていく。雪山の中でホワイトアウトしていく状態とは、こういう感じなのかも知れない。
続く『巡礼の年第1年『スイス』から「オーベルマンの谷」』は内省的なフレーズが物悲しく、宗教的な感興に包まれた。リスト20代の作曲だが、既に晩年期の枯淡が感じられる。暗闇の中で、神のことだけを思う時間とは、こういう音楽のことではないかと思われた。
バルトークの『ラプソディ』はタールのような黒だけの色彩の世界で、世俗的なものが一切ない不思議な音楽だった。カントロフの左手は饒舌な動きで、タクトを持たない指揮者の手の動きを連想させ、鍵盤に触れていないときにもひらひらと踊っていた。

後半のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第1番』は驚異的な演奏で、2番に比べて個人的に愛着の薄い曲だったが、30数分間に及ぶ大曲の中でカントロフが見せた表情は予想を遥かに超えていた。いくつもの時間が交差する迷宮のようなラフマニノフの曲は、彼のような究極の技術をもつピアニストが弾くと「自分がどこにいるのか」見失ってしまいそうになる。サントリーホールにいて、奇跡を見聞きしているのには違いなかったが、もはや技術がどうこうという次元ではなく、演奏家とともに旅をしている自分の「意識」しかそこには存在していなかった。カントロフはこの曲でリサイタルの意味も教えてくれた。空間と時間がひとつになり、二千人とステージの一人が混然一体の「意識」となり、境界が消滅する。
裸足で雪の上を歩いているような感触と、同時にとても暖かい灯りに包まれている感触が同時にやってくる。ブラームスやリストやバルトークから感じていた「寒さ」はラフマニノフで最高潮に達し、「暖かさ」に反転した。二つの極は一つであり、冷たさとは温かさのことだった。
演奏は何度も激高し、これがフィナーレなのかと思うとまだまだ続いた。掘っても掘っても何も出てこない鉱山を、引き返せないほど奥まで進んで掘り続けているような仕草だった。これは何のために行われているのか。
本編最後のバッハ/ブラームス編『シャコンヌ』は左手だけで演奏される曲で、30分以上するラフマニノフの後にこれを弾くというプログラム構成が信じられない。カントロフはピアニストの定義も変えてしまっている。演奏家のルーティンとして組まれる選曲として、常軌を逸していると思った。修道僧のようにも見える演奏家が、もしかしたら目には見えない楽観的な次元と通じ合っているようにも思えたが、曲半ばで右手をピアノの縁に置いて踏ん張っている様子を見ると、やはり人間にとって尋常でない荒行をしているのだと気づかされる。
万雷の拍手に包まれ、間もなくタブレットを持ってにこやかに現れたカントロフが弾き出したのはワーグナー/リスト編『イゾルデの愛の死』で、その瞬間身体がバラバラになりそうになった。愛の上に愛が重なり、観客からの声なき愛にさらに応えるピアニストがいた。有難さに報いる言葉も出ない。芸術家が存在している境地の果てしなさを思い、この人の源泉にあるのは何なのかもっと知りたくなった。物理的な分断を越えた、圧倒的な「意識」の時間だった。