アンドラーシュ・シフと28人の音楽家たち~カペラ・アンドレア・バルカの最後の日本ツアー、完売の東京公演に先立ってミューザ川崎シンフォニーホールで行われたオール・J.S.バッハ・プログラムを聴いた(3/21)。「メンバーも皆高齢なので」と昨年の記者会見でシフは語っていたが、見た目のベテランぶりと反比例するように音楽は活き活きと瑞々しい。ピアニストの弾き振りでピアノ協奏曲第3番、第5番、第7番、第2番、休憩をはさんで第4番、第1番が演奏され、大変しっくりくる曲順で楽しめた。
シフは一曲目の3番の1楽章アレグロから楽しそうで、ぽんぽんと叩くようにベーゼンドルファーをプレイしていた。ピアノは気ままに加速して、弦楽器奏者たちはメトロノームが同じリズムに同調するように合わせていく。最近のシフは一人で弾くときも軽やかな表情で、2010年代の前半に聴いたようなシリアスな表情ではなくなったが、それにも増してコンチェルトでは楽し気だった。
5番のラルゴ楽章の前には、皆に向かってゆっくり合図をしていた。ピツィカートが甘美で有名なメロディを奏で、バッハの「ロマンティック」が桜が一斉に咲くように花開いた。演奏会が行われた3/21は春分の日の翌日で、バッハのユリウス暦の誕生日だったので、「はじまり」と「祝福」の気運を感じずにはいられない。作曲家はその時代の様式の中で最大限の「個」を表し、シューマンもマーラーもそのように曲を書いたが、バッハの音楽にはエゴというものが感じられず、それでいてバッハ以外の何者でもない。一つの音が別の音に飛んでいくとき、隕石が落ちてきたようにエキセントリックに感じられる箇所もあったが、それも全体の中では巨大な宇宙の摂理に飲み込まれていく。スケールが大きく、遊戯的で魅惑的で、何より美しかった。色彩の異なる華麗なバロック時代のドレスが次々と現れるような、装飾的で雅やかな音の屏風絵だった。
この音楽の自然さはちょっとすごいな…と思った。音に浸かりながら何度もメンバーの数を数えてみたが(多分28人いた)ステージの下手と上手に一人ずつ配置されたバス奏者の、上手側の女性奏者が「本当に幸せでたまらない」という表情で身体を揺らしながら弾いているのが目に入った。他のメンバーもノーストレスで、文字通り「プレイ」していて、シフが曲の始まりにつける装飾的なパッセージにも遊び心があった。旋回する半音階の表現はリストを先取りした超絶技巧で、時代を超越した前衛性も感じられる。シフのテクニシャンぶりも全く衰えることなく、まったく疲労感を見せぬまま6曲を弾き切った。彼を尊敬する生徒たちの前では謹厳な教師である彼が、「バロックの遊び心」をふんだんに満喫している姿が愉快。クラヴィーアのために書かれたコンチェルトは鍵盤楽器ならチェンバロでもフォルテピアノでも何でもいいのだし、その日に出たサイコロの目で色々なことを決めていくような気まぐれな雰囲気もあった。バロック音楽は「音学」なんかではまったくないのだ。
妖艶ささえ漂わせた「香り」のある演奏で、それは春の香りでもあり、作曲家の生まれた季節が万物の芽吹く春であったことと関係があるようにも感じられた。冬の終わり。厳しさや悲観、絶望の日々は終わる。2013年頃に聴いたシフのベートーヴェンはとても深刻で、その前後に指揮者として来日したコチシュがハンガリーのオケを率いて振る姿が対照的なほど誇らしげだったのを思い出した。その後コチシュは亡くなってしまったが…2025年の春に東京で仲間たちと弾き振りをしているのはシフのほうだった。
ラストの『ピアノ協奏曲第1番』はピアニストのびっくりするほどよく回る指が、バレリーナのグランフェッテやピルエットを見ているようで、現役ダンサー並みに日々節制してトレーニングを怠らない演奏家の日常を想像した。不摂生などシフの辞書にはないのだろう。アンコールには女性のフルート奏者が登場して、コンマスも立奏し『ブランデンブルク協奏曲第5番』から第1楽章を聴かせた。大喝采で全部終わったと思いきや、その後にゴルトベルクのアリアもやったらしい。ベテラン揃いのカペラ・アンドレア・バルカが、「今夜、もう一周演奏できますよ」と言ってきそうな、終わりどころか未来しか見えない幸福な演奏会だった。

シフは一曲目の3番の1楽章アレグロから楽しそうで、ぽんぽんと叩くようにベーゼンドルファーをプレイしていた。ピアノは気ままに加速して、弦楽器奏者たちはメトロノームが同じリズムに同調するように合わせていく。最近のシフは一人で弾くときも軽やかな表情で、2010年代の前半に聴いたようなシリアスな表情ではなくなったが、それにも増してコンチェルトでは楽し気だった。
5番のラルゴ楽章の前には、皆に向かってゆっくり合図をしていた。ピツィカートが甘美で有名なメロディを奏で、バッハの「ロマンティック」が桜が一斉に咲くように花開いた。演奏会が行われた3/21は春分の日の翌日で、バッハのユリウス暦の誕生日だったので、「はじまり」と「祝福」の気運を感じずにはいられない。作曲家はその時代の様式の中で最大限の「個」を表し、シューマンもマーラーもそのように曲を書いたが、バッハの音楽にはエゴというものが感じられず、それでいてバッハ以外の何者でもない。一つの音が別の音に飛んでいくとき、隕石が落ちてきたようにエキセントリックに感じられる箇所もあったが、それも全体の中では巨大な宇宙の摂理に飲み込まれていく。スケールが大きく、遊戯的で魅惑的で、何より美しかった。色彩の異なる華麗なバロック時代のドレスが次々と現れるような、装飾的で雅やかな音の屏風絵だった。
この音楽の自然さはちょっとすごいな…と思った。音に浸かりながら何度もメンバーの数を数えてみたが(多分28人いた)ステージの下手と上手に一人ずつ配置されたバス奏者の、上手側の女性奏者が「本当に幸せでたまらない」という表情で身体を揺らしながら弾いているのが目に入った。他のメンバーもノーストレスで、文字通り「プレイ」していて、シフが曲の始まりにつける装飾的なパッセージにも遊び心があった。旋回する半音階の表現はリストを先取りした超絶技巧で、時代を超越した前衛性も感じられる。シフのテクニシャンぶりも全く衰えることなく、まったく疲労感を見せぬまま6曲を弾き切った。彼を尊敬する生徒たちの前では謹厳な教師である彼が、「バロックの遊び心」をふんだんに満喫している姿が愉快。クラヴィーアのために書かれたコンチェルトは鍵盤楽器ならチェンバロでもフォルテピアノでも何でもいいのだし、その日に出たサイコロの目で色々なことを決めていくような気まぐれな雰囲気もあった。バロック音楽は「音学」なんかではまったくないのだ。
妖艶ささえ漂わせた「香り」のある演奏で、それは春の香りでもあり、作曲家の生まれた季節が万物の芽吹く春であったことと関係があるようにも感じられた。冬の終わり。厳しさや悲観、絶望の日々は終わる。2013年頃に聴いたシフのベートーヴェンはとても深刻で、その前後に指揮者として来日したコチシュがハンガリーのオケを率いて振る姿が対照的なほど誇らしげだったのを思い出した。その後コチシュは亡くなってしまったが…2025年の春に東京で仲間たちと弾き振りをしているのはシフのほうだった。
ラストの『ピアノ協奏曲第1番』はピアニストのびっくりするほどよく回る指が、バレリーナのグランフェッテやピルエットを見ているようで、現役ダンサー並みに日々節制してトレーニングを怠らない演奏家の日常を想像した。不摂生などシフの辞書にはないのだろう。アンコールには女性のフルート奏者が登場して、コンマスも立奏し『ブランデンブルク協奏曲第5番』から第1楽章を聴かせた。大喝采で全部終わったと思いきや、その後にゴルトベルクのアリアもやったらしい。ベテラン揃いのカペラ・アンドレア・バルカが、「今夜、もう一周演奏できますよ」と言ってきそうな、終わりどころか未来しか見えない幸福な演奏会だった。
