小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『フィレンツェの悲劇』/『ジャンニ・スキッキ』(2/4)

2025-02-05 11:28:35 | オペラ
「中世フィレンツェ」が舞台のユニークなダブルビル。2019年の初演が見事だったことを昨日のように覚えているが、もう6年も前のことで、その間にコロナがあり、不思議な時間が過ぎていたことを実感する。ピットは東京交響楽団、指揮は初演と同じく沼尻竜典氏。幕が開いた瞬間に幻想的な美術とツェムリンスキーのきらびやかな音楽に引き込まれ、夢心地になった。

オスカー・ワイルドの未完の戯曲がもとになっている『フィレンツェの悲劇』は登場人物が3人で、商人シモーネ(バリトン)とその妻ビアンカ(ソプラノ)、彼女の不倫相手であるフィレンツェ大公の跡継ぎグイード(テノール)が登場するが、ほとんどが「寝取られ夫」であるシモーネの独断場。あとの二人はいちゃついたり状況説明のようなセリフを歌ったりするが、物語の芯にあるのは、現代から見ると時代錯誤なほど亭主関白で男性優位的思想を持ったシモーネなのである。妻をモノ扱いし、小間使いのように働かせ、人権を認めていない。物語はビアンカと貴族のグイードの不倫のシーンから始まるが、多くの観客はこの二人が睦み合うのも当然に感じられ、横暴なシモーネには共感しがたい違和感を感じる。その上、暴君夫は目の前にいるのが大公の息子だとわかると、色々な商品(豪華な織物など)を相手におべっかを使って売りつけようとする。その媚びた様子に、今はやりの「上納」という単語がチラついたりする。

演出は巧みで、粟國淳さんのプロダクションではいつも装置の美しさに魅了されるが、本作でも現実と幻想世界が織り交ぜられたような美術と照明が素晴らしく、この舞台で歌う歌手たちが自然と物語に入っていける素地を用意していた。衣裳も美しい。「織物」がキーとなる物語なのだから、歌手たちのコスチュームが美しくあることは必須だ。ビアンカ役は長身のナンシー・ヴァイスバッハで、二人の男たちより背が高く、女神のような存在感。声にも気品がある。そういえば初演の齊藤純子さんもとても美しい方だった。前回は意識して観ていなかったが、歌手の立ち位置や芝居も緻密に作られていて、男と女の様々な深層心理が彼らの所作や視線によって視覚化されている。ここまできっちりプランニングされている方が、歌手にとっても歌いやすいと思う。

シモーネ役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは新国『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でのハンス・ザックスの名演が鮮烈な記憶だが、この短いオペラでも素晴らしい存在感だった。寝取られた男の苛立ちと怒り、相手の男に媚びるふりをして最後は短剣で容赦なく殺してしまう。この意識の流れが物語の核をなすもので、ほとんど一人芝居のような印象が残った。大公の息子を歌ったテノール歌手のデヴィッド・ポロメイもいい声で死にっぷりもなかなかだったが、バリトンがあれだけ魅せる演技をしては、テノールは「歌い損」のうちに入るのかも知れない。ラストはビアンカが悪どいほどの女の狡猾さを見せるが、それも「大人の御伽噺」として納得できるのは、演出とオーケストラの「異次元の美」あってのことだった。

プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』では登場人物がどっと増える。個人的にこのオペラが好きで、三部作で上演されるときは、『修道女アンジェリカ』の後で、こうも教会権力はコテンパンに揶揄されるのかとびっくりするのだが、最後はよくできた喜劇に「わっ」と涙が出る。新国には8年ぶりの登場となるピエトロ・スパニョーリが題名役を歌い、稽古写真より20歳くらい若返っていてびっくり。すごい美中年に変身していて、なるほどジャンニ・スキッキは21歳の娘をもつ50歳という設定だから、61歳の白髪のスパニョーリが「微妙な若作り」をするのは演劇的に辻褄が合う。それにしても、このオペラの装置は下手側にむかって結構な傾斜がついており、デスクの上のペンや小物よりも人間たちが小さい、という設定なので、デスクの坂道を行ったり来たりする歌手は大変。大きな天秤には死人のブオーゾ(黙役が名演)をはじめ様々なものが乗るのも面白く、あれが稽古場にあったとは考えづらいから、どういう緊張感で本番を迎えたのか想像してしまった。

ラウレッタと結婚したいリヌッチョが歌う『フィレンツェは花咲く樹のように』は、村上公太さんがギターを抱えて朗々と歌い、高音も勇敢。この曲もひとつのハイライトであり、旋律はその後にもライトモティーフ的に繰り返される。50年代から70年代のレトロなファッションに身を包んだ遺産相続人たちは贅沢なキャスティングで、日本が誇るバッソ・ブッフォ、志村文彦さん、畠山茂さんも大活躍。シモーネ河野鉄平さんは本作のリハーサルを縫って『さまよえるオランダ人』の代役をこなしていた。おじいちゃんの所作でよろけながら歌う河野さんの姿が、観ていて有難かった。
真のハイライトである「私のお父さん」を歌ったラウレッタ役の砂田愛梨さんはイタリア在住のソプラノ歌手で、今回初めて聴いたが、力んだところのない伸びやかでクリアな歌声で、とにかく自然なラウレッタだった。日々の研鑽もあると思うが、イタリア女性を演じるということにわざとらしさが皆無で、ジャンニと本当の親子に見えたのが良かった。

プッチーニはオペラ作曲家としては寡作で、書かれたものほぼ全てが名作なので文句は言えないが、60歳で書いた『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』は、長生きしていたら喜劇でも大いに才能を振るっただろうなと思わせる凄い作品だ。ジャンニが遺書の改竄に成功し、身内の者どもが怒り狂って家の中のものを強奪して散り散りになるシーンなど、オーケストラはかなり前衛的でサイケデリック。演劇の可能性を知り尽くし、映画の時代も先取りしていた。同時に、ラストで主人公が物語作家と同化(?)して観客に物申すところは、『ファルスタッフ』を思い出さずにはいられない。私はどうかしているのか、二つのオペラのラストシーンのどちらを観ても涙を流してしまう。「この嵐は何だったのか」と、その意味を、あらゆる負荷から突然抜け出してきた人間が、真顔で問いかけてくる。

ピエトロ・スパニョーリは今回がこのオペラのロール・デビューとなった。生き生きと役を生き、特に『コジ』のデスピーナばりに変声でにせの遺言書を作らせる芝居が大変愉快だった。沼尻さんと東響の最高の音楽、破格に面白い粟國さんの演出、カーテンコールに現れた主役が素晴らしい気持ちでそこに立っているのが分かり、『フィレンツェの悲劇』のトーマス・ヨハネス・マイヤーもこの舞台で役を歌えたことに感動している様子だったので、新しい気持ちでオペラに感動している自分に気づいた。オペラ歌手が幸せを感じていることが、自分にとっての一番の幸せ。それ以外にはない。二人の主役の爆発的な「気分」が客席にまで飛んできて、いつまでも拍手していたくなった。2/6、2/8にも公演あり。




サー・アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル(12/16)

2024-12-25 12:26:16 | クラシック音楽
「当日までプログラムは秘密」スタイルが定着したアンドラーシュ・シフのオペラシティでのリサイタル。これまでは日本語通訳つきで、奥様の塩川悠子さんやシフの若い友人の音楽家がステージ上でレクチャー部分を訳してくれていたが(このスタイルも結構好きだった)今回はシフ自身が日本語で曲の紹介をしてくれた。シフはまだ70歳なのに、もっと年をとったおじいちゃんのようにゆっくりと喋る。まっすぐな背筋と、消え入るような悲しげな声とのギャップが印象的だった。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリアから始まる。「始原に光ありき」といったすがすがしい明るさのタッチで、シフお気に入りのベーゼンドルファーがホールの隅々まで染み渡るような音を響かせた。続くハイドンの「ピアノ・ソナタ ハ短調」は、典雅で妖艶。エステルハージ宮のお茶会に集う婦人たちの雅やかなドレスやエレガントな調度品、装飾的なティーカップやポットなどが目に浮かんだ。ハイドンのソナタにこうした「艶」を感じるのは、それもシフの演奏でそうした感想を抱くのは意外にも感じられたが…若くて美しい女性のいたずら心や、扇子から香ってくるアーモンドのような芳香がピアノの音から噴き出していた。シフは真面目な顔をして、実はすごいユーモア精神の持ち主ではないのか。東京公演の前に行われた記者会見では、現代ピアニストの多くのペダル使いを「病気のよう」と批判し、基本のキから始めなければピアノ演奏は意味がないというような堅物なことを語っていたが、ハイドンではペダルも豊かだったし、花のように瑞々しいタッチだった。ラストの音だけが男性的で雷鳴的だったのも心に残った。

モーツァルト「ロンド イ短調」は幻想的なヴィジョンが浮かび上がり、宝箱の中からいくつもの宝石が現れてくるような「輝き」が見えた。この曲には不思議なあどけなさがあって、暗闇の中に妖精や翼をもった妖怪を見るような、ときめきのような恐ろしさのようなものを暗示させてくる。シフは鍵盤に覆いかぶさったりのけぞったりという大袈裟なことは一切せず、オルゴールのふたを開けてねじを巻くようにモーツァルトを空中に引き出していく。
ベートーヴェンの「6つのバガテル」は、常人とは桁外れの精神の強さをもっていた作曲家の、宇宙の果てまでも飛んでいけそうな巨大なスケールの音楽だった。祈りのような一曲目はくつろいだ感じで、神に守られている者の安息を伝えてくる。不規則な遊びが波紋のように広がり、楽想を面白いものにしていくが、二曲目のアレグロでは暗号のような言語の対話が起こり、謎めいた表情を深めていく。人生の実りのようなアンダンテと、厳しいユニゾンのプレスト、歪んだダンスは5曲目のアレグレットで幼い者の祈りにつながり、6曲目のプレストは神々しさにあふれた。

「ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタを弾けるようになるまで、50歳まで待たねばなりませんでした」と語ったシフは、芸術における成熟という価値を重要視している。うわべだけの華やかな技巧がもてはやされる若いピアニストを何人も見てきたのだろう。そうした若者たちへの警告のような言葉も会見では語られた。「決して若者が嫌いなわけではないのです」とはいえ、シフ自身は若者であった頃から、もっと早く年を取りたくて仕方なかったのかも知れない。演奏家にとってつねに「時間」は課題だ。克己心と謙虚さとともにシフが積み重ねてきた「成熟へ向かう」時間の貴重さを思った。

しかし、音楽そのものは老成しているというより、どんどん若返っていく。ピアニストが歩んできた時間は直線的なようでいて、実は円環構造だったのかも知れない。後半はシューベルトの「アレグレットハ短調」「ハンガリー風のメロディ」「ピアノ・ソナタ第18番「幻想」」と続き、シューベルトの大海原が広がった。「ハンガリー風のメロディ」では民族楽器のツィンバロンのようなエキゾティックな響きがシルクのように翻った。シューベルトのウィーンは東西文化の結節点で、ハンガリー人のシフは当時のウィーンが「東」の妖艶さにどのように痺れていたかも把握している。シューベルトの神聖さ、豊饒さ、カラフルさ、彼岸から此岸を眺めているようなタナトス感が感じられた。そして、過去のシフのリサイタルは聴いていてシリアスな心境になることが多かったのに、今ではどんどん軽やかに感じられるのにも驚いた。

アンコールはシューベルトの楽興の時、即興曲、バッハ「イタリア協奏曲」、モーツァルトの可愛い「ピアノ・ソナタ第16番」、そしてここでは聴くことが出来ないと思われたショパンも一曲。無窮動な「マズルカop.24-2」が、ユーモラスに演奏された。3時間近くのリサイタルの最後にはシューマン「子供のためのアルバム」から「楽しき農夫」が奏でられ、どんどん若返っていくシフの心が、最後は子供にまで戻ってきたことを確認したのだった。




アレクサンドル・カントロフ(11/30)

2024-12-02 17:40:45 | クラシック音楽
アレクサンドル・カントロフのサントリーホールでのリサイタル。演奏会が始まる前に、ステージの上にぽつんと置かれたスタインウェイがひどく殺風景に見え、ここに一人で座って2000人の人間の視線を浴びるピアニストとは、いかにも奇妙な職業に思えた。チケットは完売(P席は解放しなかった様子)。カントロフはリラックスした様子で現れ、ブラームスの『ラプソディ ロ短調 op.79-1』から弾き始めた。
去年のみなとみらいでのリサイタルでも始終放心していた記憶があるが、何がどのように凄かったのかうまく言い表せない。ブラームスは、音の「面」のようなものが次々と立ち現われ、微妙に色彩や質感を変えていく印象があった。携帯カメラで撮った写真を編集するときに、明度や彩度を調節して微妙に雰囲気が変えていくのと同じ感触があり、ペダルとタッチでコントロールしているにせよ、他では聴いたことのない魔術的な音楽だった。ピントを合わせたり、ぼやかしたり、紗幕を下ろしたり、上げたりして、音の刺激を視覚的な比喩に連結させている印象。ブラームスは、途轍もなく反抗的な音楽家だったのかも知れない。古い教会音楽の旋法の響きが子守歌のようにシンプルなメロディを導くが、衝撃的な中断があり、激情の吐露があり、優しい音楽のようでいて死への衝動のような裏色をチラチラさせる。五線譜のイマジネーションは羽根を生やし、飛翔しようとするが、肉体は頑として地上に縛られたいと願う。ブラームスの「過激さ」を思い、カントロフの孤独な表情が寒々とした氷点下の世界を連想させた。
カントロフが椅子から立ち上がらないので拍手が起こらないまま、リストの超絶技巧練習曲「雪あらし」が始まる。ブラームスとひとつらなりになっているような雰囲気で、ロマンティックな旋律線を追いながら、容赦なく五感が研ぎ澄まされていく感覚があった。そのうち五感は混濁し、高熱を出して倒れたときのような意識に近づいていく。雪山の中でホワイトアウトしていく状態とは、こういう感じなのかも知れない。
続く『巡礼の年第1年『スイス』から「オーベルマンの谷」』は内省的なフレーズが物悲しく、宗教的な感興に包まれた。リスト20代の作曲だが、既に晩年期の枯淡が感じられる。暗闇の中で、神のことだけを思う時間とは、こういう音楽のことではないかと思われた。
バルトークの『ラプソディ』はタールのような黒だけの色彩の世界で、世俗的なものが一切ない不思議な音楽だった。カントロフの左手は饒舌な動きで、タクトを持たない指揮者の手の動きを連想させ、鍵盤に触れていないときにもひらひらと踊っていた。

後半のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第1番』は驚異的な演奏で、2番に比べて個人的に愛着の薄い曲だったが、30数分間に及ぶ大曲の中でカントロフが見せた表情は予想を遥かに超えていた。いくつもの時間が交差する迷宮のようなラフマニノフの曲は、彼のような究極の技術をもつピアニストが弾くと「自分がどこにいるのか」見失ってしまいそうになる。サントリーホールにいて、奇跡を見聞きしているのには違いなかったが、もはや技術がどうこうという次元ではなく、演奏家とともに旅をしている自分の「意識」しかそこには存在していなかった。カントロフはこの曲でリサイタルの意味も教えてくれた。空間と時間がひとつになり、二千人とステージの一人が混然一体の「意識」となり、境界が消滅する。
裸足で雪の上を歩いているような感触と、同時にとても暖かい灯りに包まれている感触が同時にやってくる。ブラームスやリストやバルトークから感じていた「寒さ」はラフマニノフで最高潮に達し、「暖かさ」に反転した。二つの極は一つであり、冷たさとは温かさのことだった。
演奏は何度も激高し、これがフィナーレなのかと思うとまだまだ続いた。掘っても掘っても何も出てこない鉱山を、引き返せないほど奥まで進んで掘り続けているような仕草だった。これは何のために行われているのか。
本編最後のバッハ/ブラームス編『シャコンヌ』は左手だけで演奏される曲で、30分以上するラフマニノフの後にこれを弾くというプログラム構成が信じられない。カントロフはピアニストの定義も変えてしまっている。演奏家のルーティンとして組まれる選曲として、常軌を逸していると思った。修道僧のようにも見える演奏家が、もしかしたら目には見えない楽観的な次元と通じ合っているようにも思えたが、曲半ばで右手をピアノの縁に置いて踏ん張っている様子を見ると、やはり人間にとって尋常でない荒行をしているのだと気づかされる。
万雷の拍手に包まれ、間もなくタブレットを持ってにこやかに現れたカントロフが弾き出したのはワーグナー/リスト編『イゾルデの愛の死』で、その瞬間身体がバラバラになりそうになった。愛の上に愛が重なり、観客からの声なき愛にさらに応えるピアニストがいた。有難さに報いる言葉も出ない。芸術家が存在している境地の果てしなさを思い、この人の源泉にあるのは何なのかもっと知りたくなった。物理的な分断を越えた、圧倒的な「意識」の時間だった。






シュツットガルト・バレエ団『オネーギン』(11/2)

2024-11-04 07:44:28 | バレエ
6年ぶりにカンパニー全員が来日したシュツットガルト・バレエ団の『オネーギン』の初日を鑑賞。このカンパニーでの『オネーギン』のフルヴァージョンを初めて観たのは2005年11月で、当時26歳のフリーデマン・フォーゲルは繊細なレンスキー役だった。今やすっかり主役のオネーギンが似合う成熟したダンサーとなり、ヒロインの妹オリガのイメージが残るエリサ・バデネスもタチヤーナを素晴らしく踊るようになった。

キャリアの円熟期に入ったとはいえ、美しく若々しいフリーデマンの姿に登場シーンから拍手が起こる。本ばかり読んでいた内向的なタチヤーナは、都会的な青年貴族オネーギンに一瞬で恋に堕ちるが、娘に一瞥をくれるときのオネーギンの眼光の鋭さに震えた。獲物の心臓に矢を放つような目で、視線を向けられた方はすっかり自由を奪われてしまう。バデネスが少し前とは別人のような顔つきで、聖女のようでもありしっとりとした大人の女性のようでもあった。ユルゲン・ローゼの美しい美術(先日の東京バレエ団のクランコ版『ロミオとジュリエット』でも魅了された)は厳かな色彩感で、屋内の暗い雰囲気もロシア風。サンクトペテルブルクの古いホテルがあんなふうだった。

外向的でチャーミングな妹オリガをアメリカ人ダンサー、マッケンジー・ブラウンが踊り、オリガの婚約者レンスキーをブラジル出身のガブリエル・フィゲレドが踊った。22歳と24歳の若い二人で、マッケンジーは全身から明るい光を放ち、技術面でも大変なテクニシャン。Gフィゲレドは13歳でクランコ・バレエ学校の校長先生にスカウトされ、クランコ作品を踊るために育てられたような人。レンスキーはチャイコフスキーのオペラではテノールだが、バレエのレンスキーもトスティの真面目な歌曲を歌っているような規律正しい踊りで、基礎的なポーズを厳密に見せていくが、それがとても初々しい。クールで冷笑的なオネーギンとのコントラストが強調されていく。

タチヤーナが鏡の中から飛び出してくるオネーギンと「相思相愛の」パ・ド・ドゥを踊る場面は何度見ても心を奪われる。この場面の振付はどうやって思いついたのだろう。華やかでアクロバティックで、現実のものではないようだ。軽やかにリフトされる女性ダンサーは宙に舞い上がった後、夢のように地上に滑り降りて、再び無重力空間にいるように持ち上げられる。いかに振付家が天才的であったとしても、この日常から切り離された動きが現実的な意識から生まれたとは思えない。タチヤーナは眠りの中で幻想を見るが、クランコもまた眠りから霊感を得ていたのではないか。ベジャール(クランコと同い年)と同様クランコも不眠症で、常備薬だった睡眠薬のアレルギーで飛行機の中で亡くなった。覚醒しすぎて眠れない体質だったのだろうが、睡眠時に溢れ出す無意識や霊感からヒントを得ていたのかも知れない。

マクミランの「マノン」の土台にプッチーニのオペラ「マノン・レスコー」があったように、クランコの「オネーギン」もチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を下敷きにして作られている。二つのバレエはオペラをそのまま使えなかったので、クランコはチャイコフスキーの小曲や様々な断片をパッチワークのように繋げてストーリーに沿うようにした。この手工芸的な技が、改めて凄いと思われた。タチヤーナの聖名祝日のパーティで使われる音楽は特に素晴らしく、貴族のうわべの遊びのような「サロン風ポルカ」に合わせて悪ふざけするオリガとオネーギンの踊りは、音楽の軽薄さも加わってレンスキーを苛立たせるのに十分なのだ。

オネーギンとの決闘前にレンスキーが踊るソロは、オペラの『わが青春の輝ける日々よ』を思い起こさせる。フィゲレドに取材したとき、オペラのアリアは聴いたことがないと語っていたが、死を意識した若者の孤独と絶望が無垢なオーラから感じられた。あのシーンは大変緊張するはずだ。決闘に勝ったオネーギンが顔を覆いながら崩れ落ちるシーンでは、フリーデマンの顔色も蒼白だった。毎回少しずつ演技が違っている。

ベテランダンサーであり振付家でもあるロマン・ノヴィツキーが演じたグレーミン公爵が格別の存在感だった。彼もオネーギン・ダンサーで、タフで繊細な悪役が堂に入っていたが、今のノヴィツキーがフリーデマンと並ぶと、シュツットガルト・バレエの宝物が輝いているように見える。若妻タチヤーナと踊るサンクトペテルブルクの夜会では、バスが歌う「恋は年齢を問わぬもの」が聴こえてくるようだった。外見と所作が、これ以上ないという理想的なグレーミンで、原作では傷痍軍人という設定だが、その傷跡まで衣裳の中に見えるようなたたずまいだった。

短い3幕でオネーギンとタチヤーナが再会する場面は、最後の物凄いハイライトで、このシーンのパ・ド・ドゥもアクロバティックの極致。それがすべて男女の情動を表している。バレエでしか表現できないエモーションで、チャイコフスキーの音楽も高揚する。机の前に座って無表情のままのタチヤーナは、かつて自分を拒絶し妹の婚約者をピストルで撃ったオネーギンを追い払おうと心の準備をしている。ところが、追われるように闇から現れた哀れなオネーギンが自分の隣にやってくると、こらえていたものが一気に爆発する。この男の哀れさはかつての自分の哀れさで、鏡で映したような手紙まで送りつけてきた。尊敬と哀れみという一見相容れない感情が入り混じると、狂気の恋になるのだ。
オネーギンは自分の分身であり、二人は元々ひとつの存在であった。情念に陥落する瞬間、髪の毛一本ほどの重さで理性の天秤が勝つ。オネーギンは泥棒のように走り去り、タチヤーナは一瞬追いかけて、舞台中央に戻ってくる。エリサは震えながら泣くラストだったが、あれはダンサーの自然な演技に任されているのだろうか。昔斎藤友桂理さんが演じたときは、涙ながらに「理性が勝った!」と片腕を上げる幕引きだった。

カンパニー全員のコンディションが素晴らしく、一幕で群舞の男女ペアが開脚でジャンプしながら舞台を縦横に横切っていく壮麗な場面は大きな見どころ。ヴォルフガング・ハインツ指揮東京シティ・フィルハーモニックもダイナミックで快活な演奏を聴かせた。初演は1965年でクランコ38歳の傑作。初演から59年後の上演も熱狂的なスタンディングオベーションが巻き起こった。


photo: Stuttgarter Ballett

コンヴィチュニーの『影のない女』

2024-10-27 11:41:55 | オペラ
二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『影のない女』(ボン歌劇場との共同制作)の上演が連日熱い議論を呼んでいる。事前に「皆さんは死んだオペラを観ている」といったコンヴィチュニーの発言の一部が非難され、カーテンコールの映像では初日から激しいブーイングが飛んだ様子。プロの歌手や批評家からも、主に3幕の大幅カットについて批判が起こり、その他にもしかじかの性的表現や、歌詞や設定への変更が一種のアレルギー的な反応を引き起こしていた。

Bキャストのゲネプロを見たとき、最初は何が語られているのか分からなかった。前回このオペラを観たのは2011年のマリインスキー劇場の来日公演で、指揮はゲルギエフ、演出はジョナサン・ケントで、同じプロダクションを2010年にサンクトペテルブルクの白夜祭でも観ていた。霊界のカップルと地上のカップルが交差する幻想的な物語という印象だったが、コンヴィチュニー版ではバラクはそもそも染物屋でもないし、皇后と乳母は清掃スタッフの恰好をして現実に舞い降りる。皇帝はギャングのボスで、たくさんのシーンでピストルの暴発が起こる。
ゲネプロでは前半の100分がチンプンカンプンで、後半の45分で急に色々なことが覚醒した。皇后の腹から取り出された嬰児が「アナタノ子供ダヨー! ドウカ死ナセテ! モウタクサン!」と語り出す場面で、頭が真っ白になった。観る人によっては由々しい印象を得たかも知れない。この世界に生まれてくることが、子供にとって幸せなのか? ガザ地区やウクライナで殺されたり手足を失ったりしている小さな子供たちを思い出し、何よりいい年をしてこの世に存在している実感が湧かない自分のことを思った。

コンヴィチュニーの精神の内奥には、癒し難い厭世観があると思う。プログラムではドラマトゥルクのべッティーナ・バルツの長大なコンセプトが掲載されているが、そうしたアイデアに反応してしまうコンヴィチュニーは、「生存している」という当たり前のことに暗い気持ちを抱いているからなのではないか。今まで観てきたオペラにもそれを感じた。
R・シュトラウスが『影のない女』を完成させたのは1919年で、最初の世界大戦が始まった5年後で、その後の20世紀は戦争の時代となり、「産めよ増やせよ」の富国強兵のスローガンが欧州にも蔓延した。「女はまるで軍用道路!」と叫ぶ妻。それまで対立していたバラクとその妻が、急に和解する3幕が大幅にカットされたが、劇中最も甘美で豊饒な部分を「抜いた」ことに大きな意味がある。作品を愛する人々にとっては多大なフラストレーションだが、演出家はそこに嘘があると確信し、メスを入れた。

版権が切れているのだから、演出家は自由にカットする権利がある。一方で「オペラはみんなのもの」だから勝手なことはするな、という一般論がある。演出家は劇場と外の世界を交流させ、人間全体の意識を覚醒させたいと思っているが、一部の(多くの?)鑑賞者はそれを「要らない」という。このままではコンヴィチュニーが時代錯誤のエゴイストになってしまう。そんなことはあってはならないと思う。

本公演は26日の初日キャストを10列目で観た。ゲネは一階の最後列で観たので、その景色はずいぶん違っていた。本番3回目で上演として円熟していたということもあったが、間近で見る歌手たちが、愛と生命と性の本質を、暴力ぎりぎりになる局面も含めて真剣に演じていて、困難なはずの歌唱も全くそれを感じさせず、演劇的な迫力だけが横溢していたのが驚異だった。
女性歌手たちが特に凄い。バラクの妻の板波利加さんはコンヴィチュニーの愛弟子といっていいほどの歌手で、皇后の冨平安希子さんは2018年のコンヴィチュニー版『魔弾の射手』で好演し、乳母の藤井麻美さんは今回が初めてのコンヴィチュニー作品となる。その3人が、演出家の巨大な愛を受け取り、無限の可能性を舞台で花開かせ、嘘のない女性像を表現した。皇后はバラクとの性交を暗示させる長いシーンを演じなければならず、露骨ではないが大変な精神力を要すると思われた。個人的には最も素晴らしい場面だと胸打たれた。

最後列で観ていたものをステージ近くで観て印象が変わったことは、オペラ全体に精神的に近づく必然を感じさせた。バックステージツアーにも参加したが、ボンで制作された装置はハイテクで美しく、照明も回転する床も最新の機構が使われている。あの清潔なラボやカウンセリングルーム、夜景レストランの美術について、ほとんど指摘されないのが不思議である。装置の贅沢さには見るべきものがある。
近くに寄らないと見えないものがあるのに、見ようとしないのは何故なのか。性的表現も、自分自身に近づいて考えてみれば、拒絶反応以外の何かが起こるはず。バックステージツアーの後には、コンヴィチュニーによる『コジ・ファン・トゥッテ』のマスタークラスも見学した。2時間の間に若い歌手たちが驚くべき成長を遂げていた。演出家は真の天才であり、そのインスピレーションはエゴを超えた人間全体の洞察から来ていると確信した。

これだけ炎上してしまっては、もはや演出家を賞賛することは盲目的信奉者と同一視されかねないが、視野を広げれば、そもそもこうした刺激的上演を日本で観られるということ自体が凄いのである。あの巨大な装置は今日の夕刻には全部撤収され、ボンに送り返されてしまう(ほとんどの装置はボンで制作されていた)。跡形もなく消え去ってしまうあの世界が、まもなく虹のように感じられる。

アレホ・ペレスと東響の音楽は驚異的で、ペレスは演劇に寄り添った音楽を積極的に作り、ノットとの『サロメ』や『エレクトラ』が素晴らしかった東響も神業的なサウンドを聴かせた。歌手たちは全員エンジンを唸らせて、オーケストラと一心同体になっていた。

人間はショックなことが起こらないと眠ったままでいる、と言ったのはベジャールだった。眠ったままでいいはずがない。揺り起こそうとするコンヴィチュニーに「嫌だ!」とブーイングした観客まで、演出家が予測したアートの一部だったのかも知れない。黙示録的な上演だった。