アレクサンドル・カントロフのサントリーホールでのリサイタル。演奏会が始まる前に、ステージの上にぽつんと置かれたスタインウェイがひどく殺風景に見え、ここに一人で座って2000人の人間の視線を浴びるピアニストとは、いかにも奇妙な職業に思えた。チケットは完売(P席は解放しなかった様子)。カントロフはリラックスした様子で現れ、ブラームスの『ラプソディ ロ短調 op.79-1』から弾き始めた。
去年のみなとみらいでのリサイタルでも始終放心していた記憶があるが、何がどのように凄かったのかうまく言い表せない。ブラームスは、音の「面」のようなものが次々と立ち現われ、微妙に色彩や質感を変えていく印象があった。携帯カメラで撮った写真を編集するときに、明度や彩度を調節して微妙に雰囲気が変えていくのと同じ感触があり、ペダルとタッチでコントロールしているにせよ、他では聴いたことのない魔術的な音楽だった。ピントを合わせたり、ぼやかしたり、紗幕を下ろしたり、上げたりして、音の刺激を視覚的な比喩に連結させている印象。ブラームスは、途轍もなく反抗的な音楽家だったのかも知れない。古い教会音楽の旋法の響きが子守歌のようにシンプルなメロディを導くが、衝撃的な中断があり、激情の吐露があり、優しい音楽のようでいて死への衝動のような裏色をチラチラさせる。五線譜のイマジネーションは羽根を生やし、飛翔しようとするが、肉体は頑として地上に縛られたいと願う。ブラームスの「過激さ」を思い、カントロフの孤独な表情が寒々とした氷点下の世界を連想させた。
カントロフが椅子から立ち上がらないので拍手が起こらないまま、リストの超絶技巧練習曲「雪あらし」が始まる。ブラームスとひとつらなりになっているような雰囲気で、ロマンティックな旋律線を追いながら、容赦なく五感が研ぎ澄まされていく感覚があった。そのうち五感は混濁し、高熱を出して倒れたときのような意識に近づいていく。雪山の中でホワイトアウトしていく状態とは、こういう感じなのかも知れない。
続く『巡礼の年第1年『スイス』から「オーベルマンの谷」』は内省的なフレーズが物悲しく、宗教的な感興に包まれた。リスト20代の作曲だが、既に晩年期の枯淡が感じられる。暗闇の中で、神のことだけを思う時間とは、こういう音楽のことではないかと思われた。
バルトークの『ラプソディ』はタールのような黒だけの色彩の世界で、世俗的なものが一切ない不思議な音楽だった。カントロフの左手は饒舌な動きで、タクトを持たない指揮者の手の動きを連想させ、鍵盤に触れていないときにもひらひらと踊っていた。
後半のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第1番』は驚異的な演奏で、2番に比べて個人的に愛着の薄い曲だったが、30数分間に及ぶ大曲の中でカントロフが見せた表情は予想を遥かに超えていた。いくつもの時間が交差する迷宮のようなラフマニノフの曲は、彼のような究極の技術をもつピアニストが弾くと「自分がどこにいるのか」見失ってしまいそうになる。サントリーホールにいて、奇跡を見聞きしているのには違いなかったが、もはや技術がどうこうという次元ではなく、演奏家とともに旅をしている自分の「意識」しかそこには存在していなかった。カントロフはこの曲でリサイタルの意味も教えてくれた。空間と時間がひとつになり、二千人とステージの一人が混然一体の「意識」となり、境界が消滅する。
裸足で雪の上を歩いているような感触と、同時にとても暖かい灯りに包まれている感触が同時にやってくる。ブラームスやリストやバルトークから感じていた「寒さ」はラフマニノフで最高潮に達し、「暖かさ」に反転した。二つの極は一つであり、冷たさとは温かさのことだった。
演奏は何度も激高し、これがフィナーレなのかと思うとまだまだ続いた。掘っても掘っても何も出てこない鉱山を、引き返せないほど奥まで進んで掘り続けているような仕草だった。これは何のために行われているのか。
本編最後のバッハ/ブラームス編『シャコンヌ』は左手だけで演奏される曲で、30分以上するラフマニノフの後にこれを弾くというプログラム構成が信じられない。カントロフはピアニストの定義も変えてしまっている。演奏家のルーティンとして組まれる選曲として、常軌を逸していると思った。修道僧のようにも見える演奏家が、もしかしたら目には見えない楽観的な次元と通じ合っているようにも思えたが、曲半ばで右手をピアノの縁に置いて踏ん張っている様子を見ると、やはり人間にとって尋常でない荒行をしているのだと気づかされる。
万雷の拍手に包まれ、間もなくタブレットを持ってにこやかに現れたカントロフが弾き出したのはワーグナー/リスト編『イゾルデの愛の死』で、その瞬間身体がバラバラになりそうになった。愛の上に愛が重なり、観客からの声なき愛にさらに応えるピアニストがいた。有難さに報いる言葉も出ない。芸術家が存在している境地の果てしなさを思い、この人の源泉にあるのは何なのかもっと知りたくなった。物理的な分断を越えた、圧倒的な「意識」の時間だった。
去年のみなとみらいでのリサイタルでも始終放心していた記憶があるが、何がどのように凄かったのかうまく言い表せない。ブラームスは、音の「面」のようなものが次々と立ち現われ、微妙に色彩や質感を変えていく印象があった。携帯カメラで撮った写真を編集するときに、明度や彩度を調節して微妙に雰囲気が変えていくのと同じ感触があり、ペダルとタッチでコントロールしているにせよ、他では聴いたことのない魔術的な音楽だった。ピントを合わせたり、ぼやかしたり、紗幕を下ろしたり、上げたりして、音の刺激を視覚的な比喩に連結させている印象。ブラームスは、途轍もなく反抗的な音楽家だったのかも知れない。古い教会音楽の旋法の響きが子守歌のようにシンプルなメロディを導くが、衝撃的な中断があり、激情の吐露があり、優しい音楽のようでいて死への衝動のような裏色をチラチラさせる。五線譜のイマジネーションは羽根を生やし、飛翔しようとするが、肉体は頑として地上に縛られたいと願う。ブラームスの「過激さ」を思い、カントロフの孤独な表情が寒々とした氷点下の世界を連想させた。
カントロフが椅子から立ち上がらないので拍手が起こらないまま、リストの超絶技巧練習曲「雪あらし」が始まる。ブラームスとひとつらなりになっているような雰囲気で、ロマンティックな旋律線を追いながら、容赦なく五感が研ぎ澄まされていく感覚があった。そのうち五感は混濁し、高熱を出して倒れたときのような意識に近づいていく。雪山の中でホワイトアウトしていく状態とは、こういう感じなのかも知れない。
続く『巡礼の年第1年『スイス』から「オーベルマンの谷」』は内省的なフレーズが物悲しく、宗教的な感興に包まれた。リスト20代の作曲だが、既に晩年期の枯淡が感じられる。暗闇の中で、神のことだけを思う時間とは、こういう音楽のことではないかと思われた。
バルトークの『ラプソディ』はタールのような黒だけの色彩の世界で、世俗的なものが一切ない不思議な音楽だった。カントロフの左手は饒舌な動きで、タクトを持たない指揮者の手の動きを連想させ、鍵盤に触れていないときにもひらひらと踊っていた。
後半のラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第1番』は驚異的な演奏で、2番に比べて個人的に愛着の薄い曲だったが、30数分間に及ぶ大曲の中でカントロフが見せた表情は予想を遥かに超えていた。いくつもの時間が交差する迷宮のようなラフマニノフの曲は、彼のような究極の技術をもつピアニストが弾くと「自分がどこにいるのか」見失ってしまいそうになる。サントリーホールにいて、奇跡を見聞きしているのには違いなかったが、もはや技術がどうこうという次元ではなく、演奏家とともに旅をしている自分の「意識」しかそこには存在していなかった。カントロフはこの曲でリサイタルの意味も教えてくれた。空間と時間がひとつになり、二千人とステージの一人が混然一体の「意識」となり、境界が消滅する。
裸足で雪の上を歩いているような感触と、同時にとても暖かい灯りに包まれている感触が同時にやってくる。ブラームスやリストやバルトークから感じていた「寒さ」はラフマニノフで最高潮に達し、「暖かさ」に反転した。二つの極は一つであり、冷たさとは温かさのことだった。
演奏は何度も激高し、これがフィナーレなのかと思うとまだまだ続いた。掘っても掘っても何も出てこない鉱山を、引き返せないほど奥まで進んで掘り続けているような仕草だった。これは何のために行われているのか。
本編最後のバッハ/ブラームス編『シャコンヌ』は左手だけで演奏される曲で、30分以上するラフマニノフの後にこれを弾くというプログラム構成が信じられない。カントロフはピアニストの定義も変えてしまっている。演奏家のルーティンとして組まれる選曲として、常軌を逸していると思った。修道僧のようにも見える演奏家が、もしかしたら目には見えない楽観的な次元と通じ合っているようにも思えたが、曲半ばで右手をピアノの縁に置いて踏ん張っている様子を見ると、やはり人間にとって尋常でない荒行をしているのだと気づかされる。
万雷の拍手に包まれ、間もなくタブレットを持ってにこやかに現れたカントロフが弾き出したのはワーグナー/リスト編『イゾルデの愛の死』で、その瞬間身体がバラバラになりそうになった。愛の上に愛が重なり、観客からの声なき愛にさらに応えるピアニストがいた。有難さに報いる言葉も出ない。芸術家が存在している境地の果てしなさを思い、この人の源泉にあるのは何なのかもっと知りたくなった。物理的な分断を越えた、圧倒的な「意識」の時間だった。