小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

セイジ・オザワ松本フェスティバル『エフゲニー・オネーギン』8/22.8/24

2019-08-26 10:09:57 | オペラ
セイジ・オザワ松本フェスティバルの4年ぶりのオペラ公演は、ファビオ・ルイージ指揮『エフゲニー・オネーギン』。全3回の上演のうち、中日の8/22と楽日の8/24を観た。松本を2往復したのは、初日に主役のオネーギンを演じたバリトンの大西宇宙さんを聴くためだった。演奏や演出のディテールを認識するためにも、これは2度鑑賞する必要があったプロダクションだった。

オネーギン役はスター歌手のマリウシュ・クヴィエチェンがケガで降板したため、22日はトルコ出身のレヴァント・バキルチが演じた。初日を体調不良で降板していたこともありスタミナ面での心配があったが、本人も始終確信を持てなくて残念そうな様子だった。この日は一階席の最後列で鑑賞したため、高い場所からピットがかなり良く見えた。ファビオ・ルイージがかつてないほど情熱的に、大きなジェスチャーでテンポも自在に巻いたり緩めたりしながら、全身を使って振っていた。ロシア語のオペラを初めて振るので語学から勉強したというが、すっかり『エフゲニー・オネーギン』の虜になってしまったのだろう。小澤さんも世界各国でこのオペラを振った。チャイコフスキーのオペラに宿る「魔力」がマエストロからマエストロへ感染したのかも知れない。

タチヤーナのアンナ・ネチャーエヴァは両日とも好演。透き通った木霊のような幻想的な美声で、この役だとどうしてもネトレプコを思い出してしまう。ネチャーエヴァは純粋な人で、その役で乗っている期間は24時間オペラに捧げているタイプに感じられた。オンとオフは関係ない、というタイプもいるが、このタチヤーナは歌手が人生の隅々まで捧げつくして演じているように見えたのだ。「手紙の場」では、突然自分の内面に訪れた闇のような孤独感と、全身に満ちる宇宙的なパワーに驚いているヒロインを見せた。

バキルチの不調にもかかわらず素晴らしかった『エフゲニー・オネーギン』で学んだのは、これは人間関係が重要なオペラで、タチヤーナやレンスキー、グレーミンがそれぞれ重要なアリアを歌うため、オネーギンその人は物語を進行させるための「聞き役」でいても成立するということだった。他人の歌を聴いているのも立派な演技である。

しかし、タイトルロールに充分な気力が宿っていることは重要で、24日に大西さんが加わったことで完璧なプロダクションになった。チャイコフスキーの粘り強く、意外な展開を見せる旋律も鮮やかに表現し、演技にも気品があった。1820年代の豪華な衣裳をまとった東京オペラシンガーズの合唱も主役のエネルギーと調和して、いっそう聴きごたえがあった。何事にも満足しない厭世観の塊である青年貴族の役が、大西さんの強い眼力の表情とぴったりなのだ。決闘で一撃の勝利を収める役には、底知れぬ強さというものが必要だ。オネーギンのタフで強靭な魅力が溢れ出し、舞台に欠けていたパズルの一片がはまったことで、完璧な上演となった。

この松本のプロダクションは客席から観ていても、明らかに特別な、高水準のクオリティだった。登場人物に巻き起こる感情が自然で、台本通りに演じているというレベル以上のものがあり、毎回新しいドラマが生まれ、少しずつ違う情熱が燃え盛っていた。平易な言い方をすると歌手全員が「役になりきっている」ということなのだが、毎回異なる聴衆とともに新鮮な演技で空間を満たしていくには、直観の訓練が必要だと思う。歌手全員が見事だった。

18歳の若さで死ぬレンスキーを歌ったイタリア人歌手、パオロ・ファナーレは善良で世間知らずの若者を好ましく演じ、決闘のシーンのアリアも聴いていて万感こみ上げるものがあった。これはロシアのテノールにとって最も大切な歌のひとつだ、と語ってくれたのはディミトリー・コルチャックだったが、イタリアの歌手も素晴らしく歌う。
幼な妻との恋の喜びを滋味深く歌うグレーミン公爵を演じたバス・バリトンのアレクサンダー・ヴィノグラドフには、二日とも大きな喝采が寄せらせた。グレーミン公爵の歌がこんなに染みるのも、それまでのタチヤーナの演技が完璧だからで、この年長者のアリアは鏡のような役目を果たしている。それにしてもヴィノグラドフの「うまさ」は、ある程度年を重ねないと味わいの出ないもので、年相応のベテラン歌手が歌うことで大きな説得力が出た。

野太い声でおきゃんなオリガを演じた若手のリンゼイ・アンマンは、タチヤーナの妹とは思えないほどのギャルっぽさだったが、登場人物の全てが沈鬱なこの劇で、唯一陽気な存在としていいアクセントになっていた。再演演出ではよくあることだが、歌手の性格によって演技を大袈裟にしている部分もあったのだろう。ケーキを素手で鷲掴みにして食べるシーンには驚いた。お転婆で恐れ知らずの性格なのかも。重いメゾで既にワーグナーも多数歌っているらしい。

カーセン演出は、舞台にかなりの傾斜がかけられており、ポロネーズを踊るダンサーたちは大変だったと思う。床を埋め尽くす枯葉が美しく、照明もドラマティック。オネーギンとレンスキーの決闘のシーンの、夜明け前の青から薄紫の世界も幻想的だった。タチヤーナの聖名誕生日でもサンクトペテルブルクの大広間でも、形の違う椅子が舞台を囲むように並べられていたが、チャイコフスキーのオペラの初演が学生たちによるものだったこと、この作品に関して作曲家が「オペラ」という仰々しい呼び名を嫌い、「抒情的な場」と呼んだことを思い出させた。

 名手たちが結集したオーケストラは極上のサウンドで、見事な集中力によって息の長い音楽を聴かせた。本当にあの冷静なルイージの姿なのか? とピットを見て何度も驚いた。チャイコフスキーには、いくつもの解釈の次元があり、深く関われば関わるほど危険な作曲家だとつくづく思う。才能という美徳が、彼自身のどうしようもなく反社会的な部分と隣り合わせにあり、矛盾を抱えたまま傑作を書き続け、最後は袋小路に追い込まれた。
 
 オペラとは妄想による至宝だ。プーシキンもチャイコフスキーもこのオペラによって殺された。プーシキンは妻にしつこく言い寄るフランス人将校ダンテスと決闘し(政府が仕組んだ罠であった)37歳で凶弾に倒れた。チャイコフスキーも同じ37歳で巨大な不幸と出会う。ちょうど『エフゲニー・オネーギン』の執筆中で、ハンサムな自分に愛の手紙を送ってきた声楽家の卵アントニーナを「現実のタチヤーナ」と思い込んで結婚してしまう。エルミタージュ・ホテルでの披露宴は葬式のようで、妻を愛せないチャイコフスキーはモスクワ川で自殺未遂をはかる。人生とオペラに境目なんかない。
 
 タチヤーナとオネーギンは二人でひとつの存在だ。人生に虚妄を抱かずにはいられないロマンティストで、お互いが時間差で相手に「ロマンティストでは生きられない」と説教する。そうした若さのドラマも、老いとともにやがて土の中に埋もれていく。冒頭のラーリナ夫人とばあやのフィリーピエヴナの哀し気な歌は、舞台の歌手たちの優れた表現によって疼くような感情を喚起させた。「昔は許婚以外の人も好きになった」「英国の小説に夢中になった」「今では人々が自分を呼ぶ名も変わってしまった…」。いずれはみんな朽ち滅びて死んでしまう。あの夥しい落ち葉が、この世の役目を終えた命の寝床に見えたのだった。