小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『フィデリオ』

2020-09-10 20:45:14 | オペラ

新国立劇場で9/3から9/6まで上演された二期会『フィデリオ』のゲネプロと初日公演を観た。演出は深作健太さん、指揮は大植英次さん、東京フィル、合唱は二期会合唱団・新国立合唱団・藤原歌劇団合唱部の3団体の共演。ゲネと初日で両キャストを鑑賞したが、所要な役どころの歌手たちは台詞部分も含めてドイツ語の発音が美しく、歌唱のクオリティも高かった。ピットは舞台の高さまで上げられ、一階席からもオーケストラ全員が見える。大植さんの指揮はベートーヴェンの音楽の典雅な美しさを際立たせ、東フィルの反応も見事だった。東フィルは2年前にチョン・ミョンフン指揮による演奏会形式で『フィデリオ』を演奏しているが、その経験もあってかゲネから余裕を感じさせた。

このプロダクションでは、深作健太さんの演出が重要な位置を占めていた。ゲネの直前に行われたシーズン記者発表では、コロナ禍で当初予定されていた演出プランが大幅な変更を強いられ、いくつものアイデアを諦めなければならなかった経緯が事務局から伝えられた。1945年を起点にして、2020年までの激動の歴史(ドイツを主軸とする)が映像や絵画イメージとともに繰り広げられ、古今東西の哲学者や文学者、思想家の著述の引用が紗幕に投影される。『レオノーレ序曲 第3番』が冒頭に演奏されたが、ここで『フィデリオ』のダイジェスト的な無言劇が展開され、同時に多くの文章も映し出された。

演出の衝撃性も含め、ゲネでは驚きの連続だった。木下美穂子さんのレオノーレは勇敢でシリアスで、重い世界苦を背負った小原啓楼さんのフロレスタンも素晴らしく、物語の痛々しさと歴史の呵責なさを伝えてきた。深作『ローエングリン』でもこのお二人はよかった。小原さんはローエングリンでも深作さんの「創造する」物語に深く入り込み、演技を通じて何か心の急速な成長をはかっていたように見えたが、フロレスタンも歌手の「演劇的真実に向かって内向する心」が感じられた。本番初日のレオノーレ役の土屋優子さんは、太陽のような輝かしい声の持ち主で、夫が閉じ込められた暗い牢獄に差し込む光そのものの存在感が印象的。フロレスタン福井敬さんも、役の純粋さを強く伝えてくる歌唱と演技だった。

ラストシーンまで、何が起こるかわからなかった。「戦争犠牲者」の象徴のようなフロレスタンが車椅子から立ち上がり、「壁」と「分断」の歴史が明るい未来へとつながっていくという奇想天外にも思える展開は、実はとてもベートーヴェン的だと思う。2020年の夏に聴いたいくつかのベートーヴェンの交響曲では、同じようなことが起った。悲観が一瞬で楽観に変わる。ベートーヴェンの弁証法とは、つねに光の爆発によって結論づけられる。電撃的な「楽観」を最後に置いたことが、見事だと思った。混沌の中にいる人間にとって、強力なメッセージをもつエンディングだった。

『フィデリオ』は、同じ新国のこの劇場でカタリーナ・ワーグナーが予想を裏切る悲劇的結末の新演出を行ったように、いくらでも書き込む余地のあるオペラだと思う。演出の「正解」はすべて、たったひとりの個人である演出家に委ねられるが、これは本当に凄いことだと思う。観客と演出家、という図式は多勢に無勢だ。ゼロから新しい価値を生み出す演出は、模倣や教育に依拠した演出(そんなものは見るだけ時間の無駄なのだが)より明らかに価値があるが、なぜか今現在のこの世の中は、過度に保守的で、新しいことに対して文句が多すぎる。創造について何か言いたいのなら、もっと近づいてそのプロダクションを見るべきだし、どのような思念とアイデアの積み重ねによって構成されているのかを観察するべきだ。

演出には歴史への考察と音楽の理解が求められる。この二つが真摯に行われていることが重要だが、さらに演出家の「個」のパワーが勢いよくオペラを貫いていることが重要だ。それ以外に、何を根拠にするというのだ。過去になされた演出を模倣したりコラージュしたり、目利きの客のご機嫌をとったりする演出は最悪だ。オペラ演出家は、自分でそうなろうと思った時点で偉大なのだ。深作さんの歴史考察、音楽の洞察、魂を剥き出しにした演劇の造形は高い完成度を見せていた。この方の特性として、ベートーヴェンにはない強烈な宗教性のようなものが端々に見えることがあるが、その二つの個性の「交差」も観ていて快かった。

最後の最後に舞台に登場する合唱はディスタンスを保ち、マスクをおもむろに外して歌った。「あ、これは本当に2020年のフィデリオだ」と思った。オペラ歌手たちが、今この瞬間にすべてを出し尽くし、次々と「今」を生きていくように、演出家も今という時間を惜しみなく生きる。この演出は「賛否両論」という説もあるが、表舞台とバックステージから押し寄せる肯定的な気分は、途轍もなく明るく大きなものだった。模倣や忖度によって「ちいさなオペラ」を見せられても仕方ない。無数の制約の中で、巨大な思想を見せてくれた深作さんは、この先たくさんのオペラを創造していく演出家だと確信した。