小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東響×飯守泰次郎(6/26) 

2021-06-28 08:59:29 | クラシック音楽

二日間行われた同プログラムのサントリーホールの初日を鑑賞。前半のライネッケ『ハープ協奏曲 ホ短調』ではハーピストの吉野直子さんが流麗なソロを披露した。ハープという楽器を正面から見る機会があまりなかったので、その形と豪華な装飾をしげしげしと見つめてしまった。吉野さんのピンク色の銀河を集めたようなドレスも美しく、全体にちらばめられたスパンコール(?)が夜空の星々のように輝いている。普段聴く機会の少ないライネッケの曲にしばし聞き入った。水の女神のようなハープの音というのは夢心地に連れていってくれる。オペラでは、初対面の女性の美貌に男性がぼうっとなったときハープの音が登場することがある。バレエ好きにとってはいつも「白鳥の湖」を想像する音。
コンチェルトでは、楽器の特性として「拍節感を出すのが難しい」点を、オーケストラとの対話で補っているのが素晴らしいと思った。ハープ協奏曲そのものが少ないのも、とても繊細な表現をする楽器で、何かを強く主張するような大きな音を出さないからだろう。2楽章のアダージョは、秘められた日記のような乙女の祈りを連想させた。ハープが「雄々しくある」必要などあるだろうか。この癒しの音楽を作ったライネッケの誕生日は偶然にも3日前(6/23)で、雨と日照りが交互に訪れる巨蟹宮の季節に生まれた人々の気質が、ロマンティックで感情過敏であることを、仕事柄(占星術)思い出した。パルジファルを誘惑する花々のような、無邪気で妖艶なものの気配を感じながら、オーケストラのエレガントなサウンドも楽しめた。アンコールはアッセルマンの「泉」。リリー・ラスキーヌの録音で一時期よく聴いていた曲だったが、生演奏は流石に感動した。吉野さんはハープ一台でオーケストラのような見事なサウンドを聴かせてくれた。

後半ブルックナー交響曲第7番(ノーヴァク版1954年版)は、筆舌に尽くしがたかった。指揮台にスタンバイした飯守先生の静かな後ろ姿を見て「指揮者はなぜ、言い訳をしないのだろう」ということを考えていた。音楽家の中でも、これほど過酷でストレスの多い仕事もないだろう。その分いいこともある、という人もいるだろうが…オペラを振る指揮者の多くは、ピアノがうまい。ピアニストだって苛酷な仕事だが、孤独の殻に閉じこもって自分を守ろうとすればそうした生き方も出来る。指揮者はつねに外と闘わなければならない。闘いよりも和解を好む穏やかな人でさえ、予想外のエキゾティックな攻撃、ルール違反をする敵、有象無象のプレッシャーから身を守るために、闘う義務を背負わされる。

1940年生まれの飯守先生にとって、西洋音楽をするということは「世界がユニヴァーサルにつながっていった」それ以降の世代よりも勇気がいることだっただろう。渡航ひとつとっても、現在のようではなかった。西洋音楽は狭き門であり、日本人は徹頭徹尾謙虚に学ばなければならず、アイデンティティを確立するのも気が遠くなる作業であったと想像する。1940年生まれの人間は、特別なエネルギーのもとに生まれているのであり、それ以前の世代とは違う革新性を与えられている。だから飯守さんの音楽からはいつも電撃的なものを感じる。80歳とはただの数に過ぎないが、積み重ねてこられた年月には計り知れない価値がある。本当に、一つずつ丁寧に「言い訳をせず」積み上げてきたのだろう。

ワーグナーテューバも登場し、金管はショーアップされた迫力と、正確さと勇敢さを求められるが、どの場面でも誠実でない音はひとつとしてなかった。ただ「外さない」のではなく、何とも言えない殺気があった。金管打の奇跡的な響きが次から次へと積み重ねられ、独自の呼吸感によって音楽の宇宙が作りだされているのを感じた。文章も、韻を踏んだリズミックな文章にはそうでない文章とは異なる「霊力」がそなわる。音楽も同じで、指揮者の与える呼吸感がオーケストラに強靭な霊的エネルギーを与えていた。翌日のミューザも素晴らしかったと思うが、この日の東響は驚異的だった。

ブルックナーとは何と純粋な精神だろう…創造の中で本気で神と繋がろうとした。芸術が素晴らしいのは、聖と俗が溶け合うことで、現世的な名誉を目指そうとしなければ巨大な交響曲など書かないし、増してや人の評判に左右されて書き直しなどしないだろう。だからといって、「聖」の部分が消えるわけではない。音楽の中のあらゆる問いは神に対する問いで、根強い日々を通じてその答えを積み上げていった。そういう一途な生き方は、創作の世界では生きられても現世では不器用でしかなく、ブルックナーは女性からはふられ続け生涯独身だった。しかし、音楽の中には救済が潜んでいる。女性的なるものもすべて含んだ、もっと巨大な太陽神のような「全-救済」が音楽を推進させている。

あの印象的なスケルツォ楽章を聴いて「やはり指揮者が生きてきた道は闘いなのだ」と思った。オーケストラを「成就」させなければならない指揮者は、火の輪をくぐらなければならない。飯守さんもバイロイトで、欧州で長年闘い続けてこられた。もちろん「闘い」とは暴力でも陰謀でもない。新国立劇場でオペラ監督を務められていたとき、記者懇親会などで見る飯守さんは「闘い」など避けたい平和な愛の人なのだと思わせた。音楽に関わるわが身の日々の葛藤や矛盾を、神に問いかけて答えを掴む…それを繰り返してこられたと方だと思った。内なる闘いの人。

これは、世界の中心にあるブルックナーなのではないか? 西洋と東洋、どちらかが主流でどちらが亜流という時代ではない。小澤さんの時代からとっくにそうである、という意見もあるだろうが、この東響の定期で決定的に実感した。ブルックナー演奏の深層部に衝撃を与える出来事だと思った。「神的なるもの」を言葉で説明するのは難しい。それは魂に由来するもので、同根の魂でなければ夢か譫言のようにしか聞こえないからだ。言葉が煩瑣になりすぎないように工夫しなければならないが…ブルックナーと飯守先生の「同じ魂」が音楽をともに創造し、それは国籍など全く関係のないことであった。指揮者は寡黙な後ろ姿で、言い訳をしない。喝采を受けて振り向いた飯守先生は聖なる人で、目の錯覚でも何でもなく神々しかった。この世にこんなに美しい人がいるのかと驚き、拍手を止めることが出来なかった。

 



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