日本デビューとなる1995年生まれの指揮者カタリーナ・ヴィンツォーと読響の共演。4日前にはサントリーでブラームス2番などを振ったが、やや優等生的な印象で、芸劇でのプログラムにはあまり期待をしていなかった。結果として、二公演聴いておいてよかった。20代で世界中の名門オケに客演している理由が分かり、将来有望であることは勿論、今の若さで聴きたいと思わせる輝かしいエネルギーが感じられた。
ドヴォルザーク 序曲《謝肉祭》から読響の全パートが強力なパワーを発していた。ノースリーブの黒いブラウスと黒いボトムスで登場したヴィンツォーは溌剌とした指揮で、立体的で熱狂的なサウンドをオーケストラから引き出す。奥にいる管楽器と打楽器が前に飛び出してくるような迫力があり、たくさんの種類の面白い音が聴こえる。10分ほどの曲だが、指揮者のスタミナがオケの迫力を引き出す様がありありと伝わってきた。理路整然とした棒で、柔軟性もあり、わくわくするイマジネーションを感じさせた。
モーツァルト『フルートとハープのための協奏曲』では、フルートのマチュー・デュフォーと読響ハープ奏者の景山梨乃さんがソロパートを演奏。ロココ絵画の抜けるような青空が見え、一気に涼しい気分に。モーツァルトは声楽曲も「素直に」歌うのが一番美しいが、ヴィンツォーの正確さにこだわる明晰な音楽作りはモーツァルトで活き活きとしていた。デュフォーのフルートは天上の響きで、景山さんのハープと溶け合っていつまでも聴いていたくなる。ホールの隅々まで柔らかい音が響き渡り、外気の蒸し暑さを忘れた時間だった。
個人的に正統派のアプローチというものが苦手で、指揮者もソリストもニッチな美学の持ち主が好みなのだが、どんなときも基礎をストイックに叩き込んだ音楽家は無敵だと改めて気づかされた。ヴィンツォーの後ろ姿からは、ローカルなポジションに収まるつもりなんかない、秘められた野心が感じられたのだ。
先日聴いたプラハ放送響では、若き熱血指揮者ポペルカのドヴォルザークがどことなく垢ぬけない印象で(濁り酒の味わいはあったが)国際的なキャリアを上っていったフルシャは最初から違っていたのか、途中から方針を切り替えたのか色々考えてしまった。棒一本で世界に殴り込みをかけるという生き方とはどういうものなのか。圧倒的な才能に加えて、コミュニケーション能力やひらめく知性、温かい人間性や冷静さなど多くのことが求められる。
少なくとも「女性指揮者」というカテゴリーは、ますますメジャーになってきて、読響も今年に入ってからだけでもマリー・ジャコやステファニー・チルドレスら新鋭マエストロをゲストに迎えている。実力があれば、女性ということが武器にもなる時代。ヴィンツォーの経歴を見ると、24歳でダラス響のルイージの副指揮者に就任し、ムーティやズヴェーデンのマスタークラスに参加という記述があるが、師の教えをスポンジのように吸収し、与えられた可能性の中で最高の表現を目指してきたのだろう。
どんな仕事も、周囲の応援やスカウトがあってこその出世だが、まず本人が「何を目指しているか」が重要なのだと気づかされた。後半のドヴォルザーク「交響曲第8番」では、オーケストラを完璧に掌握し、曲の優美さや面白さを次々と聴かせるヴィンツォーの魔術に驚愕。リハーサルから素晴らしい高揚感だったのだろう。ドヴォルザークの中のワーグナー的な響きにもはっとした。オペラも振るという彼女、もしかしたら数年以内にバイロイトのピットに入っているかも知れない。最終楽章の冒頭のトランペットが、この指揮者の「私は勝つ!」という勝利のファンファーレに聴こえた。脳のノイズに毒されたり、余計な悩みを抱えなければ、この若さでこんな高邁な音楽を創り上げることが出来る。オーケストラからの喝采にぴょんぴょん嬉しがる仕草はまだ20代で、さきほどまで指揮台にいた「女皇帝」はどこへ行ったのか。読響との相性は抜群で、ヴィンツォーにとって素晴らしい夏になったはず。猛暑と湿気のひどい天候が続く中で、ホールの中だけは爽やかな夏の祝祭が繰り広げられた。
ドヴォルザーク 序曲《謝肉祭》から読響の全パートが強力なパワーを発していた。ノースリーブの黒いブラウスと黒いボトムスで登場したヴィンツォーは溌剌とした指揮で、立体的で熱狂的なサウンドをオーケストラから引き出す。奥にいる管楽器と打楽器が前に飛び出してくるような迫力があり、たくさんの種類の面白い音が聴こえる。10分ほどの曲だが、指揮者のスタミナがオケの迫力を引き出す様がありありと伝わってきた。理路整然とした棒で、柔軟性もあり、わくわくするイマジネーションを感じさせた。
モーツァルト『フルートとハープのための協奏曲』では、フルートのマチュー・デュフォーと読響ハープ奏者の景山梨乃さんがソロパートを演奏。ロココ絵画の抜けるような青空が見え、一気に涼しい気分に。モーツァルトは声楽曲も「素直に」歌うのが一番美しいが、ヴィンツォーの正確さにこだわる明晰な音楽作りはモーツァルトで活き活きとしていた。デュフォーのフルートは天上の響きで、景山さんのハープと溶け合っていつまでも聴いていたくなる。ホールの隅々まで柔らかい音が響き渡り、外気の蒸し暑さを忘れた時間だった。
個人的に正統派のアプローチというものが苦手で、指揮者もソリストもニッチな美学の持ち主が好みなのだが、どんなときも基礎をストイックに叩き込んだ音楽家は無敵だと改めて気づかされた。ヴィンツォーの後ろ姿からは、ローカルなポジションに収まるつもりなんかない、秘められた野心が感じられたのだ。
先日聴いたプラハ放送響では、若き熱血指揮者ポペルカのドヴォルザークがどことなく垢ぬけない印象で(濁り酒の味わいはあったが)国際的なキャリアを上っていったフルシャは最初から違っていたのか、途中から方針を切り替えたのか色々考えてしまった。棒一本で世界に殴り込みをかけるという生き方とはどういうものなのか。圧倒的な才能に加えて、コミュニケーション能力やひらめく知性、温かい人間性や冷静さなど多くのことが求められる。
少なくとも「女性指揮者」というカテゴリーは、ますますメジャーになってきて、読響も今年に入ってからだけでもマリー・ジャコやステファニー・チルドレスら新鋭マエストロをゲストに迎えている。実力があれば、女性ということが武器にもなる時代。ヴィンツォーの経歴を見ると、24歳でダラス響のルイージの副指揮者に就任し、ムーティやズヴェーデンのマスタークラスに参加という記述があるが、師の教えをスポンジのように吸収し、与えられた可能性の中で最高の表現を目指してきたのだろう。
どんな仕事も、周囲の応援やスカウトがあってこその出世だが、まず本人が「何を目指しているか」が重要なのだと気づかされた。後半のドヴォルザーク「交響曲第8番」では、オーケストラを完璧に掌握し、曲の優美さや面白さを次々と聴かせるヴィンツォーの魔術に驚愕。リハーサルから素晴らしい高揚感だったのだろう。ドヴォルザークの中のワーグナー的な響きにもはっとした。オペラも振るという彼女、もしかしたら数年以内にバイロイトのピットに入っているかも知れない。最終楽章の冒頭のトランペットが、この指揮者の「私は勝つ!」という勝利のファンファーレに聴こえた。脳のノイズに毒されたり、余計な悩みを抱えなければ、この若さでこんな高邁な音楽を創り上げることが出来る。オーケストラからの喝采にぴょんぴょん嬉しがる仕草はまだ20代で、さきほどまで指揮台にいた「女皇帝」はどこへ行ったのか。読響との相性は抜群で、ヴィンツォーにとって素晴らしい夏になったはず。猛暑と湿気のひどい天候が続く中で、ホールの中だけは爽やかな夏の祝祭が繰り広げられた。